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忍犬の散歩がてらなまえの屋敷に向かうと、ちょうど掃除を終わらせたところらしいなまえが縁側で大あくびをしていた。こちらの姿を捉えると呑気に手をあげてへらりと笑う。

「よー。こんなとこまで散歩?」
「たまには連れてやらぬとな」
「えらいじゃん。撫でていい?」
「せいぜい噛まれぬように気を付けろ」
「いやもしそうなったら全力で止めて」

おーよしよしと忍犬の頭や体を撫でまくるなまえの隣に腰を下ろす。定期的に掃除しているからか、ここから見える居間は相も変わらず綺麗なままであった。恐らく他の部屋や廊下もしっかり手入れされているのだろう。意外とまめなのだなと伝えて憤慨されたのは最近の話ではない。

気持ち良さそうになまえの手を受け入れている忍犬ではあったが、度々口に出す「お手」という言葉はよくわかっておらず困惑したように小さく鳴くだけだった。残念ながらそのような普通の犬がする芸は教えていない。

「…その芸の由来は知っているか?」
「え?お手?なんか深い意味でもあんの?」
「深いかどうかは知らぬ」
「教えてはくんねえのかよ」
「ククク、自分で考えよ」
「わかんねえから聞いてんのに…」
「…ならば、まずは我の質問に答えてもらおうか」
「ん?」

ぽん、と、忍犬に差し出されたままの手のひらに己の手を乗せた。

「数年前…なぜ我がうぬと契約したのか、そう尋ねてきたな」
「あー…そんなこともあったな…」
「逆に問うが、うぬはなぜ我に契約を持ちかけた」

目をまあるくしてこちらを見上げるなまえ。忍びの力が欲しかったのであれば、他に契約を持ちかけやすい者は多くいたはず。なまえ本人が自分で言っていたように反対されるとすら予測していた相手と契約せずとも、心を許している秀吉の妻である女忍びに頼めば簡単に事が運ぶことなど分かりきっている。

結果的にこうして契約したにはしたが、己を選んだ理由は?

「…まあ、たしかにおねね様に頼めば、契約してくれたかもな」
「………」
「でもダメだ。あの人は、優しすぎるから。くの…幸村んとこの忍びも、半蔵も、情があるから。まあそうでなくとも仕官先決まってるから無駄だったろうけど」
「…情があるから契約出来ない、とはどういう意味だ」
「普通の主従関係ならしっかり信頼し合ってないと駄目だろ?でも俺の場合は特殊だからさァ。お前には話したけど。そりゃ多少信頼してほしいし、俺も信頼はしてる。ただ、お前みたいに薄情な奴じゃないと駄目だったんだよ」

悪い意味ではなく、良い意味で薄情だからお前を選んだのだとなまえは続けた。

「…いざって時に、ちゃんと俺に見切りをつけてでも生き延びてくれるような奴じゃないと駄目だからさ」
「………」
「ほら、おねね様とかって俺が無茶したら一緒についてきそうじゃん?その点お前は冷静に判断して勝手に行動してくれるだろうから、だから小太郎を選んだ」
「…たしかに、そうまでしてうぬに殉ずる理由など無いな」
「おう、それでいいんだよ」

軽くそう返して、また笑ったなまえ。常々おかしな男だとは思っていたが、ここまでとは。面倒な男に仕えてしまったかもしれない。そう思っているくせに、なぜか笑っているのが自分でも分かった。

さあ次はお前の番だぞと乗せていた手を揺すられる。犬は話し続けているのが退屈なのか、なまえの膝に頭を乗せていた。

「…本来犬や狼にとって、脚は大事な武器であり急所でもある。気安く触れられるなど、気持ちの良いものではない」
「へえ……てことは、お手してくれるのは信頼してくれてるってこと?」
「そういうことだ。こやつもうぬになつけば、いずれは反応するやもしれぬ」
「なるほどな〜…」

まあ、恐らく難しい話ではあるが。その言葉を伝える代わりに薄く笑い、乗せていた手を離した。

「頭領」
「!」

す、と姿を現した配下の忍び。静かに耳打ちされた言葉は、きっと事前に知っていなければそれなりに驚いていた内容だろう。

要点だけを伝えると、忍びは現れた時と同様に音もなく姿を消した。なまえは変わらず忍犬を撫でている。

「なまえ」
「んー?」
「秀吉が倒れたそうだ」
「……そっかァ…」

一度だけこちらを見て、そのまま返事をしながらまた忍犬の方に視線を戻したなまえ。最近咳酷くなってたしなあと語る横顔は落ち着いているように見えるが、その心情は果たして。

「…うしっ。とりあえず伏見城行くか」
「行ってらっしゃい」
「ええええ、連れてってくれねえの?」
「あまり甘やかしてはさらに駄目主人になる」
「誰が駄目主人だコラ。これはお願いじゃなくて命令です〜伏見城まで連れていきなさい〜」
「やれやれ…忍び使いの荒いご主人様だな」
「悪かったなわがままで…うおっ」

ぶつくさ文句を垂れるなまえの体を軽々持ち上げる。忍犬は配下に任せることにしよう。ここから伏見城までの距離など自分にかかればあっという間ではあるが、あまりに早く到着すると不自然過ぎる。恐らく忍び間よりもゆっくりとした早さで人伝に情報が出回っている頃だ。それに合わせて行動せねばいらぬ誤解を招くことにもなる。忍び使いの荒いわがままな駄目ご主人様を持つと苦労するものだ。

さて、いつか聞いたなまえの話通りにいくと、大戦の日は近いはず。今後また大きく変わっていくであろう世の情勢を思い、一人静かに笑った。






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