−満月をなぞるしなやかな指− 舞を共に。 そう、彼女に誘われた。 けれど、二人とも舞を舞ってしまったら、楽はどうするのか。 「わたくしが今様を」 そう言って微笑んだ彼女。 その途端、もうどこにもいない女のことを思い出してしまった。 ――美貴。 白舞は手に持っている扇で口元を隠した。 夜にだけ灯される柔らかな明かりの中で、その白扇は鈍く光る。 ――もう、お前はいない。 なあ、お前はもう、向こうの俺を好きになったのだろうか。 胸の内でそう問いかけ、返ってきやしない答えを待ち続けてはや一年。 代わりのように現れた彼女をこの邸に住まわせるようになって、やはり一年が経った。 すぐに… 白舞は目の前の女を見る。 白拍子であるがために男の格好をし、烏帽子まで頭に乗せた美しき女。 すぐに、彼女が美貴だと分かった。 門の前で佇んでいた彼女を躊躇いもなく邸に留めさせ、彼女の中に美貴を見いだそうとした。 しかし、結果はどうだろう。 彼女が美貴に見えることはある。 しかし、美貴ではない。 姿が、声が、しぐさが、彼女とはまったく違う。 それを確認する度、虚しさで胸を抉られた。 どうして違うのだ。 なぜ、お前は美貴ではない? そう思い、しかしそれは己の勝手な思いだと自覚していたから、あくまで彼女を丁寧にもてなした。 けれど、そろそろ辛いかもしれない。 「白舞さま、いかがなさいましょう」 鈴の音が鳴るような、とはよく言ったものだが、彼女の声は鈴というよりも琴のようだ。 それ自体が楽のように、起伏を伴う。 白舞は「ああ」と呻くように答えた。 「いいだろう。今様だな?」 「はい。では」 彼女はそう言って、するりと立ち上がった。 白舞も、立ち上がる。 こうして見ると、二人はまったく同じ格好をしていた。 白の狩衣と、烏帽子。 手に持っている扇まで同じ色だ。 なんだかな、と白舞は内心で苦笑した。 「では」 彼女が扇を広げる。 そして、静かに口ずさんだ。 君が愛せし綾藺笠 落ちにけり落ちにけり 賀茂川に川中に それを求むと尋ぬとせしほどに 明けにけり明けにけり さらさらさやけの秋の夜は 唄と共に、二人は舞う。 観客など、いない。 ゆるりと手を、足を、首を動かす。 誰も見る者などいないのに。 否。 白舞は対面している彼女を見つめた。 そして彼女もこちらを見つめる。 紅を差した目元が、妖しげに細められる。 ――彼女は俺を見ている。 そう感じると、なぜか泣きたくなった。 なのに、目を離せない。 さらさらさやけの秋の夜は 唐突に、舞が終わった。 そこが終わりだと知っていたにも関わらず、唐突だと感じるほどあっけなく。 白舞は手を下ろした。 そのまま、部屋から出る。 ──山吹色だ。 満月は、色付いた山々のように鮮やかな色をしていた。 隣に、彼女が並ぶ。 「この世に完璧なものがあるとすれば、それは満月だけでしょうね」 ああ、と頷く。 あの丸い輪郭だけは、ただ一つ、完璧なものだ。 今の白舞のように、人の顔を上げさせる。 否応なく、その控えめな美しさをもってして、心を奪っていく。 そんな満月は、魔性の女のようだ。 ふと、彼女の腕が上がった。 しなやかな指が伸び、月の輪郭をなぞるようにするりと滑る。 その動きは、まだ舞を舞っているかのようにあでやかだった。 ただ、見とれる。 「あなたさまは、どなたを見ているのでしょうか」 ぽつりと、まるで独り言のように呟かれた。 明らかにそれは己に向けられたものであるにも関わらず、尋ねたくなる。 誰に聞いている、と。 「わたくしを通じ、一体どなたを想っていられるのでしょう」 「………」 答えられやしない。 だから黙る。 目を伏せ、満月のようなその美しさから逃げるしかない。 そんな白舞をちらりと見て、彼女はふう、と微かに笑った。 「よしましょう。わたくしはあなたさまを困らせたくありません。どうかお許しを」 「許すも何も…」 俺が謝るべきなのだ。 うなだれる。 彼女に罪はないのに。 彼女はしかし、もうそれ以上は何も言わない。 白舞は、そっと唇を噛みしめた。 忘れたい。 けれど、忘れたくない。 もう叶った、けれど二度と叶わない恋。 苦しかった。 好きだった。 今でも泣きたいほどに。 しかし、いい加減、そろそろおしまいにしなくては。 「俺は今宵の月を好きになろう」 【終】 |