それは万福丸様が一歳になられたばかりの頃。 当時俺は浅井からの援軍として織田家に仕えていた。本来であればすぐに帰られるはずだったのだが、予定よりも戦が長引いてしまい、俺だけがまだ万福丸様のお姿を見ることが叶わなかったのだ。もちろん浅井に帰っていられたとしても当時の俺のような下級武士が生まれたばかりの主君のご子息を一目見ることなど到底無理だっただろうが。 ようやく小谷城に帰ることができたものの、城内はとても慌ただしく、武士から女中まで城中の人間が走り回るような状況だった。一体何事かと女中を一人捕まえればまるで死んでしまいそうな顔で「若様が行方不明だ」と言う。一瞬息が詰まって、けれどすぐに俺も走った。 戦帰りだということも忘れて、まだ顔も知らない“若様”を探し、城の隅々まで探して回った。けれども小さな影一つ見付けられない。長政様もお市様も、吉継だって声をあげて探している。まさか城内にはいないというのか?だとしたら外に?一人で?そんなこと不可能だ。きっとまだ立って歩くことすらままならないだろうに。だとしたら、まさか、何者かに拐われたのか? 「っ、若様ァ!」 血の気が引いて、大声で叫んだ。そんなことは許さない。絶対に捕まえて、手を出したことを死ぬほど後悔させてやる。 使い慣れた刀を携え城門を出た。すぐそこで咲き誇る藤の花の木が、なんとなしに、視界に入る。 「……え、」 立派な木々の根本の間。立ち位置によっては死角になって見えないくらいのちょっとした隙間に、さらりと風に揺れる金の糸。 「…若、様……?」 持っていた刀が手から滑り落ちる。ふらふらとそこへ歩み寄ると、そこには、舞い落ちた藤の花の上で眠っている小さな子どもがいた。この金色の髪は、そうだ、間違いない。このお方が、若様。浅井家次期当主。長政様の後を継がれるお方。どうしてここにいるのか、どうやってここまで来たのか、そんなことはもう頭の隅に追いやられていた。 なんと、綺麗なお方なのだろうか。その時はただそれしか浮かばなかった。眩い金色の髪。雪のように白い肌。その閉じられている瞼の中にある瞳は何色なのだろう。その少しだけ開いた口から紡がれる声はどんな声なのだろう。 気付けば息をするのも忘れて魅入っていた。髪にかかっていた花を取ろうとして、手が止まる。 (こんな、血に汚れた手で、触れていいわけがない) 今はこんなにも綺麗で無垢なお方だとしても、いずれは成長し、人の欲や血でまみれた汚ないこの戦国時代にのまれていく。逃れようのない事実だ。この時代に、この家に生まれたその瞬間から決められていることだ。それでも、 「…ん、みゅ…」 「!」 ぎゅ、と一度固くつぶられた瞼が、やがてゆるりと開かれた。薄茶色の透き通るような瞳が、俺を映している。中途半端に伸ばされた俺の手に、そろりと自分の手を重ねた若様。 そして、ふわりと笑ったのだ。まるで許しを与えられたかのように感じた。俺は汚れてなどいないのだと、そう言われたようだった。 「わ、か、さま…っ」 泣きながら地に頭を擦り付けた。俺はその時はっきりと確信した。俺は、このお方に一生をかけてお仕えするために生まれたのだと。このお方の刃となり盾となり、すべてを捧げ生きていくのだと。 「…もうかれこれ千度は聞く話だが?」 「馬鹿野郎まだ九百六十五回目だぞ」 「………」 「冗談だ。さすがに五百回目以降は数えていない」 ふ、と笑いながらそう言う高虎ではあるが果たして今のは笑うところだったのだろうか。相変わらず末恐ろしい男である。 高虎が定期的に話す“運命の出会いの日”。あの日は城の人間という人間すべてが顔を真っ青にして走り回ったものだ。長政様がたった一言、「万福丸がいなくなった」と言った瞬間に城内の大捜索が始まった。まさか同じ頃に帰ってきたばかりの高虎が見つけ出すとは思いもしなかったし、何故か号泣しながら若様を抱いていたから安堵と共に疑問も募った。まあ、高虎本人から飽きるほどに説明されたおかげで嫌でも理解したが。 「…早いものだな。あれからもう十一年も経つのか」 「ああ、万福丸様も随分と立派になられた。だというのに、その純粋で綺麗な心も愛らしい笑顔もあの日から何一つ変わっていない…信じられない…この世の奇跡だ…」 「そうだな」 たしかに若様はあの頃に比べるとすっかり逞しくなり、心身共にご成長なされたが、その優しくて純粋無垢な本質は何一つ変わってはいない。そしてこの男の若様への溺愛具合もまったく変わらず、若様が大きくなればましになるかと思っていたのにそれどころか酷くなる一方だ。困ったものである。 「とりあえず、今日はもう寝よう。明日は大事な日だ」 「それがな吉継、興奮して眠れないのだ」 「寝ろ」 明日には若様の元服の儀が行われる。未だぶつぶつと何かを呟いている高虎を放置し、自室へ向かった。 190608 |