昔からずっと一緒の幼馴染みがいた。そいつは出会ったその時から今までずっと優しくて、ずっと俺の味方で、ずっとそばにいてくれて、ずっと大切なやつだった。声をかけて手を取ったその日から俺たちは幼馴染みで、仲間で、親友で、かけがえのない相手になって、
「お帰り、やす」
ただ一つだけ、他の人間とは違うところがあった。
「ただいまァ、なまえ」
こいつは、なまえは、俺にしか見えない存在だった。所謂透明人間ってやつらしい。それに気付かずに、そこには誰もいないだのお前はおかしいだのと白い目で見てくるやつら全員に噛みついて、気付いた時にはもう誰も俺に近寄ろうとはしなくなっていた。今もそうだ。家でも学校でも一人孤立して過ごしてる。それでも構わなかった。俺にはなまえがいるから。なまえだけ。なまえさえそばにいてくれれば俺はもうなにもいらないしなにも望まない。だってずっとそうだったから。今さらこの関係が、この気持ちが変わることなんてないと思ってた。
「今日も勉強お疲れさま!テスト、大丈夫だったか?」
「まあボチボチって感じだヨ。多分大丈夫だろうけどネ」
「そっかあ…やっぱり学生?ってのは大変そうだな」
楽しそうにケタケタ笑うなまえ。こいつは俺以外には見えないから、俺以外の人間と関わることが出来ない。姿を見ることも声を聞くことも話すことも触れあうことも出来ない。自分がいつ生まれて何のために生きているのかもわからない。そう言っていた。なまえ本人からすればそれはとても辛くて苦しくて悲しいことなんだろう。けど俺はそれでよかったと思ってる。もちろん本人に伝えやしねえけど。なんで生まれたのか、どうして生きてるのか。そんなもんどうでもいい。ただお前はずっと俺のそばにいればいいんだって、そう言ってきた。だから今日だっていつものように他愛もない話をして、笑い合って、一緒に眠って。そうしていつもと変わらない一日を過ごすつもりだったのに。
ふと曇ったなまえの笑顔。目をそらしてしまった。
「……なあ、やす」
「ナァニ?あ、腹減ったァ?そろそろ飯食う?」
「…違う。お腹はすいてない」
「じゃあなんかゲームでもする?最近新作出たから買ってきたんだけどォ」
「ゲームもしない。なあ、聞いて、やす」
「だったら先に風呂」
「やす!」
わざとらしく話をそらし続けていたら、なまえの手が伸びてきて、けど、それが俺に届くことはなかった。
「っ、」
俺がかわしたからでも、なまえの腕が短かったからでもない。触れることが出来なかったからだ。まるで空気を掴んだかのように、するりと抜けていった。
それに顔を歪めたのはなまえだけじゃない。
「……ごめん、やす。ほんとはもっと早くに伝えなきゃいけなかったんだけど」
小さな小さな蚊の鳴くような声に、耳を塞ぎたくなった。
「多分さ、もう時間ないんだよ、俺」
そんなの言われなくても知ってた。ただ今みたいにずっと目をそらしてただけ。日に日に透けていく体も、小さくなっていく声も、寄り添ってこなくなったことも、全部見て見ぬふりしてただけだ。直視してしまえば、その事実に触れてしまえば、もうなにもかも終わってしまう気がしたから。
「でも、伝えるのが怖くて、出来なかった。ごめん。だから、」
「もういいヨ、なんにも言わなくて」
「ダメだ、聞いて」
「うっせえっつってんだヨ!!もう言われなくてもさァ、わかってから俺、もう、いいって…!」
いやだ。聞きたくない。認めたくない。信じたくない。終わりにしたくない。
堪えられなくなってなまえの方を見たら、もうほとんど周りの景色と同化してしまっていた。
「……ありがとう、やす。俺のこと見つけてくれて。ずっとそばにいてくれて。出会えた人間がお前で、本当によかった」
「っ、だから、」
「俺が生きる意味…俺が存在する理由をくれたのはやすだ。だから俺、ずっとずっと、幸せだった。これからも一生こんな毎日を過ごしていけたらって思ってた。本当なんだ」
「…だからなんだヨ…都合のいいことばっか言ってんなよ、どうせ、消えんだろ?俺一人残して、勝手に消えんだろ!そうやって一人だけ言い逃げして満足かよ!最っ悪だな!もういいよ消えんならさっさと消えろよ!オメーなんか、もう、」
俺の涙は重力にしたがってどんどん下にこぼれてくのに、なまえの涙はふわりふわりと宙に消えていく。ふわふわきらきらとあやふやになっていく体が静かに近付いてきて、もう触れられないくせに、俺の顔に手を伸ばしてきた。
「お前の言う通り、俺、もうすぐ消えちゃうんだ。でもな、これだけは伝えたくて」
「……んで…なんで、今さら…っ」
どうせ消えちまうんなら出会わなければよかったのに。ごめんなと何度も謝るなまえは、笑いながら泣いていて、
「でもな、やす、でも、俺、消えちゃうけど、もうやすにも見えなくなっちゃうけど、俺、これからもずっとずっとやすのそばにいるから」
「見えなきゃ…わかんねーヨ、そんなもん…」
「それは、ごめん。でも本当だから。信じてて。大丈夫だから。俺はずっと、そばにいるよ」
どんどん薄くなっていく顔が、急にすぐそばまで押し付けられて、反射的に目を閉じてしまうと
「愛してくれてありがとう。俺も、これから先もずっと、愛してる」
感じられないはずなのに唇に温もりを感じた気がして、そのまま目を開けたのに、そこにはもう誰もいなかった。