羨望
父が死んだ。母も死んだ。
もう昔の話だ。
特に名家とは言えないけれど、そこそこの官位をいただいている中流貴族である伴家の主となったのは、十六の時。
その時から俺は、仮面を被った。
*
「白舞、蹴鞠を取ってくれ」
内裏の異様に白い石が敷き詰められた中庭にて。
ふと、何かが目の前に落ちてきた。
何かと思えば、鹿の革で作られた蹴鞠だ。
俺はかがみこみ、それを手に取った。
「白舞、蹴ってくれ」
離れた所で四、五人の公達がこちらを見ている。
その中に友、公仁がいるのを見つけ、俺はそちらに向かって思いっきり鞠を蹴った。
それは青い空に一瞬瞬き、公仁の方へと吸い込まれていく。
「ありがとう」
溌剌とした、若々しい声音で礼を言われる。
しかし俺は軽く片手を上げただけで、そちらへ行こうとはしなかった。
…もし父上たちが生きていたら、俺もあの中に入っていたのだろうか。
そんなことを考え、考える自分にほとほと呆れながら。
「なかなかいい蹴りじゃないか」
ふと、後ろから声を掛けられる。
その唐突さに驚きつつ振り返ってみれば、そこには思いもかけない人がいた。
「参議…さま」
「ああ…まだ慣れないね、そう呼ばれるのは」
くすりと袖を口元に当て小首を傾げるのは、かの光源氏の再来かとも呼ばれる当代一の美男、藤原葉月参議だった。
彼は最近、参議に昇進したばかりである。
もう十年ほど前に起こったある事件のせいで、普通ならもっと上の官職までいただいていてもおかしくはない彼は、昇進が遅れていたらしい。
そんな参議は、実の父も義理の父も大臣職という、大貴族の家柄である。
「兵衛佐どの」
優雅に微笑んだまま、彼は一歩近付く。
そういえば、初めてだ。
この方とまともに言葉を交わすのは。
なんせ、俺のような中流が気安く声を掛けられるような方じゃないからな。
「あの中に入らないのかい?」
そう言って、ちらりと公仁たちを見る。
彼らは楽しそうに笑いながら、高く高く鞠を蹴っていた。
「そんなにいい蹴りをしているのに」
どうやら彼は先ほどの光景を見ていたらしい。
しかし、俺は小さく首を振った。
「…私にはやらねばならぬことが山とありますゆえ」
だから、あなたとも話している時間などないのです。
そう、裏に込めたつもりだった。
なのに、参議はそれをどう取ったのか、不意に俺に背を向けた。
一言、
「おいで」
と優しく笑いながら。
*
俺は、彼に付いていかないではいられなかった。
その理由の一つは、参議が俺よりもずっと上の位であったこと。
そしてもう一つは、有無を言わさぬその口調である。
優しげなその声音の裏に、「逆らったら許さない」という言葉があるのが見えた。
それは、身分ある者特有の威光か。
それとも、彼だからもっているものだろうか。
「さあ、着いた」
ゴトン、という牛車の止まる音と揺れ。
参議の牛車に乗せられていた俺は、彼が先に出るのを待って、少し息苦しい箱から出る。
――降りた俺の狭い視野に広がったのは、広大な庭だった。
目の前には寝殿がどっしりと構え、しかもそれはまだ新しい。
寝殿とは反対方向に目をやれば、池がある。
小島が浮かび、朱色の橋が。
俺はその景色を美しいと感じた。
しかし、その「美しい」にはたぶん、皮肉と妬みが混じっていたように思う。
「まだ建てたばかりだからね。でも、美しく見えるのは今だけだよ」
静かに参議が横に立った。
彼は俺の心を見透かすかのような発言をする。
何気なく参議に目をやると、いくつか年上の彼は、俺より少し小さかった。
…幸せな人生なんだろうな。
ふと思う。
昔はいろいろとあったようだが、それでも彼は今、幸せなのだろう。
俺よりも背の低い参議を見ながら、やはり心の隅が黒く蠢いた。
「今日、君を呼んだのは――」
「葉月」
ふと、軽やかな女の声が風に乗って聞こえてきた。
それは参議の言葉を遮り、その途端、彼の顔に苦笑が浮かぶ。
俺たちは振り向いた。
「蹴鞠、やるんでしょ?だったらあたしも入れてくれなきゃ」
「睦月。客だぞ」
あら、と女は顔一杯に笑み。
俺は面食らってしまった。
「ということは、あの…こちらの女人が…」
眉を僅かに潜め、参議を見ると、彼はまたもや微笑んだ。
「北の方、睦月だ」
――参議の、正妻。
いくら俺でも知っている。
当代一の変わり者だということくらいは。
――なんでも、顔を隠すことなど知らぬという女人らしい。
誰かがそう噂していたのを思い出す。
そして今、そのことを、身をもって理解した。
「葉月、そちらの方は?」
北の方が、そう首を傾げる。
俺は彼女を直視できず、深々と頭を下げた。
「兵衛佐、伴白舞どのだ。兵衛佐どの、そう固くならなくていいよ」
「しかし…」
「葉月がいいって言ったらいいのよ。ほら、顔上げて」
童のような無邪気な声に圧され、俺はゆっくりと顔を上げた。
すると、穏やかに微笑んだ二人が目に入った。
幸せな…幸せそうな二人だった。
「それじゃ」
ふと、参議が蹴鞠を持っているのに気付く。
なぜだろう、と考えていると、唐突にそれがこちらに飛んできた。
参議が軽やかに蹴ったのだ。
思わずそれを、胸に抱き止める。
ぽかんとしている俺を見た彼は、普段の穏やかな物腰からはおよそ想像もできないほど、意地の悪い笑みを浮かべた。
「来い」
「来いって…」
再び面食らった。
来い?
