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「……なまえ…?」

長い時間をかけて説得し、ようやく城に招くことが出来たなまえと居室で饅頭を食していたのだが、途中で来訪者が来たために席を外すことになってしまった。さらに運の悪いことに相手の話の長いこと。立場上無下に切り上げることが出来ないのも最悪だった。かれこれ一刻は過ぎてしまっただろうか。どうでもいい世間話一つでよくもまあそこまで口が回るものだと悪態すらつきそうになった。いつもならここまで機嫌が悪くなることもなかったろうに、生憎今日はどの人間を差し置いてでも優先すべき男を待たせてしまっているのだ。身分が上がれば上がるほど窮屈になるなと頭を抱える。

来訪者の見送りを下の者に任せ、足早に居室に戻った。待たせてすまないと襖を開けるが、なまえは机に伏せてじっとしている。まさか眠っているのだろうか。そういえば、ここで話していた時もどこか眠たげだった気がする。きちんと睡眠をとっているのだろうか。

隣に腰を下ろし顔を覗くと、やはり目を閉じて眠っているようだった。小さな寝息が微かに開いた唇から漏れている。

「警戒されてるんだか、信頼されてるんだか…」

着ていた羽織をなまえの体に掛けながら、静かにため息を吐いた。




この穏やかな寝顔を見るのはこれが初めてではなかった。賤ヶ岳での戦いのあと、耐えきれずになまえに会いに行ってしまったあの日。いつの間にやら布団で眠っていた俺の隣に、同じように眠るなまえがいた。すーすーと寝息をたてているなまえはひどく無防備で、この頃はまだ俺の気持ちになど欠片も気付いていなかっただろう。

本当はあんな情けない姿、見せたくなかった。他の誰でもないこいつにだけは。けれど心のどこかで受け入れてくれると分かっていたから、それに甘えてしまった。すがってしまった。そしてなまえも、俺の予想通り受け入れてくれたのだ。こいつの優しさにつけ込んだ、などと言うと聞こえは悪いが否定も弁解もする気はない。まったくもってその通りだったからだ。

完全に傷が癒えたわけではない。それでも、きっと少しずつ歩んでいけるだろうと、目の前の寝顔を見て笑みが溢れた。辛くて、悲しくて、自分への怒りにどうにかなりそうで、ただ会いたくて仕方なかった。だから会いに来た。そしていつものように俺を救ってくれた。そっと頬に触れると、途端にどうしようもなく愛しさが込み上げてきて、流れるようにその唇を奪おうとした。

『こーら』
『!』
『寝込みを襲う悪い子は、別の部屋に移動してもらうよ?』

…が、第三者に遮られてそれは叶わなかった。

『…別に襲ってなどいません』
『嘘つかないの。まったく…本当なら移動してもらうところだけど、今夜だけは見なかったことにしてあげる。でも、次はないからね?』

姿を見せず、ただ声だけが静かに部屋に響いた。どうやらおねね様にも情けをかけられたらしい。仕方なくその日は何もせずに、ただその寝顔を見つめていた。気付けばまた眠ってしまっていたが、なまえよりも早くに目覚めたため、そのまま部屋をあとにする。ありがとうという言葉、ちゃんと届いているといいのだが。








「…なまえ、俺はな、最近、ずっと同じことばかり考えているんだ」

掛けてやった羽織ごと後ろからなまえを抱きしめる。腰に腕を回して、首筋に顔を埋めると、自分のものではない違う香りがした。なまえの匂いだ。

「どうすれば、こうしてお前をずっとずっと腕の中に閉じ込めていられるか。そんなことばかり考えている」

戦がなくなり泰平の世となった今、俺の望みはただそれだけなのに。

「…なあ、いっそ、枷でもつけて、この部屋から二度と出られないようにしてやろうか」

返ってくるのは寝息だけ。やろうと思えばきっと簡単に出来るだろう。けれどそれではまるで意味がない。お前の意思で、俺と共にいてほしい。そう思い止まれるほどには、まだ余裕はあるらしい。

俺にはお前しかいないんだ。三成にも、他の誰にも絶対に渡さない。お前と二人きりでこの泰平の世を生きていけるのなら、俺はもう他になにも要らないとすら思えるだろう。だから、

「……すまない、邪魔をしたか」
「!」

突然飛んできた声にゆるりと顔を上げた。襖の開く音にすら気付かなかったらしい。吉継はどこか楽しそうな声でそう言った。

「…そうだな、邪魔をされた」
「意地悪な奴だ。その男が噂のなまえか?」
「ああ。待っていろ、茶をいれさせる。おかしなことはするなよ」
「寝込みを襲っていたお前にそれを言われるとはな」

それもそうかと自嘲し、女中に茶をいれさせるため部屋を後にした。














「………んっ…」

それまでふわふわしていた意識が徐々に戻りつつある感覚に陥った。眠っていたのだろうか。俺何してたっけ。なんか顔…頬っぺた。頬っぺたツンツンされてる。えーと、何してたっけ。たしか、ずーっと行くの渋ってた高虎の城に遊びに来てたような…?最近変に忙しかったからあんま寝れてなかったんだよな。つい寝ちまってたらしい。つーかめっちゃツンツンしてくんだけど。しつこい。

「…よ…しつぐ…?」

頑張って瞼を抉じ開けた先には、見慣れた白頭巾の男がぼんやりと映った。結構寝ていたらしく声が出しづらい。本人も聞こえたのか聞こえてないのか全然ツンツン攻撃やめてくれないんだけど。なんなのこいつ。

……待て、吉継?

「っ!」
「ああ、起きたか」

がばりと机から顔を上げた。今起きたことに気付いたってことは、さっきの声には気付いてない。危うくやらかすとこだった。いや、今も十分やらかしてる。

迂闊だった。俺、いまお面してない。素顔だ。見られちまった。

「初めまして、だな。俺は大谷吉継。お前はなまえだろう?噂は高虎からよく聞いている」

よろしく頼むと差し出された手を恐る恐る握るが、話せない。もう吉継は俺の声を知っているのだ。そして顔を見られてしまい高虎との関係も知られてしまった今、からすとして素顔を晒すことが出来なくなってしまった。さっき寝惚けていたとはいえ聞こえるほどのボリュームではなかったのが不幸中の幸いだ。聡い吉継のことだから、きっと聞こえていたらあの一言だけでも俺がからすだと見抜いていただろう。

このままずっと黙ってここにいるわけにもいかない。ダッシュで帰らねえと。何故か高虎の羽織が掛けられていたが、本人はどこ行った?

「なんだ、起きたのか、なまえ」

きょろりと部屋を見回していたらタイミングよく帰ってきてくれた。慌てて吉継から離れ、高虎の方へと走る。

「どうした?」
「すまん高虎、急用思い出したから帰るわ」

羽織を押し付けながら、じゃ!と超絶ひそひそ話で言いくるめて部屋から飛び出した。あっっっっぶねえええええええほんと危なかった…運悪かったら高虎の前でからす=俺ってバレるとこだったぞ。吉継からすれば失礼なやつだなと思われてしまったかもしれないが命には代えられん。すまんな。

とりあえずまた今度二人にはそれぞれフォローいれておこう。はあ、ほんと冷や汗かいたわ。こわやこわや。












「…おい、俺のいない間に何をしたんだ?」
「……いや、何も。自己紹介をしただけなんだがな」

淡々と答える吉継だったが、何かが引っ掛かるのか、どこか遠い目をしながら開けられた襖の先を見つめていた。







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