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3

キイ、と病室の扉を開けると、むせ返るような花のにおいに包まれる。所狭しと並べられたたくさんの花瓶には、色とりどりの花々が生けられている。紫音は先ほど受付で預かった新しい花束を部屋から持ってきた新しい花瓶に挿すと、静かにベッドに近寄りそこに眠る梨音の顔を覗き込んだ。

そして、傍らにある椅子に腰かけてそっと梨音の頭を撫でる。

「…りーちゃん…」

小さな呼びかけにいまだ答えることのない梨音の頭を柔らかく撫で続ける。次第にその手は震え、紫音の目からはらはらと大きな涙が零れ落ちていた。

自分は、泣いてばかりだ。自分のした行動を振り返り、後悔し、一人で勝手に傷ついて泣いてばかりいる。こんな時はいつだって、梨音が傍にいてくれたのに。
いつになったら、目覚めるのだろうか。そのかわいらしい笑みで、自分の頭を撫でてくれないだろうか。

梨音の事。克也の事。カジの事。子猫の事。…晴海の、事。なにもかもが、自分の手では受け止めきれなくて。

「…りーちゃん、俺、疲れちゃったよ…」

項垂れて、泣きながら、細く消え入りそうな声で初めて紫音が弱音を吐く。その時、梨音の頭を撫でるその手に上から重ねる様にそっと触れる温もりを感じた。

「…紫音…」

顔を上げると、そこには、自分を見つめ手を握りながら柔らかく微笑む梨音がいた。


「もう、しーちゃん。大丈夫だよ。おトイレ位ひとりで行けるよ。」
「だめだめ!りーちゃんはずっと寝てたんだから、まだ体力なんて戻ってないんだから!俺が支えていくからね!」
「しーちゃん!下ろして!」

支える、と言いながら自分を姫抱きにしてトイレへと向かおうとする紫音をぽかりと叩いて真っ赤になって抗議する。ご、ごめんなさい、と紫音はそっと梨音を下ろして、今度は間違えない様に腰を抱き支えついて行く。そんな紫音を見て、梨音はくすくすと笑った。

紫音が初めて弱音を吐いた瞬間に目覚めた梨音を見て、紫音はそこが病室であることも忘れ大声で泣いた。あまりの大泣きに、看護師が何事かと慌てて飛び込んでくるほどだった。その後すぐに先生の診察、検査などを終え、異常なしと診断されて歩行許可が出たのは次の日。退院の日取りも決まったと言うのに、紫音はまるで梨音を未だけが人であるかのように扱う。けが人のようにと言うか、それはもう赤ちゃんのようにと言った方が正しいだろうか。

病室に戻り、いそいそとベッドを整えそこに梨音をそっと寝かせる。

「ありがとう」

お礼を言って体を半分起こした状態で微笑む梨音に紫音もにこにこと笑顔を返す。ふと、梨音が病室の中を見回し、部屋中に溢れかえる花を見た。

「…きれいだね。」
「…うん。」

誰から?とは聞かず、ぽつりとつぶやく梨音の顔を見て、紫音は胸が痛む。花を見つめる梨音の顔は、あまりにも優しい。まるで、誰からのものであるかわかっているかのように。そんな梨音を見るのがなんだか辛くて、ふと視線を逸らすと梨音はそっと紫音の頭を撫でた。
何事かときょとんと顔を向ける紫音に、梨音は見た事も無いような笑顔を向けていた。

…これ、見たことある。この顔、知ってる。

紫音は遥か昔の小さなころの記憶を呼び覚ます。そう、これは自分が悲しい事や辛いことがあった時。お母さんが、自分を撫でながら向けてくれていたその顔だ。

慈愛。

それは、まさしく親が、子供に。兄が、弟に向ける、優しい微笑みだった。

「…紫音。ごめんね。僕、紫音にずっとずっと謝らないとって思ってた。」

微笑みながら、梨音がポツリと話し出す。

「紫音。君には今までずっとずっと辛い思いばかりさせてた。僕のせいで、本当の自分を偽らせて。紫音は、いつだって弱い僕のために自分を犠牲にして守ってくれたよね。今回の事だって、君の事だからきっと自分を責めちゃったんでしょ?…ごめんね。僕が、弱いから。弱虫で、紫音にばかり頼っていたから。」

梨音の言葉に、紫音はふるふると頭を左右に振った。

「そ、な、こと、ない。りーちゃんは、りーちゃんは…」
「でもね、紫音。」

泣きそうに顔を歪め首をふる紫音の頬を、そっと撫でる。その手は、いつものか弱さはなく。むしろ自分より小さいはずのその手はなぜだか大きく感じられた。

「いつだって、ほんとは、僕が守りたかった。君に守られるんじゃなくて、君を守りたかった。守りたかったんだよ。紫音。」

刺されたのが、君じゃなくて本当に良かった。

そう微笑む梨音に、紫音はじわりと涙を浮かべる。その涙をそっと拭うと、梨音は今度は少し悲しそうに微笑んだ。

「…あのね、紫音。僕、もう一つ紫音に言わなくちゃいけないことがあるんだ…」

紫音の頬から手を離し、今度はベッドの上でぎゅ、と拳を握りしめる。紫音はそんな梨音を見て、じくりと胸が痛みだした。聞きたくない。聞いちゃいけない。それはきっと、今までの自分たちを壊してしまう言葉だから。

「…僕、克也先輩が、好き。」

少しの沈黙の後、一度決心するかのように目を閉じた梨音はその目を開いたと同時にはっきりとした声で、まっすぐに紫音を見つめてそう言った。

「…す、き…?」
「うん。お友達として、とかじゃなくって。パパとママがお互いを好きって言うみたいに好きなんだ。」

ああ、やっぱり。
だから、あの時。梨音は、自分の名ではなく克也の名を呼んだのだ。自分は、もう、梨音の一番ではない。

どうしよう。梨音が。梨音が、離れて行っちゃう。自分ではなく、克也のところへ。

紫音は先ほどとは違う涙を、両の目からボロボロとこぼす。

「りー、ちゃ、は…、も、おれ、いらな、い…?」
「何言ってんの!」

乱暴に袖で涙を拭いながら問いかけると、梨音が怒ったようにぴしゃりと言った。
そして、泣きじゃくる紫音の両頬を両手でむに、とはさみ、めっ、と怒っておでこをくっつける。

「いらないわけないでしょ!?紫音、僕は確かに克也先輩が好きだけどね。それは紫音への気持ちとは全然違うんだよ。紫音は、僕の大事な弟。いるに決まってるじゃないか!…そうじゃなくてね。もう、僕を守るだけじゃなくていいんだよってお話。
紫音だって、守られていいんだ。
…紫音。紫音にも、いるはずだよ。僕じゃない、一番の誰か。」

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