63


秀吉様が亡くなられてから僅か数ヵ月と経たずに家康が動き出した。水面下で動いていたつもりだろうが、そんなもので俺や利家殿の目を誤魔化せるはずがない。家康と同等、もしくはそれ以上の力を持つ利家殿の牽制のおかげである程度は動きを抑制出来ているが、果たしてそれもいつまで持つか。その証拠に、清正と正則までもが家康側につこうとしているなどという信じがたい噂まで流れ始めている。高虎はもともと家康と懇意にしていたらしく、秀吉様の死後すぐに家康に接近していたらしいが。

このまま家康の勢いが鎮まっていくとは到底思えない。それこそ利家殿が亡くなってしまえば、今以上に猛威を奮うことだろう。そうして豊臣の世をかっさらうに決まっている。そんなこと、絶対に許しはしない。それを阻止するためにも、今のうちにこちらも戦力を固めておかねばならない。いずれ必ず起こるであろう戦に備えて。








「待たせたな、三成殿」
「…あなたが私を待たせるなどいつものことでしょう」
「ひどい」

左近に連れられて部屋に入ってきたなまえは、よっこいしょと言いながら俺の向かいに座した。左近は俺の斜め後ろに、その反対側には吉継も座している。普通の人間なら一体何事かと焦燥するだろうが、きっとこの男は面の下でいつものへらへらした間抜け面を晒して悠長に構えていることだろう。そして、なぜ呼び出されたのかも分かっているはずだ。

今さらこいつの動向を抑制する必要など皆無なことに違いはないが、念には念をだ。それに、今一度直接こいつの口から豊臣への忠誠を誓わせ、その力が豊臣のものであるという確固たる証拠がいる。からすとしての武勇は日本全土に知れ渡っているのだ、そのからすがいる豊臣を脅かそうとする馬鹿などいるはずがない。からすはそこにいるだけで抑止力になる。無駄な戦をしなくて済むのならそれに越したことはないからな。

何より、なまえが俺を裏切ることなどあり得ない。

「単刀直入に申します、からす殿」
「!」
「あなたもご存知の通り、秀吉様の死後、あろうことか五大老の一人であらせられる家康殿が秀吉様の命を破り勢力拡大を図っております。いかなる理由があろうとも到底許せるものではありません。そこで、秀吉様の古くからの忠臣であるからす殿にお力添えを願いたい」

からすが声をあげれば、家康もその周りの勢力も自重せざるを得なくなる。豊臣の世を脅かすことは、すなわちからすを敵に回すということになるのだ。

「叶うならば私の下で、それがお気に召さぬと仰られるのであれば秀頼様の下で、今後も豊臣の世を支えていただきたいのです」
「……ああ、そうだな。もちろん支えていくつもりだ」
「…では、」
「ただ、それはここでなくとも出来ることだ」

一瞬、息が詰まった。なまえの言葉の意味を理解するのに手間取ったのだ。

「………それは、どういう」
「実はここに呼ばれるより前に、家康殿にも呼ばれていてな」
「!」
「私も三成殿に負けず劣らず、秀吉様のために粉骨砕身働いてきたつもりだ。それは今後も変わらないし、豊臣の世を支えていきたいという気持ちも変わらない。私は、それを家康殿の下で実行していこうと思う」
「からす殿、今ご自分が何を仰っているのか、分かっているのですか?」
「重々理解している。だからこそ、大元は三成殿や利家殿に任せ、私は他家から支えようと決心した。たしかに豊臣から見れば家康殿の行動は不義に見えるかもしれない。けれど、側面からだけでは見えない景色もあるんだ」

知らず知らず握りしめていた手からは汗が滲んでいた。なんだ、どういうことだこれは、こいつは何を言っている?豊臣ではなく、徳川につこうとしているのか?俺ではなく家康を選ぼうと言うのか?それともあえて徳川に従い、内部から抑制を図ろうとしているのか?わざわざ豊臣から離れる理由は?どうして家康に呼ばれていたことを隠していた?何が目的だ?何を考えている?

