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そっと、自分の唇を指でなぞる。
彼は昨日の屋上での振る舞いのように強引に梨音の唇を奪った。自分に対して欲をぶつけてくる人間は初めてではない。紫音に守られてはいても、その欲は自分に絡みつき恐怖を与える。
でも、同じように欲をぶつけられたはずなのに。梨音は、抱きしめながら自分の名を繰り返し口にする克也からは、他の人間とは違う恐怖ではない何かを感じていた。
「りーちゃん…」
リビングから紫音が自分を呼ぶか細い声が聞こえ、はっと我に返った梨音は慌てて立ち上がり、頭をふるふると振るとタオルを水に浸して紫音の元へと急いだ。
「しーちゃん、はい、タオル。これで目を押さえてね。」
絞ったタオルをソファの背もたれにぐたりと頭を預ける紫音の顔に乗せてやる。それからキッチンに向かい、紫音の好きな蜂蜜ホットミルクを作ってリビングのテーブルの上に置いた。
「しーちゃん、飲める?」
「うん、ありがと…」
タオルを一度外して、マグカップに手を伸ばす。一口飲んで、ほっとしたように息を吐き出した。
その紫音の様子を見て、梨音も微笑みカップに口を付ける。
ふと、紫音がじっと梨音を見つめているのに気がついて首を傾げた。
「どしたの?しーちゃん」
「…りーちゃん、怖くなかったの…?」
紫音の問いかけにぎくりとする。
「ど、して…?」
「…だって、なんだかいつもと違う…。」
いつもなら、梨音も自分と共にわんわんと泣きじゃくっているはずだ。だが、部屋に戻ってからの梨音は震えてはいたものの、紫音には全身から怖い!と言う感情は感じられなかったように思えたのだ。
「…こわ、かったよ。…でも、しーちゃんが、すごく震えて、泣いてるから…」
しーちゃん見てたら涙がひっこんじゃった、と笑う梨音に、紫音はごめんねごめんね、と何度も謝った。梨音は紫音の謝る姿に、少しの罪悪感を感じて胸がちくんと痛む。
…確かに、怖かった。怖かった、けど…
梨音は初めて、紫音に一つ嘘をついた。無理やりされたキスなのに、感じたのは恐怖だけではなかった。梨音は自分の気持ちが何なのか全く分からなかった。ふと、紫音がミルクを飲もうとカップを持ち上げた時に、ちらりと手首に紫色が見えた。
「しーちゃん、手…」
「え?…あ」
手、と言われ制服の袖をめくると、そこには手形のあざがついていた。相当強い力で握られたのだろう。くっきりと紫色がついている。紫音はそっと手首のあざを撫で、しゅんと俯いた。
「…しーちゃん、どしたの、それ…」
あまりにもひどいあざに、梨音の顔が真っ青になる。
このあざは、恐らく晴海に掴まれた時のものだろう。こんなに、きつく握られてたんだ…。あの時は無我夢中で振り払ったけど、ほんとはとても怖かった。このまま殴られるんじゃないかと内心とてもびくびくしていたのだ。
答えない紫音のあざのついた手を、梨音はそっと撫でる。
「…しーちゃんも、怖い思いしてたんだね。ごめんね。」
「…こ、わかったよ…。…お互い、怖い思いしちゃったね、りーちゃん…」
泣きそうに謝る梨音の肩に頭を預る。明日、また同じように絡まれるんだろうか。
…でも、大丈夫。梨音、大丈夫だから。
紫音は目をつぶり、小さく体を震わせた。
end
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