遠くで声が聞こえる。優しい優しいそれはだんだん近付いてきて、やがて鮮明に鼓膜を震わせた。

「なまえくん」

誰かが誰かの名前を呼んでいる。その声が誰のものなのかも、その名前が誰のものなのかもわからない。頭を撫でられているのに気が付いた。心地よいそれを甘受していると、また聞こえてきた声。

「…なまえくん…なまえくん…」

まるでうわ言のように呟かれるそれが少しだけ怖くなった。静かに目を開くと、そこに広がるのは見知らぬ世界。ここは、どこだ?

朧気な視線を泳がせていると、これまた見知らぬ男の人と目が合った。その人は俺が目覚めた事に気付いて、一瞬驚いた顔をしてから、すぐに泣きそうな顔をして俺に抱き付いてきた。

「っ、あの、」
「よかった、なまえくん!そのまま目を覚まさなかったら、どうしようかと…本当によかった…!」
「………?」
「…覚えてないのかい?ハントの途中で、猛獣に背後を襲われて倒れた君は、そのままずっとずっと眠っていたんだ。それで……なまえくん…?」

ハント?猛獣?襲われた?なんのことだ?なにより、そのなまえというのは、俺のことなのか?いくつもの疑問符を浮かべる俺に気付いたのか、男は一度言葉を切った。

「…どこか痛むかい?無理もないよ、あの時はひどい傷だらけで、」
「あの」
「!」
「…あなたは、誰ですか?ここはどこですか?俺は、なまえという名前なんですか?」
「……何を、言ってるんだ?なまえくん」
「なにもわからないんです。なにも覚えてなくて、空っぽで…あなたがさっきから何を言っているのかもわからない」
「…そんな…まさか、記憶喪失…?」

きおくそうしつ。その言葉がなにを意味するかは知っていた。ああ、だからか。だからこんなにも空っぽで、満たされないんだ。理解した途端、不思議と少しだけ落ち着いた。倒していた体を起こし、頭を整理する。

記憶喪失にもいろんなタイプがあると聞く。ここ最近の記憶を失うこともあれば、自分も含め周りの人間に関する記憶を失うこともある。どうやら俺は、ここ最近のことも、この人を含めた関わりのある人間のことも、何もかも忘れてしまったらしい。おまけに自分のことも忘れてちゃ世話ないな。

問題は、これは治るのか治らないのか。それだけだ。

「……本当に、何も思い出せないの?僕のことも?」
「…すみませんが、わかりません」
「…ココだよ、」

ココ。名前を聞いても、どんなにその顔をよく見ても、思い出せない。記憶にない。しかしこんなにも必死になって語りかけているということは、それほど深い関係だということだ。なによりずっと眠っていたらしい俺の看病をしてくれてたみたいだし、おそらくとても大切な人。だが、やはり、思い出せない。

「っ、ココだよ!ずっと、そばにいたじゃないか、一緒にいたじゃないか。あんなに、愛してるって、言ってくれたじゃないか…!」
「………愛してる…?」
「そうだよ。僕たち、恋人同士だったんだ」
「恋人…」

涙ぐみながら俺にそう話したココという男。わからない。わからない。ここまでされても思い出せない自分に腹が立つ。こんなに大切な人なのにこんなに簡単に忘れてしまうなんて。

「……トリコのことも、サニーのことも、ゼブラのことも、小松くんのことも……天狗の城のことも、ブランチのことも、忘れてしまったのかい?」

ぽつりぽつりと呟かれる名前も、もちろん記憶にない。なんのことだかわからない。これだけヒントをくれているのに、少しくらいピンとくれば、どれだけ救われるだろう。落ち着いたなんて思ってたくせに、今さら怖くなってきた。俺の中には、なにも、ない。

なんてきもちわるいそんざいなんだ。

「…大丈夫だよ」
「っ!」

あまりの気持ち悪さに遠退きそうになった意識を呼び戻すように、ココさんは俺を抱き締めた。ふわり香るその匂いには覚えがある。鼻を掠めたどこか懐かしいそれに、安心感から涙が出そうになった。

「君がすべてを忘れても、僕がすべてを覚えてる。大丈夫。きっといつか、思い出せる」
「……ココさん…」
「はは、さんなんて止めてよ。前みたいに、ココって呼んで?」
「…ココ…ありがとう」
「……いいんだよ、君が気にすることじゃない。僕がずっとずっとそばにいる。守ってあげる。だから安心して?辛いなら、苦しいなら、無理に思い出そうとしなくてもいいんだ。またこれから、たくさんの思い出を作っていこう、二人きりで」

密着していた体が少し離れた。代わりに近付いてきた顔が自分になにをしようとしているのかはわかっている。恋人同士だったのだ、口付けなんて普通の行為だろう。

だのになぜ、俺は無意識に顔を逸らしてしまったのだろう。

「……なまえくん?」
「っ…すいません、つい…以前は、普通にしてたんですか?」
「ああ、そうだよ。君からもたくさんしてくれた。毎日毎日、こうやって…」
「んっ、」

開きっぱなしの口を閉じるかのように、ぱくりと食べるみたいなキスをされた。驚いて胸を押し返したら、ひどく傷付いたような顔をしたココと目が合う。

「ご…ごめんなさい、あの…」
「いいよ。知らない相手に、しかも男にこんなことされたら、誰だって怖いよね」
「そうじゃなくて…心の準備とか、出来てないし…」
「……そんなの必要ないよ。君はただ、僕にすべてを委ねていればいい」

今度は俺が口を開く前に口付けられた。触れるだけの優しいそれを何度も何度も何度も何度も繰り返される。まるでずっと待ち焦がれていたかのように。俺が目を覚ますまで、彼はどんな思いで待っていてくれたのだろうか。

「…愛してるよ、なまえくん」

そういえばさっき、ココはさん付けなんて止めてと言っていた。きっと恋人同士なのだから堅苦しいと感じたのだろう。ではなぜ、彼は俺をくん付けで呼んでいるのだろうか。

「愛してる…愛してる、愛してる、愛してる、愛してる、愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる」

先ほどまですごく辛い顔をしていたのに、どうして今はこんなに怖い顔をしているんだろう。彼は今自分がどんな顔をして笑っているのか、気付いているだろうか。

「愛してるよ、僕の、僕だけのなまえくん。ずっと離さないから。ずっとそばにいるから。愛してる」

初めて聞く愛の言葉は以前もこんな風にたくさん囁かれていたのだろうか。以前の俺も、記憶があった頃の俺も、ココに愛してると言っていた俺も、こんな風に怯えながら、呪文のような言葉を受け止めていたのだろうか。

果たして俺はいつかすべてを思い出せるのだろうか。思い出せたその時、俺はどうなるのだろうか。いずれにせよ、いっそ思い出さない方が、幸せなのかもしれないと思ってしまった。





(なにも思い出す必要なんてないよ)
(もし思い出すなんてことがあっても、また、消してあげるから)









140413