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あの夜のことはファンタジー、非日常の世界のできごとだ。

豪炎寺くんといくところまでいきついた幸せな夜。
でも朝になってホテルを後にすれば魔法がとけて、いつもの関係に戻る………はずだった。

あの日のこと全部夢だと思おうとしたのに、僕は失くしものをしたようだ。
理性とか意志とか………ブレーキになるものが、なにひとつ僕の元から消えている…………



新学期。
春休みの間だけの、短期のつもりで始めた画廊のバイトに、今は入り浸っているといっていい。
雇い主は大学の講義で出会った久遠さんという人で、元講師ということもあって信頼がおけたし、画廊の裏にある作業部屋を自由に使わせてもらえるのも大きな理由のひとつだ。

「いらっしゃいませ………って、あれ?沙彩ちゃん……」

「あら?天使が地上に降りたのね」

画廊への来客に目を丸くする僕を見るなり、沙彩ちゃんも目を丸くして言う。

「どうしてここが……」

「雨に降られちゃった。ここでお姉ちゃん待たせてもらってもいい?」

「…………いいよ」

僕はポケットからハンカチを出して、彼女の濡れた通学鞄と楽器ケースを拭いてあげる。

――――亜彩さんだ。
僕がここで働いてることを、沙彩ちゃんは姉づてで知ったに違いない。
てことは、もっと色々なことも姉妹の間で筒抜けなのかも―――

「もしかして豪炎寺さんと何かあった?」

「………っ」
沙彩ちゃんはいつも直球だ。一番隠したいことを訊かれた僕はギクリと手を止める。

「あったと言えばあったけど……それで何か変わる訳じゃないよ」

「嘘よ。吹雪さんすごく変わった」

「…………」

それは自分が一番わかってた。だから彼女の言葉が胸に刺さって、切り返すことができない。
正直自分の心がどこか浮かれているのも否めなかった。
結ばれない相手と触れあうのを、ひそかな幸せとして噛みしめる毎日を今も送っているのだから。

「まさかお姉ちゃんに遠慮してるんじゃないよね?」

「ないよ。そもそも僕の出る幕じゃないもの」

「ふーん………」

沙彩ちゃんは不服げに黙った。

人のものを横取りしといて何事もなかったように元に戻そうとしてるのだから、気を悪くされても当然だと思う。
豪炎寺くんとお父さんの関係がよろしくないことだって、僕のせい。
すべては僕が彼をすきになってしまったせいだ。

「余計な気を回さなくてよくない?お姉ちゃんだって、同情で吹雪さんのおさがり貰っても嬉しくないと思うし」

「っ……沙彩ちゃん、そんな………」

“おさがり”という言葉がヘンに生々しくて慌てる僕。
そこへガラスのドアを押して、亜彩さんがギャラリーに入ってきた。

「吹雪くん、お世話かけてごめんなさい。ほら沙彩」

亜彩さんは、僕に頭を下げながら妹の傘を後ろ手に手渡す。
お客さんはいないのだけど、場違いにはしゃぐ妹を諫めるような雰囲気があった。

亜彩さんは、週に一度は一人でここを訪れている。
絵画が好きだと語り、飾られた久遠さんの作品や僕の作業場にあるものを見に来るんだ。
特に僕のつくりかけの作品を一つ一つすごく興味深げに――――

「この間のリトグラフ、もう何枚か刷ったのかしら?」

「あ、あれはまだ…………来週来てくれれば試作がいくつかできてるかな」

僕は少し嘘をついた。
試作は今日刷り始めたのだけど、まずはそれを家に持ち帰って自分で一晩眺めたい。
人に見せるのは、それからだ。
僕は愛についてのリトグラフを描くことで、自分の想いを客観視しようとしていた。
まるでそれを自分自身で許容できるか否かを突き詰めるかのように―――


「お前の作品、変わったな」

「え、どこが………」

「色も線も全部だ」

僕が自分の部屋に持ち帰ってきた作品を見て、豪炎寺くんがそう言う。

「…………そうかな?どんなふうに?」

「生き生きと揺れていて、見ていてこっちもざわつく。これがお前の内面というなら………堪らないな」
そう言いながら彼は僕を背中から抱きしめる。

「………今日、いいか?」

「…………え………」
返事はかえせないけれど、断れるはずもなかった。


弾む息………

絡む熱と、分泌に塗れる体内と肌のあちこち。

僕の身体はいつだって悦んで豪炎寺くんを受け入れる。

彼も言葉で気持ちを訊かずにただ僕の身体の奥まで潜りこんでくる。そして内からも外からも快感に陥れながら、無言の会話を肌で繰り返すんだ。


「また……後ろからがいいのか」

「ん、背中………寒いから」

「キツく……ないか?」

「………はぁ………っ両手で……………ぎゅっとして………」

限界ぎりぎりのところで、やっと溢れる言葉。

ベッドについていた両腕を離し、僕を抱きしめた豪炎寺くんの体重が、挿れられたままの僕の身体を圧し潰すのが凄く気持ちいい。

「…………あぁ………ご………えんじく………」

「何故俺を名前で呼ばなくなった?」

「…………き……みが………ふぶきって……よぶから…………」

名前で呼びあうことが必ずしも親密さの表れじゃないらしい。

耳元で「ふぶき」と呼ばれ、真っ白になって飛沫を散らす。
その僕の身体の奥を縫っていた彼の欲望も、締めつけに誘われるようにドクンと爆ぜる。
そして僕は内側から体じゅうに浸透する熱と脈動を、気が狂いそうな悦びとともに味わうんだ。

この瞬間だけでも、僕は彼とともに生きているって実感しながら――――


「こんなこと…………くりかえす目的は何だろうね」

「目的じゃない。これは愛し合う手段だろ」

「愛……って、僕はなにも……」

「お前が言葉をくれないから、身体に訊くんだ」

「ふ………」
彼の放出を搾り取った身体から、魂の欠片がふと口先から零れおちる。
「僕は……………ずるいんだ。こうやって君を居場所にしてるだけだもの」

「それでいい。居場所を求めるのは生への愛着だろう」

「………あ……」

“お前はここにいていいんだ”と囁かれながら、僕の身体の中心に刺さっていた熱い杭が引き抜かれる。その途端、空っぽになった芯が震えはじめる。

ああ、そのとおりなのかも。

僕を奥まで捉えていたものが無くなると、さっそく凍えてしまうんだ。

「大丈夫だ。俺はずっとお前の居場所になってやる」

震える僕を抱きしめて、豪炎寺くんが耳元で言い聞かせ続けてくれている。

こうやって僕は充たされる熱を覚えてしまった。

信じちゃいけない言葉と、重ねてはいけない肌なのに、ひとときも離したくない――――。

 
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