参議らしくもない、乱暴な言葉だ。
「蹴鞠をしないなら、俺はお前の官位を取り上げる」
「………」
俺は我が耳を疑った。
まさか、参議のような柔和な方から脅しの言葉を聞くことになるなんて…
しかも、一人称が「俺」に変わってしまっている。
優雅で優しく、まさに才色兼備な方。
そんな印象がガラガラと崩れていくのを前に、俺はただただ身を固くするしかなかった。
すると、参議は舌打ちをする。
「本当にやるぜ。お前が必死で守ってきたものを、俺なら簡単に奪える。そのことを忘れるな」
――ふざけるな。
傲慢、不遜、倨傲。
参議の口調からそれらを読み取った俺は、思わず手の中にあったものを思いっきり蹴飛ばしていた。
上質な革でできたそれは、乱暴に、彼に向かっていく。
「そうでねえとな」
参議がやれやれと呟いたことを、俺は知らない。
*
それから小半時も経っただろうか。
気付けば、足がじりじりと痛み始めていた。
「休憩にしよう」
参議の一言で、俺たちは寝殿の階(きざはし)にと座り込む。
結局、側で見守っているだけだった北の方も、参議の横に腰を下ろした。
「…疲れただろ」
ふと、参議が言葉を落とす。
それには、先ほどの嫌な驕りなど、かけらも入っていなかった。
「…はい」
「それでいい」
…するっと秋の風が頬を撫でていく。
じわりと汗をかいた体に、その風は気持ちが良かった。
「お前は」
再び、「お前」。
参議がこのような言葉遣いをするなどと、俺が言い触らしたとしても誰も信じないだろうな。
ぼんやりと、そんなことを思い、なぜか笑いたくなった。
「お前は、今年いくつになる?」
「二十でございます」
「そうか、二十か。なのに、お前は蹴鞠さえもしないんだな」
その言葉の裏にある言葉。
それを読み取れないほど、俺は無能ではない。
「…もう、童ではありませぬゆえ」
そう。
親の庇護の下、のうのうと暮らしてはいけないのだ。
ましてや、蹴鞠などで遊んでいることなどもってのほか。
自分の身を自分で守るには、必死でこの世に食らいついていかなければ。
「…本当なら、一番遊びたい時期だろうに」
参議はそう言って、鞠をぽんと投げた。
それが彼の手に再び戻ってくるのを見て、悟る。
――だから参議さまは俺をここに連れてきてくれたのか。
「…仕方がないことです。両親が亡くなったのが病であったとしても…それが寿命だったということですから」
両親は流行り病で亡くなった。
俺と妹の良子にうつらなかったのは、不幸中の幸いだったと言われたものだ。
だから、恨んでなどいない。
病を、両親を、運命を、恨めしいとは思えない。
たとえそれが、俺から余裕と暇を奪っていったとしても。
「あなたは…」
不意に、北の方が俺を見つめた。
物怖じしない、真っ直ぐな瞳。
こんな世ではそうそうお目にかからない、利発そうな女だ。
「あなたは、葉月と少し似ているのね」
「私が?」
驚く。
俺のどこを見て、参議のような立派な方…かどうかは怪しいが、少なくとも人生の成功者とも言える方と似ているなどと言えるのだろう。
「あなたも、いろんなことを我慢してる。少し前の葉月とよく似てるわ」
にっこりと笑った北の方から参議の方に目を移すと、彼は苦笑いを浮かべていた。
「我慢…」
確かに…我慢はしている。
いろいろなことを、いろいろなことによって我慢せざるを得ないからだ。
しかし、世の中はそんなものじゃないのだろうか。
こんなつまらない世で、我慢していない人間など、いないような気がする。
参議とて例外ではないだろうが、それでも俺と似ているとは思えない。
「まあ、俺にはその我慢を解ける場所があるからまだいい。だけど、お前は違うだろう?」
