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「豪炎寺、彼女来てるぜ」
休憩でベンチに戻る俺を、仲間が冷やかす。
フェンスの向こうに目をやると、同じ学部の紫野原亜彩が手を振った。
「……どうした」
ドリンクを手に近づく俺に、亜彩が遠慮がちに切り出す。
「練習中ごめんね。6時からの手術、面白い症例だからって父が…………一緒に見に行かない?」
R大病院理事長の顔が一瞬だけ浮かぶが、サッカーにスイッチした脳内を瞬時に通過しただけだ。
「練習に集中したい。悪いが一人で行ってくれ」
「そう……よね。明日の試合、頑張ってね」
「ああ、有難う」
亜彩に背を向けベンチに戻る。
それと同時に今のやりとりも、すぐに意識の外へと消えた。
彼女は恋人ではないし、俺の中での学業とサッカーの比重は同じだ。
キャンパスも、グラウンドも、附属病院も―――すべてが一つの拠点に集まるR大に進んだのも、やりたいことを全部やるため。
おかげで大学生活に不自由はなかった。
だが不自由がないことは、自由であることとは違う。
―――いつからだろうか。
俺の奥底には、そこはかとない渇望と怒りが棲みついている。
渇きを紛らわせるためにサッカーを続け、怒りを消滅させようと、父と同じ道を選んだ。
周囲の期待に塗り固められた二つのレールを一気に駆け抜けようとするが、未だに振り切れない。
ゴールのない突破を目指す自分を、突き動かすのが何なのかさえ、考えることもなかった―――アイツに出会うまでは。
「俺に、兄……ですか?」
「まあ役割上そうなるが、実のところは患者だ。治療のため預かることになってな」
父が冗談を言う筈ないのはわかってる。
大真面目な治療の話と聞いて一応納得した俺に対して、父の顔色は冴えないままだ。
「元はと言えば紫野原理事長が預かった患者なんだが……問題を起こして、此処で引き取ることになった」
「問題……とは何です?」
「亜彩さんを知ってるだろう……?」
含みのある言い回しを無視して、俺は表情を変えずに頷く。
「その患者は、一緒に住む彼女の妹を誘惑したそうだ」
そこから先の説明も思考では受け止めるが、心にしっくりこない。
その“彼”はどうやら紫野原家の親戚らしい。
なのによそよそしく“患者”と呼ぶ医者同士の会話が、自分の感覚にそぐわないからだ。
親戚とはいえ、不安定な精神の青年を同じ年頃の娘と住まわせるのは不安だから……とか、何故率直に言わないのだろう。
厄介ごとに巻き込まれた父はさておき、俺は同い年の青年が家に来ることに、さほど抵抗はなかった。
学部は違うが同じR大二年で、しかもサッカーが得意だと聞いたから、尚更だ。
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