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『殿はいつもピリピリし過ぎなんですよ。たまには素直に甘えてみたらどうです?恥ずかしいってんなら、酒の力でも借りりゃあいい』

少し隙を見せてやればいいのだとしたり顔で宣う左近の顔が浮かんで、なるほどたしかにその通りだと悟った。いつもよりも優しい声と手付きは、幼少期に無償で与えられていたそれと同じだった。無下に振り払うこともせず、されるがままで、もはや恐ろしいとすら感じた。弱った姿を見せれば誰にでもそうなのかと怒りすら沸いた。

『接吻や口吸いの概念がわからぬ』
『はっ!殿の口からそのような言葉を聞く日が来るとは…』
『笑うな、俺は真面目に聞いているのだ』
『すみません。しかしまあ、なんでしょうな…簡単に言えば愛情表現の一つですよ』
『愛情表現…?』
『口下手な殿にはぴったりなんじゃないですか?』
『…ふん。口と口を合わせただけで何が伝わると言うのだよ』
『ま、実践してみれば分かるでしょう。実践出来たら、の話ですが』

馬鹿馬鹿しいと、部屋で二人きりになるまではたしかそう思っていた。しかし触れれば触れるほど、密着すればするほど、こいつの甘い香りに包まれるほど、心臓の音が速くなっていく。息が上がる。本当は酔ってなどいないはずなのに頭がぼんやりする。

無理やり口を抉じ開けたせいで指に唾液がまとまわりついた。きっと他の人間のものならすぐにでも熱湯で消毒して何度も何度も洗い流していただろう。不快感を抱くどころかもっと深く触れたいとまで思ってしまうのは相手がなまえだからだ。その唾液すら甘いに決まっている。接吻などと、ただ合わせるだけではきっと足りない。一度触れてしまえば二度と離せなくなるのではないか。そうなってしまうことに、恐怖など微塵にも感じなかった。間抜けな声を出すなまえは今から俺が何をしようとしているのか想像すら出来ていないだろう。どこまでも優しくてどうしようもなく甘くてうんざりするほど馬鹿で、だから、俺がそばにいてやらないと。ずっとずっと。俺が。俺だけがそばにいればいい。

結局その唇に触れることは叶わなかったが。





「……お前がからすに心底傾倒していることは察していたが、まさかここまでとはな」
「…だったらどうした」
「ほう、開き直るか」
「別に隠していたつもりはない。むしろ察しているのなら好都合だ」

なまえが部屋から出たあともそのままここに残っている吉継。お前とは一度しっかり話しておくべきだと思っていた。

「お前があいつをどう思っているのかはどうでもいい。それでももし、少しでも恋慕の情があると言うのなら忠告しておく。あいつからは手を引け、吉継」
「………」
「あいつは誰にも渡さない」

清正にも正則にもおねね様にも、もちろん高虎にも、秀吉様だろうと同じだ。吉継、お前にだって渡さない。あいつは、なまえは俺のものだ。何にも代えられない俺のすべてだ。

「…安心しろ、三成」
「!」
「心配せずとも、俺に人のものを横取りする趣味はない」
「……そうか。ならば今後その気が変わらないことを祈る」

淡々と答える吉継から視線を逸らす。先程までなまえの口内に突っ込んでいた指はまだ微かに濡れていた。躊躇いもなくそれを舐めとると、ああ、やはりそうだ。舌が蕩けそうなほど甘い。指についていた唾液だけでこれだ。実際に口吸いをすればどうなるんだろう。今度こそ頭がおかしくなってしまうのではないか。

何度か寝室へ忍び込もうとしていたのは、ただ単に誰よりも近くで共に眠り、共に朝を迎えたかったから。いつだっておねね様に遮られて叶うことはなかったが、今後はさらに守りが強化されてしまいそうだ。もう幼子のように抱きしめられるだけでは足りない。人間とは本当に欲深いものなのだと心底思わされる。

「ああ、そうだ三成。俺からも一つ忠告しておこう」
「………」
「あまり盲目的になるのはやめておいた方がいい。文字通り周りが見えなくなるぞ」
「…覚えておいてやる」

ではな、とようやく部屋を出た吉継は始終表情を変えることはなかった。どこからが本気で、どこまでが冗談なのか。きっとその答えを知るのは永遠に吉継本人だけなのだろう。

盲目的になるのはよせなど、無駄な忠告だ。もうずっとずっと昔から俺の目にはあいつしか映っていないのだから。













「あ、吉継」
「!」

三成の部屋を出て歩くこと数分。後ろから飛んできた声は微かに怒りを含んでいた。どうやらもう気付かれてしまったらしい。

「秀吉様はどうした、からす」
「いやその秀吉様が大坂戻ってるらしいんだけどどういうこと?」
「おや?」
「おや?じゃねーよお前絶対嘘ついただろ」
「もしかしたら聞き間違いだっただけかもしれないだろう。そうやって一方的に決めつけるのはよくないぞからす。高虎に言いつけるぞ」
「うっ、それはズルいぞお前…!」

ぐぬぬと握り拳を震わせているからす。本当に扱いやすいな。本性を見せてくれるようになってからはなおさらだ。

三成はわざわざ言わないだろうし、からす本人も言うことはないが、きっとこいつは三成の前でもありのままの姿で接しているのだろう。けれど俺は三成と違って寛大だからな。そのくらいのことでいちいち不満を覚えたりしない。それに、俺に比べれば三成との距離の方が近いのはもう仕方のないことだ。埋めようのない時間にまで嫉妬していてはきりがない。

だから俺は、もう手段を選ばないことにした。

「それに…っ、」
「あ?おい吉継」

足が縺れたふりをしてそのままからすの胸に倒れた。流れるように簡単に俺を受け止めたからすは、大丈夫かよと顔を覗き込んでくる。

「…すまん。少し、酔っているらしい」
「はあ?お前もかよ…もういい大人なんだから加減しろっつーの…」

呆れながらそう言うくせに、背中を撫でる手はひどく優しいから、勘違いしそうになる。まるで初な乙女だなと思った。その感情は決して純で綺麗なものではないけれど。

しがみつくように着物の裾を掴む。暖かくて、とくとくという心臓の音が聞こえる。あの時と違って布越しなのが残念だけれど、それでもこの匂いと体温が心地よくて幸せだ。このまま眠ってしまえば、またぶつぶつと文句を並べて、それでも部屋まで運んでくれるのだろう。良いところでも悪いところでもある優しすぎる性格が、時に嬉しくて時に憎い。

「……からす、」
「うん?」
「気を付けろ、いろいろと」
「えっ」

なにそれどういう意味?と困惑するからすからゆっくり離れた。名残惜しいが三成に見つかってしまうとまたややこしくなるからな。

「脅威は意外と近くにあるものだぞ」

恐らく三成は俺が思っている以上にからすに対して盲目的だ。だから足元を掬われる。

俺に人のものを横取りする趣味はない。そして、からすはまだ誰のものでもない。お前の気持ちを知るのがもう少し早ければ身を引いていただろうに、気付いた時にはもう手遅れだったのだ。易々と手を引くことなど出来ないほどには、この男に夢中になってしまった。俺はからすのすべてが欲しいし、からすに俺のすべてを捧げたい。それを実現させるためなら、俺はお前すら敵に回しても構わない。

きっとお前も同じ気持ちなのだろうな三成。盲目的なのはお互い様だったらしい。

「…よくわかんねえけど、ちゃんと布団で寝ろよ」
「ああ。そうする」
「ん。おやすみ、吉継」
「…おやすみ、からす」

ああ、今夜はよく眠れそうだ。





190329


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