焦りからぐちゃぐちゃになる思考回路をなんとか整え、左近と吉継に目配せをする。当然ながら二人もなまえの言葉に驚いていたようで反応に遅れはしたが、すぐに察して部屋を後にした。足音が遠ざかっていくのを確認し、再びなまえと相対する。

「…何か作戦でもあるのか?」
「作戦?なにが?」
「しらばっくれるな。考えもなにもなしに、豊臣から離れ、家康につこうと言うのか?」
「所属が変わるだけで、やることは何一つ変わんねえよ。俺はこれからも豊臣の家を」
「なら残ればいいだろう!こことあちらと、何が違うと言うのだよ!」
「…そうだな…決定的違いを挙げるとしたら、考え方かな」
「……俺の考えが、意志が気に入らないと言いたいのか…?」
「嫌だから離れるんじゃねえよ。ただ、一方的に家康を悪だって決めつけるのは良くないとは思う。あいつにだっていろいろ…」
「ふざけるな!お前は俺と戦えると言うのか!?」
「はー…そこだよ三成。お前、なんでもう家康と戦う気満々なんだよ」
「っ、」
「たしかに戦ばっかの頃から徳川には苦戦しまくったし、その頃からあいつのこと気に入らねえって思ってるのは知ってる。けど、秀吉様がいなくなった今こそ、好き嫌いで争ったりするんじゃなくて、しっかり手を取り合って一緒に協力していくべきだろ」

清正にも同じようなこと言われたんじゃねえのかとなまえは言う。確かにあいつもそう言っていた。しかし、そんなものは方便だ。あいつの底知れぬ力と野心は並々ならぬものだ。すべてが終わってしまったあとではもう遅い。だからこうして手遅れになる前に、総力をあげて、徳川を牽制しようとしているのに。

「…それに、もうお前には立派な家臣がいるだろ。親友だっている。同志もいる。俺一人いなくたって、豊臣の力は」
「違う!」
「!」
「俺は、俺が望むものは、」

からすの力添えが必要など、それこそ方便ではないか。違う。本当に必要なのはそこじゃない。ここに残るのなら、俺のそばにいてくれるのなら、その力など最早必要ない。たとえ戦が起こってしまったとしても、戦わなくて構わない。

大事な主戦力としてではなく、豊臣家の重臣としてではなく、俺は、ただ一人の人間として、お前を必要としている。それだけなのに、どうして、

「…ごめんな、三成」
「違う、やめろ、どうして謝るんだ、まだなにも、なにも決まっていない…!」
「でももう俺、決めたからさ」
「やめろと言っている!」
「っ!」

ばちんと思い切り面を叩いた。衝撃で飛んでいってしまった面を横目に、現れたなまえの顔は、ひどく穏やかで、余計に腹が立った。

「…手、大丈夫かよ」
「触るな!今さらまた兄貴面か!?もうよい十分だ!出ていくなら勝手にしろ!お前など豊臣に必要ない!この裏切り者め、二度と俺にその顔を見せるな!!」

面を叩いたせいで赤くなった手に触れようとしたそれを弾く。もういい。もう知らない。出ていくなら出ていけ。徳川につくなら勝手に加勢しろ。そうして二度と俺に、豊臣に近付くな。消えるならさっさと消えてしまえ。

叫んだせいで喉が痛い。息が荒くなる。いつもの軽口ではなく、本気の怒号だ。本気で怒っていることなど分かっているはずだ。なのに、なまえは、少し寂しそうに笑うだけ。

どうしてそんな顔をするんだ。まるでもう迷いなど無いような、そんな、嫌だ、行くななまえ、行かないでくれ、嫌だ、なまえ、

「悪かったよ、ほんと」
「あ、」
「元気でな。あんま夜更かし続けんなよ。体調気を付けながら、無理しねえよう頑張れ」
「ちが、待て、なまえ」
「またな、三成」

なまえ、と伸ばした手は、掴まれることはなかった。代わりに落ちていた面を拾い上げ、そのまま部屋を出ていくなまえ。

音が消えた。色がなくなった。これは、この感覚は知っている。覚えがある。俺を責め立てるように、体が勝手に震えだした。嫌だ。どうして離れていくんだ。お前がそばにいないと、俺は、おれは、なまえ、

「っ、ぃ、やだ、なまえ、」

どうして








190510


|