忍具と衣類、それからここにいる間ずっと借りていた手拭いや毛布などなど。全てきれいにまとめて部屋を片付けた。三ヶ月…いや、もっと居たかもしれない。しかし過ぎてみればあっという間の時間だった。この部屋はもちろん、この国の人たちには本当にお世話になったものだ。

夢を見た。ここに来る前にもとの世界で見たものと同じような、違う世界へ行く感覚の夢を。そして同じ日に諸葛亮殿から告げられた予言。どうやら僕はもうじき戻れるらしい。おかしな話だ。あんなに帰りたがっていたくせに、いざそれが近付くと名残惜しくなる。それほどお世話になっていたってことだろう。まだ明確な日時はわからないが、別れの挨拶は早々に済ませておかないと。

「ねえ、なまえ殿」

さて、と立ち上がろうとしたら後ろから声が掛かった。このどこか間延びした声ももう聞けないのかと思うとやはり寂しいな。

「…どうしました?馬岱殿」
「あーらら、もう整理整頓しちゃったの?」
「あ、はい、一応。もういつ戻ってもおかしくないそうなので…」

畳んだ毛布を撫でながらそう言って、改めて部屋を見渡した。最初はいつ暗殺されるんだろうかと一切気を抜けなかったので一睡も出来なかったなあとか、毒入ってたらどうしようかと食事すらまともに出来なかったなあとか、でもそんなぎちぎちした捕虜生活なんか一瞬で、気付いたら劉備殿にほだされてたなあとか。けど軍師様連中はなかなか心許してくれなくて怖かったなあ。それと、この馬岱殿も。にこにこ絡んでくるくせに全然隙を見せてくれなかった。

あからさまに警戒してた軍師様連中と違って、この人はなに考えてるのか全然わからなかったから苦手だったなあ。未だに本当に警戒心解いてくれてるのかもわからないし。けど、そんな人でも世話になったのはたしかだ。離れるのは寂しい。

「……この数ヵ月、お世話になりました」
「!」
「馬岱殿の明るい笑顔と楽しそうな声にはいつも元気をもらってました。本当に、ありがとう」
「ちょいちょい、待ってよなまえ殿〜。そんな別れの挨拶やめてよ、寂しいじゃない!」
「ははっ、さすがの馬岱殿も寂しがってくれますか」
「さすがのって……君ってば俺のことなんだと思ってたの?」

しまった、失言。笑ってごまかすと、馬岱殿も笑ってくれた。やっぱりこの人相手だと最後も笑顔で終われるな。相変わらずその笑顔が本当のものなのかはわからないけど。

「ま、本当は寂しくなんかないけどね」
「!」
「むしろ憂いがなくなって清々するよぉ」

馬岱殿はそう言ってにっこり笑った。ひどいな、やっぱり最後まで警戒されっぱなしだったようだ。

「それはよかった。なら僕も心置きなく帰れますよ」
「…………」
「……馬岱殿?」

売り言葉に買い言葉、のつもりだったんだけど。心なしか得意の笑顔がなくなっていって、やがて無表情になってしまった。珍しい、というか初めて見たかも。驚いてこちらも笑みを崩してしまった。

「…どうして笑ってるの?どうして怒らないの?悲しくないの?ムカつかないの?悔しくないの?」
「……え、っと…?」
「なまえ殿はいつもそう。俺がどんなに嫌みを言っても本心を隠しててもどこか冷たく接してても、なにもしない。追求しない。全部気付いてるくせに」

一歩、一歩、少しずつ近付いてくる馬岱殿。同じように一歩、一歩、少しずつ距離をとろうとする僕の足。なぜだ、別に逃げる必要ないだろう。相手は馬岱殿だぞ?

「……そんなに俺に興味なしってわけ?」
「……そういうわけではないですよ。ていうか、初耳です。そんなこと思ってたんですね」

むしろ興味ないのは、それどころかずっと警戒してたのはあなたの方でしょと続けた。その間も距離は縮まらない。一歩近付けば一歩離れる。

「なにそれ、ひどいよぉなまえ殿。なんにも知らないくせに勝手に決めつけて」
「馬岱殿が少しも悟らせようとしなかったもので」
「じゃあ教えてあげる!」
「わっ、」

急に距離を詰められた。反射的に後ろに飛ぶと背中を強打。しまった、もう壁だったのか。突然の痛みに驚いたその隙にそのまま地面に叩きつけられた。一瞬で視界がぐるぐる変わってもうなにがなんだか…

とりあえず今見えてるのは僕の上に跨がる馬岱殿のいつもの胡散臭い笑顔と、天井だけだ。

「……すみません馬岱殿、どういうおつもりですか?」
「そりゃあ急に現れて別の世界から来たとか言われちゃあね、警戒だってするし距離だって置いちゃうよ」
「あの、話聞いてください」
「でもさあ、ずっとそうやって意識してるうちに気になっちゃって、気付いたらよく目で追うようになってて、興味が湧いてきちゃって、でも君も君でなかなか素顔見せてくれないし、焦れったいなあと思えば他のみんなとは楽しそうに笑い合ってて、それが無性に腹立たしくって」
「馬岱殿、」
「あ、俺もしかしてなまえ殿に惚れちゃったのかなあって!変な話だよね、警戒してるうちに恋しちゃうなんて」
「…………」
「それに気付いてからは楽しかったよ。新しい顔を見る度、新しいことを知る度嬉しくって、ちょっと話すだけで馬鹿みたいに舞い上がって……でもいつも心のどこかで、怖がってる自分がいたんだ。それがなぜなのかずっと分からなかったけど、ようやく分かったよ」

初めて聞くことばかりで頭が混乱する。押さえつけられている手首が痛い。よもや好かれているだなんてちっとも思わなかった。しかしその気持ちとこの行為にはなんの繋がりがあるのだろうか。やっぱり馬岱殿の考えがわからない。

「こうして、いつか、なまえ殿は帰ってしまうんじゃないかって、いつもどこかで危惧してたんだ。諸葛亮殿の話を聞いて泣きたくなったよ。俺の考えや気持ちなんかお構いなしに帰っちゃうんだって」
「……その気持ちは、嬉しいです。けど僕にもどうしようもない。ここに来てしまったのも僕の意思ではないし、帰る時もきっと僕の意思とは関係なしに…」
「…………」
「すべて話してくれてありがとうございました。でもその気持ちにお応えすることは出来ない。また再び会える確証もないし、それに」
「さっき言ったよねえ、寂しくなんかないって」
「!」
「本当の理由、知りたい?」

にこりと笑った馬岱殿は僕の話を遮った。手首を掴んでいた手を離して、そのままその手を、僕の首もとへ。

「何を…ぐっ……!」

振り払おうとした瞬間一気に絞められた。これはやばい。何より体勢が悪すぎる。忍具に手を伸ばそうにも距離があって届かない。完全にやられた。

「帰さずにこのままここで殺しちゃったら寂しくないよ。いい考えでしょ?」
「か、はっ、」
「たとえ君が俺を嫌ってようと、もとの世界に戻りたかろうと、そんなの関係ない」
「ぅぐ……ば、た…!」
「亡骸でもいい、そばにいてよ」

絞める力が強くなっていく。苦しい。酸素がほしい。体に力が入らなくなってきた。

だんだん霞んでいく視界に映るのは、涙を流しながら、それでいて笑っている馬岱殿。

「ねえ、行かないでなまえ殿。愛してるんだ」

初めて聞く掠れた低い声。その言葉を最後に、僕の意識は途切れた。









140215