「あれ?今日体育館じゃねーの?」
「今使えないんだって。ほら、」

三年が卒業式の練習してるから。


廊下から聞こえた何気ない会話と、シャーペンの芯が折れた音を、どこか遠くで聞いていた。少し破れてしまったプリント。その破れた部分がまるで口のようで、俺を嘲笑っているようだった。










「………あのさあ、お前部活は?」

早く行けよクソチャリ部に怒られんの俺なんだぞとぶつぶつ呟くみょうじさん。一つのイスに二人してぎゅうぎゅうになって座っている状態だ。授業終了と同時にみょうじさんのクラスに押し掛けて、それからずっとこのまま。ちらほら残っていた他の三年の人たちもいつのまにか帰っていて、教室には二人きり。普段ならラッキーなんて思いながらここぞとばかりに構ってもらおうとしてただろうに、それどころじゃなかった。みょうじさんの体に凭れるようにしてずっと俯いたまま。いつもより俺を咎める言葉の語気が優しいのは、そんな俺の様子からなにかしら察しているからだろう。その気遣いが嬉しくて、それを伝える代わりにすぐそばにある腰に腕を回した。

「…なに。なんかあったのかよ」

いつもより優しい声に泣きそうになる。

全部全部言ってしまいたい。でも言えない。言ったってなにも変わらない。この人を困らせてしまうだけだ。それは嫌だ。でも、同時に、全部伝えて困ってしまえばいいなんて思う自分もいて、

「……なんでもないです。ちょっと甘えてるだけです」

肩に顔を埋める。ああ、みょうじさんの匂いだ。安心する。もうこのまま時間が止まってしまえばいいのに。ずっとこのまま、二人きりで、この教室だけ時間が止まってしまえばいいのに。この世のなにもかもから置き去りにされたって構わない。むしろそれがいい。それでこの人とずっと一緒にいれるなら。

「ああそう。それだけ」
「それだけです」
「それだけなのになんで半泣きなのお前」

なんでわかるんだろう。顔、見えてないはずなのに。

「あ、黙った。図星かよ」

顔を上げなくてもわかる。どうせすっごいニヤニヤしてるんだろ。

「なんだよ、練習キツくてか?授業難しいからか?もしくは…あー、テストの点が悪かったとか」
「……違います」
「やっぱりなんかあったんじゃねえか」
「………」
「…なんでもいいけど、そろそろ部活」
「よくない!」

腰に回していたはずの手が、いつのまにか制服の襟元を掴んでいた。それでも顔は上げられない。今上げたら、喋れなくなる。

「全然、よくない…!」

なにもよくない。いいことなんか一つもない。

「俺、だけですか、こんなに不安なの」
「!」
「あと少ししたら、こうやって、今まで当たり前だったことが当たり前じゃなくなる。簡単に触れられる距離じゃなくなる。毎日当たり前のように会って話して触れてって、簡単に出来てたことが、出来なくなる。なのに、俺だけですか、こんなに怖いの」

声が、体が震える。言っちゃダメだって、言えないって、ずっと耐えてきたのに。だけど一度こぼしてしまえば、もう止まらない。

「俺は、不安で仕方ない。怖くて仕方ない。もうすぐしたらこの学校にあんたがいないことが当たり前になるだなんて、考えられない。一年も我慢なんて出来ない。離れたくない…っ」
「…黒田、」
「行かないで、ください。卒業なんかしないで。そばにいて、みょうじさん、頼むから、」

どうしようもないワガママだってわかってる。わかってるのに、わかってたのに、言ってしまった。何も言わずに俺の背中を擦るこの人は、今、何を考えているんだろう。

ほんの少しでいいから俺のことを考えてくれていたらいいなと、頭のどこかでひどく場違いなことを考えている自分がいた。










160621