−濃密な黒− 主と初めて会った時、ああ、と思わず目を細めてしまった。 なんて黒が似合う人だろう、と。 黒の着流しに黒の鼻緒の下駄。 黒い瞳に黒い髪。 すべてが似合って、すべてが美しかった。 「これからよろしく頼むぜ」 小首を傾げ、薄い唇を三日月の形に持ち上げた笑みも、彼に似合っていた。 この方が、隠密廻りだって? 半ば信じられない気持ちだった。 何しろ、彼は己より五つか六つほども若く見えたのだ。 実際、歳を聞いてみれば、どんぴしゃであったので、友の「おめえ、岡っ引きに向いてんじゃねえか」という言葉も、あながち間違いではないのかもしれない。 「この度手札をお預かりすることになった、弥吉です。どうぞよろしくお頼みしやす」 ぺこりと頭を下げる。 すると、「でけえなあ」と声が降ってきた。 「おめえさん、頭を下げたって、俺とそう変わらねえ。相当背があるんだな」 嫌みではなかった。 少なくとも、弥吉には嫌みとして聞こえなかった。 頭を上げると、笑みを浮かべたままの彼がいる。 思わず生唾を飲み込んでしまった。 なんてえ妖しい… 「旦那も…背は高ぇ方でしょう」 「まあ、そうかな」 「………」 会話が続かない。 彼は黙ってこちらを見ているだけで、口を開こうとする気配はまったくない。 なんだか居心地が悪かった。 このお方に、俺はついていかなきゃなんねえってのか。 これからのことを考えると、なんだか心が重くなった。 まだ、始まったばかりだというのに。 「岡っ引きの経験は」 唐突に、そう問われた。 「ないです」 「そうか。俺もこのお役目は初めてだ。ついこの間、正式に隠密廻りってえお役目をいただいたばっかりでさ」 「へい…」 彼の真意が分からない。 大体、彼の初めてと自分の初めてを一緒にしてもらっては困る。 彼は再びくすりと笑った。 「そう気張るな。おめえさんには、俺を友と思って行動してもらわねえとならねえ時があるんだ。そうかちこちになってると、仕事に差し障りが出る。気ぃつけな」 「…へい」 このお方を友と思って? 無理だ、と即座に思った。 こんな、会って小半時と経たないうちから「得体の知れない男」という印象を持ってしまった主を友と思えだなんて、無理がある。 「仕事だからな」 彼は、弥吉の心を見透かしたかのように、そう言った。 「仕事はきっちりこなさなきゃなんねえよ、弥吉親分」 −−親分。 その響きには、まだ慣れない。 しかし、気持ちは引き締まる。 ぴしりと鞭で叩かれたように、体に力が入る。 だから、「へい」と大きな返事をしてみた。 彼は艶やかに笑んだまま、「頼むぜ」と再び言う。 「それで旦那、仕事の内容は?」 「まだ決まっちゃいねえ。が、そのうちに舞い込んでくる。厄介で、だがヘマは許されねえ仕事がな」 そう言った彼の笑みは、さらに妖しかった。 妖しすぎて、どこか悲しげにさえ見える。 弥吉は一つ、瞬きをした。 そうでもしなければ、その笑みに見とれすぎて、目がからからに乾いてしまいそうだったのだ。 ったく、男だってえのに… 思わず苦笑する。 なんだって、こんなすごい美男に生まれついちまったのかねえ。 その美貌は、もはや羨ましくなどなかった。 ここまで美しいと、必ずや何かのお咎めを受けてしまう。 神や仏に愛されながら、彼らに憎まれてしまうだろう。 気の毒なこった。 そう、思ってしまう。 綺麗すぎるのも、考えもんさぁね。 「どうした。なんたっておめえさんは、そんなに気の毒そうな顔をしてるんでえ」 ふと、彼にそう問われた。 思わず己の頬に手をやる。 そんな、あからさまな顔をしていたのだろうか。 「いえ、これからのことを考えていただけでやす」 「そうかい」 それ以上は、突っ込んでこない。 彼は、弥吉からふっと視線を外した。 目を伏せた彼を見下ろしながら、その頭に目をやる。 御家人には珍しく、月代を剃っていない。 髷なんざ、結わなければいいのに。 唐突に、そんなことを思う。 唐突ではあったけれど、結構本気で思ってしまう。 髪なんざ下ろしちまって、その気の毒なお顔を隠してりゃいい。 そうすれば、少しはその罪も隠せるだろう。 そんなことを考え、考えた自分に呆れてしまう。 おいおい、何勝手なこと考えてんだ、と。 「弥吉」 主が呼ぶ。 「へい」 「まあまずは一献、主従の契りでも交わしに行こうじゃねえか」 彼の目線が、弥吉に戻ってくる。 今度は少し、艶やかさが消えたようだった。 弥吉はほっと胸を撫で下ろしながら、頷く。 どうか、このお方が罪に問われることのないように、と。 その濃密な黒に、すべてを隠して。 「旦那は、黒がよくお似合いで」 【終】 |