3
その翌朝から、彼は僕の“弟”に戻った。
スイッチを切り替えるように、スッパリと。
相変わらず甘えベタで甘やかし上手な弟だったけど、彼は常に真っ直ぐに僕と向き合い、いつでも僕の傍らにいてくれた。
かけがえのない絆――――僕がこの家に来て最初に“兄弟ごっこ”を持ちかけた時に望んでいたのは、こういう関係だった筈。
なのにいつのまにか違和感が生まれてる。
心細い夜に僕がねだれば、ベッドで一緒に寝たり、抱き寄せてはくれるのに、キスやそれ以上のことはしてこない。
それは当たり前なことなのに、僕は心の奥底で身勝手な不満を募らせていた。
それでも兄弟ごっこを続けて、もう一年がたつ。
単位もだいたい取り終えた僕は、去年の暮れからすでに卒業製作の準備でギャラリーにこもりがちだった。そこへ久しぶりに訪ねてきたのは亜彩さんだ。
「お邪魔してごめんなさいね」
豪炎寺家の身内とここのオーナーの久遠さん以外の知人の顔を見るのは久しぶりで、すこしぎこちなく接する僕に亜彩さんは楽しげに笑いかける。
僕がコーヒーを用意しているあいだも、ギャラリー二階の倉庫内スペースに所狭しと並んだ僕の抽象画を興味深げにに眺めていた。
「それはまだ………作品とは言えないよ。アクリル絵の具でいろんな技法を試してるだけで……」
作業机の画材をどかしてコーヒーカップを置きながら僕は云う。
「そうなの?でも何かテーマがあるんじゃなくて?」
「………それも………ないよ。本当に気の向くままさ」
ぎくりとしながら僕は答えた。
気の向くまま表現したいのに、結局同じところを堂々巡りしている自分の心情を見透かされたような気がしたのだ。
「リトグラフはもうやらないの?」
「………やりたいけど、今は………なんか………もっと違う表現力を磨きたくて……」
これも言い訳だった。
リトグラフ制作には迷いない意思が必要で。行き場を無くして彷徨している今の僕には作れないというのが実情なのだ。
「あ、この白いラインがきれいね。ほらここにも………何を表しているのかしら?」
「それは光………かな」
「そうなのね。あまりに綺麗で、天使の羽かと思った…………それかあなた自身」
僕はドキドキしながら絵を見回した。
ほとんど全部の絵の核となる部分に、僕はその白を無意識に入れていた。
混沌に一筋の希望を求めるかのように。
「彼のことだけど…………相変わらずなのよね」
気の済むまで絵を見つめた後で、亜彩さんは急に話題を変える。
彼とは豪炎寺くんのことで………ある意味これが彼女本題にも思えた。
「彼は一途な人だから。でもうちの父も負けずに頑固で、彼を諦めようとしないし……」
リアクションに困って首を傾げる僕に、亜綾さんは続ける。
「ずるいけど、私は待つわ。父の熱意に負けて、豪炎寺くんが私のところに来てくれるのをね」
牽制されているのだろうか…………いよいよ困って下を向く僕。
「可笑しいわよね。私の魂胆はキャンパス中に知れ渡っていて、正直恥ずかしい。でも彼はそれほどの男なのよ。私は皆に笑われたって、彼の隣を歩ければそれでいい」
僕がゆっくり顔を上げると、彼女はこっちを見ずに、作品を真っ直ぐ見つめていた。まるで、作品に投影された僕の豪炎寺くんへの思いに戦いを挑むかのように。
彼女の横顔を見ながら、僕はまるで自分は抜け殻で、魂が作品の中に吸い込まれてしまってるような錯覚に囚われていた。
亜彩さんが帰ってから一人で改めて僕の絵を見渡すと、豪炎寺くんへの思いが丸見えな気がして、すごく恥ずかしくなる。
「…………やだな………欲求不満まるだし………」
頬が熱くなると同時に、なぜか身体も異変を覚えた。
そんな自分から目をそらそうとしても、身体は正直だ。ズボンの中がムズムズ疼いて…………
「…………はっ………ぁ………」
ズボンの隙間から滑りこませた手で、股の間で尖る先端に自ら触れて、肩をびくりと震わせる。
ああ、僕、こんなとこで何してるんだろ。
この部屋にある自分の絵に、隠しきれない本心を炙り出され煽られているなんて、ただの変態じゃないか。
「ふふ、自分の作品にエクスタシーか」
久遠さんの声に、僕はハッと我に帰る。
「ハッ!いえっ……」
「続けて構わないよ」
濡れた片手を後ろ手に隠した僕は、不意に視界が遮られて固まった。
久遠さんの体温に覆われて………つまり抱きしめられているのだと悟り、動揺のあまり動けなくなっていた。
「よければ手伝おうか」
「…………いえっ………あの……」
「深く考えなくていい。俺は手を貸すだけだ。今このギャラリー内に君の作業場を貸してるのと同じ―――」
――――――違う。
そう訴えたいのに声が出ない。
ズボンのウエストを下へずらすように腰を撫でてくる冷たい手に、僕は戦慄した。
「や……めてください!」
弾かれたように、久遠さんの腕を振りほどいて飛び退く僕。
これは“彼”じゃない、と手のひらの温度が本能に訴えたのだ。
「ごめんなさい!」
思考は停止したままだったけれど、防衛本能に駆られた僕はギャラリーの階段を転げ落ちる勢いで降りて外へ出た。
ごめんなさい、発端は僕の愚行なのに――――。
家に戻ってからも、思考は止まったままだった。
先に帰っていた彼が用意してくれていた食事にもろくに手をつけずに、バスルームに入った。
身体をきれいに洗い流しても、疚しい熱は肌の奥にこびりついたままで。
もて余した身体を抱えた僕は、助けを求めるように弟の部屋へふらふらと入っていった。
← →
clap
→contents
公式いろいろ
→top