−記憶の断片は直ぐに消え去る− まさか出会うとは思っていなかった。 お恵は旦那さまのご機嫌伺いから帰る途中で、彼は茶屋の店先で何人かの少年たちと団子を食べていた。 まさか、会うだなんて。 もう二度と会うことはないと思っていたのに。 「お恵さん?お恵さんでしょう?」 声を掛けられた瞬間、彼と目が合ってしまった。 その顔を思い出すのに、束の間かかってしまったけれど。 「お恵さん、僕のこと覚えてます?」 声の主にそう問いかけられ、そちらに目をやる。 綺麗なお顔。 初めて見た時そう思った。 だからこっちは、すぐに思い出せる。 「たかの屋で…」 そう言いかけて、名を知らぬことに気付いた。 彼もそのことに気付いたのだろう、にっこりと笑んで、「総司です。沖田総司」と名乗る。 「その節は本当にすみませんでした」 ぺこりと頭を下げられ、「いいえ」と首を振る。 あれは、疑われても仕方なかった。 「なあ総司、誰だよ」 団子を頬張りながら尋ねる少年に、総司は「また後で」とあしらう。 その間に、もう一度彼を盗み見た。 …綺麗なお顔。 しかし、総司の「綺麗なお顔」とは違う。 ただただ冷たくて、親しみの感じられない顔だ。 あの頃と同じ。 彼はこちらを見ようともせず、茶を飲んでいる。 「その後、お変わりはありませんか」 丁寧な口調で総司に聞かれ、お恵は「ええ」と答えた。 事実、変わりはない。 「ぼっちゃんは?」 そう尋ね返すと、彼は照れたようにはにかんだ。 「ぼっちゃんだなんて、嫌だなあ。ただの百姓倅ですよ」 その様子があまりにもかわいらしく、お恵は思わず頬を緩めてしまった。 「土方さんもそんな仏頂面下げてないで、ご挨拶したらどうですか」 恐らく照れ隠しで彼に話を振ったのだろうが、そのせいでお恵は小さく息を吐かねばならなかった。 そうでもしないと、久方ぶりに聞く彼の名に動揺してしまいそうだったからだ。 しかし、彼は少し眉を寄せ、「いらねえ」とぼやいただけだった。 「いらねえだなんて、そんな失礼な。すみません、お恵さん。この人はいつもこうなんです」 「いいんですよ、ぼっちゃん」 いらねえ。 まったくその通りである。 見知った顔なのに、今さら挨拶などいらない。 ぶっきらぼうな彼の声音を聞き、お恵はもう立ち去ろうと思った。 だから、総司に向かってさよならを含めた笑みを送る。 そして総司は、その意味を正しく受け取った。 「お子さんが待ってるんですね」 「ええ」 「それでは」 「さよなら」 最後にもう一度。 彼の顔に目を走らせる。 すると、彼もこちらを見返した。 「………」 何を思っているのか、まったく分からない。 しかし、しかし。 お恵はつい、と息を吸う。 終わったのだ。 彼の瞳を見ても、騒ぎそうで騒がなかった胸をするりと撫でた。 以来、何の連絡も寄越さなかった彼。 再会した今も、知った素振りを見せない彼。 けれど、恨みも憎しみも、愛しさも喜びも、何も感じない。 あるのは微かな懐かしさだけ。 お恵はわざと大きく下駄を鳴らし、足を前に出した。 そうして、一歩ずつ彼から離れていく。 記憶からも、離れていく。 帰ろう、と思った。 あの子が待つ家に。 唯一、彼の記憶を留めるあの子が待つ家に。 お恵はあえて数年前、彼と共に生きたあの頃を思い出そうとしてみる。 が、おつむの中をどう探っても、確かなものは出てこなかった。 苦笑いを浮かべる。 「やれやれ、消えちまった」 【終】 |