がさつな口調の彼の言葉には、優しさがにじみ出ている。
…ああ、そういうことか。
「今日、お前を見て、少しでもその荷を下ろしてやりたかった。どうしても他人事だとは思えなかったんだ」
急なことをさせて悪かったな。
そう、頭を下げられた。
俺は頭を振る。
「謝らないでください。そんな風に気に掛けてくださって、ありがとうございます」
でも。
「…私はまだ、参議さまのようにはいきません」
友の前でも、妹の前でも、気を張らずにいることはまだできそうもない。
肩肘を張って日々を過ごしていくことこそが、俺の生きざまなのだ。
少なくとも、今は。
「そうか」
参議はそう呟いた。
こちらを見ることなく、傍らにいた北の方の肩をそっと抱いて。
「いつか、俺みたいになれよ」
あくまで冗談っぽく。
しかし、嫌味ではない。
俺は立ち上がり、参議に向き直った。
「二重人格にはなりませんよ」
「当たり前だ。俺の真似なんぞ、するんじゃねえ」
そっくり返る参議の腕に、北の方の拳が入る。
調子に乗るんじゃないわよ、と彼女は白い目だ。
その光景を見て、素直に羨ましいと思った。
俺にもいつか、あんな風に過ごせる日が来るのだろうか。
「それじゃ、そろそろ」
「ああ。たまには家に招待してやるよ」
「楽しみに待ってます」
にっこりと、嫌味を込めて笑う。
しかしそれは、余裕の笑みに一蹴されてしまった。
やっぱり、参議には敵わない。
俺は静かに庭の小石を踏みしめると、彼らに背を向けた。
*
遠ざかっていくその背中を見ながら、葉月は睦月の肩に置いた手に力を込める。
「あいつ、あのままだと壊れるな」
「そうね、あのままだとね」
睦月も頷く。
しかし、その口調はどこか楽しそうだ。
「でもあの子、そろそろ来るんじゃない」
「何が?」
「運命ってやつ」
そう言って眩しそうに目を細めた時、とっとっとっという軽やかな足音が二人の耳に入ってきた。
「母上」
「あら、弥生。みけと遊んでたんじゃないの?」
みけとは、その名の通り、猫のことである。
しかし、その猫の名を聞いた途端、三歳の弥生と呼ばれた童は瞳に涙をためた。
「どっかに行っちゃった」
「あらー」
苦笑いを浮かべる睦月。
そして、いとおしそうに弥生を抱き寄せた。
「そのうち戻ってくるわ」
「ほんと?」
「ほんとよ。ほら、父上が約束してくれるって」
「俺は知らんぞ」
「あんた、親でしょ。そこは話を合わせるとか――」
「知らねえよ。よし弥生、蹴鞠やるぞ」
「けまり?」
「おう。父上が徹底的に教えてやる」
葉月は睦月から弥生を受け取ると、そのまま庭へと繰り出していった。
その背に降り注ぐ日の光が眩しくて、睦月は手をかざす。
そして、先ほどの青年へと思いを馳せた。
*
数日後。
「…なあ良子」
「何でしょう、兄上さま」
「小倉山にでも行かんか?」
「それはいいですけど…なんでまた」
「いや…なんだかとても大事な人に逢う気がするんだよ。たぶん、一生忘れられないような――」
【終】
あとがき。
いや、長かった!
ここまで目を通してくださった方、本当にありがとうございます。
旧サイト「こてんこてんこ」10000hit&新サイト「一二三」開設記念ということで、ちょっと絡ませてみました。
なんだか書いてる途中で「葉月ってこんなキャラだったか?」と不安になったり…
本編と性格が違ってましたら、まあ許してやってくださいませ(土下座)
それでは、今後ともうぐいすをよろしくお願いいたします!
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