9
一日半の間、ほとんど眠って過ごし、その翌日からは普段と変わらない朝が始まる。
吹雪の読みどおりだ。咳とかの症状がないから、きっと疲労の蓄積だ、と。
とにかく一日だけでも安静に、と云われたとおりにしていたら、ぴたりと治ったわけだ。
「君はいつも活躍しすぎだから、休息が一番の薬だね」
そう云って吹雪は微笑う。
だが一番の薬はそれじゃないことを、俺自身はわかってる。
吹雪を抱きしめて眠れたこと自体が、間違いなく俺を癒したのだ。
一日ぶりのリビングに行けば、ふわふわしたテイストに飾られたツリーが目に入る。
キッチンやリビングの物の配置も、知らず知らずのうちにどことなく変貌し、空気全体が吹雪の気配がいたるところに息をひそめてる。
そして、ここ数日は熱をだした弟の世話もできてご満悦な吹雪の振る舞いは、この家の中で水を得た魚のように生き生きとして見えた。
その光景を眩しく見つめる俺は、身体症状としての熱が下がっただけで、恋の炎は一層燃え盛っていて―――
「お、炎のストライカー待望の復活だな」
講義が終わった後、研究室を覗くと、先輩の兼望がへらりと笑いながら寄ってくる。
「お前がいないとホント火消えんだよな。昨日は一日皆暗かったぜ〜特にあちらのプリンセスがさ」
兼望が視線で指した少し向こうには、亜彩がいる。
大袈裟だな、たかが一日だろうと一蹴したいところだが、相手は目上だし沈黙でスルーする。
「お前はいいよなあ〜、休んでる間もあのコと部屋でイチャついてんだろ?」
「………!」
俺は表情をこわばらせて兼望を見る。
兼望は亜彩を見ているが別のことを思い浮かべているのがありありとわかる、いやらしい表情をしていた。
「あのコ、くっそエロかわいいのな。昨日の帝国戦もお前が無理言ったんだろ?お前のズボンじゃ大きすぎるって、俺んとこ借りにきたんだぜ」
「吹雪くん……だったっけ?お前のネコちゃん」と訊かれて、視線で天を仰ぐ。
嫌な予感がした。
いつもは無気力な兼望の目が、興味深げに光っている。
「ズボン貸してやったら目の前で生着替えしだしてさ〜久々ベンチ入ってて良かったわ。てか誘われてんのかと思った……俺も両方いけるし」
「止めろ。吹雪はそんなんじゃない」
「……ひっ!怖っ」
すごい形相で睨みつけたことは自覚している。
兼望は俺から逃げるように、今度は亜彩のところへ寄っていき、こっちを見ながら何かを訴えている。
何か下らないことを吹き込んだのだろう。
険しい顔で机に向かう俺の横顔を、近くを通るたびに亜彩が覗きこんでいく。
早く帰りたい。
だが今日は昨日休んだ穴埋めを、全部済ませてからでないと、こっちはこっちで気が済まない。
定時を過ぎ、帰りはじめるメンバーに混じって退室しかけた兼望が、ふと足を止める。
そしてガラス張りの吹き抜けからホールを見下ろし、ぽつりと呟いたのだ。
「おっ、あれ豪炎寺のネコちゃんじゃね?」
ガタン―――と音を立てて、俺が立ち上がる。
「すげぇな。血相変えて……」
からかい口調の兼望を追い越して、俺は研究室のドアへと突き進んだ。
その時開いた自動ドアの正面にいた亜彩が視界に入るが、気にとめずかわすようにすれ違った。
「待って!」
離れる間際に、亜彩が呼び止めた。
「あなた吹雪くんが……好きなのね?」
俺は立ち止まり、振り返らず答える。
視線と意識はすでに、透明な傘をさして下で俺を待つ吹雪に注がれていた。
「ああ、そうだ」
足早に離れていく俺の背中に「何で!?」と亜彩が叫ぶが、答えなどない。
理由など無く、無性にすきなんだ。
雪がちらつくキャンパスに、佇む吹雪に近づいていく。
「…………ごめんね、雪降ってきたから、これ……」
吹雪は俯き加減で、手にしていたもう一本の傘を俺に差し出した。
「何故あやまる?」
「だって…………君、すごく怖い顔してるもの」
俺は黙って吹雪の手を握り、歩きだす。
「どこいくのさ?」
「家に帰るんだ」
「そんなに急いで……?」
手を引かれながら吹雪が不思議そうに訊く。
急がずにいられないのは、早く二人きりになって、強く抱きしめたいからだ。
「都会の雪は……冷たいね」
信号待ちで、傘を背中の方にどけて、空を眺めている吹雪。
顔に降りかかると途端に溶けてしまう雪の温度を、肌で感じているのだろう。
「濡れるぞ。ちゃんと傘をさせ」
俺は思わず吹雪に自分の傘をさしかける。
濡れるのを防ぐというよりも……周囲の視線を遮ったのだ。キスをするために。
「………んっ……………はぁ………」
雪に濡れた唇の温度は、すぐに熱に呑まれて甘い吐息に変わり、重なる唇の隙間から零れ落ちる――――
「…………ま……って…………歩けない……」
信号がかわって唇を離しても、俺に寄りかかったままの吹雪は、もはや紫野原沙彩の言う“天使”ではない。
キスでとろけて震える吹雪の身体は、天国にいるんじゃなく、俺が腕の中でしっかりと掴まえているからだ。
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