(みょうじくんのお帰りですよーっと)

さらば鹿児島。ただいま神奈川。倒れたって聞いて焦ったのにそれほど大事ではなかったらしい。よかったのはよかったけどほんと人騒がせな父ちゃんだぜとため息を吐いた。とりあえず時間が時間だったので出来るだけ静かに静かに…と意識しながら寮の廊下を歩く。もうすぐ就寝時間だから誰もいない。俺も早く部屋戻らねえとな。さすがに疲れたから即寝してやる。

「………あ、」
「…お帰りなさい」
「……た、だいま」

下を向いてダラダラ歩いていたのがいけなかったのか。ドアの前の人影にまったく気付けなかった。しかも思ってたよりも薄いリアクションにまた驚く。もっと怒ってるかもしくは泣いてるか大声で叫ぶか。そんな感じの反応が帰ってくると思っていたのに、まるで真逆。淡々と落ち着いたような態度で、薄く笑みを浮かべながら俺を見る、黒田。

まず、たしか俺、フったよな。理不尽に。なんでこんな普通なのこいつ。あれか、納得できなさすぎて一周回って逆に落ち着いてる的な?しかもいつ帰ってくるかは荒北にすら話してねえぞ。もしかして毎日こうやってずっと待ってたのか。こいつならやりかねないから怖ェ。

まあ恐らく話の大筋は荒北に問い詰めて聞いてるはず。

「鹿児島、行ってたんスね」
「(やっぱり聞いてるか)…おう、ちょっと用事で。それで?お前はなんでこんなとこにいんの?」

もう就寝時間くるから帰れよ。素っ気なくそう伝えてみたものの、黒田の笑顔は変わらなかった。なんだ、なにを考えてる。話聞いたんなら分かっただろ、もう戻れないって。

戻ってしまえば、お前はいつかきっと

「俺ね、」
「!」
「俺、あんたが、みょうじさんが望むことは、なんだってできるんです」
「は?」
「俺を傷付けると思って、あんな嘘吐いてたんでしょ。それで別れようって、言ったんでしょ。けどね、みょうじさん、そんな回りくどいことしなくてもいいんですよ」

薄ら笑いが、少しずつ少しずつ、深くなっていく。

「もっと早くに全部話してくれればよかったのに。水臭いじゃないっスか。まあでも、今でも全然間に合います」
「…なにがだよ」
「言えばいいんですよ、俺に、なんでも」
「なんでも?」
「ついてこいって言うなら、学校なんかさっさと中退してついていきます」
「!」
「引き止めろって言うならどんな手使ってでも引き止めるし、行きたくないって言うなら俺がもっと違う遠いどこかへ連れてってあげます。あんたが望むなら、なんだってしてあげます。なんだってできます。嘘じゃないです。俺、本気ですから。だから、俺にお願いしてください。あんたが願うこと、望むこと、全部俺が叶えますから」

だから、ずっと一緒にいましょう?

掠れた声が廊下に響く。お願いしろだって?懇願してんのはどっちだよ。

(いや、違うな)

懇願だなんて可愛いもんじゃない。ただの脅しだ。呪いだ。

俺と一緒にいれば、お前はいつかきっと壊れちまうと思った。それだけが怖かった。なんだかんだで、ちゃんと物事の分別ができるやつだと思ってた。だから今ならまだ間に合うと思ってた。でも、それは俺の過信だったのか。

もうとっくに手遅れだったのか、お前。


「……それ、本気か?」
「!」
「俺が願えば、なんでも、叶えてくれるんだな?」
「はい、もちろんです。なんでも言って、みょうじさん。俺が全部叶えてあげる」

背中に回された腕が熱い。赤く染まった頬も、少しだけ潤んだ目も、だらしなく緩んでる口も、全部俺のせい。きっともう俺のことしか考えてないんだろ、こいつ。

でも、ダメだ。無理矢理にでも引き返させる。

「…じゃあ、俺の一生のお願い」
「はい」
「もう俺のことは忘れろ」

ぴしりと、顔が固まった。

「学校もちゃんと卒業しろ、親が悲しむぞ。それに今チャリ部の副主将なんだろ。来年はおっきい大会出て、一位取り返すっつってただろ。ちゃんと有言実行しろボケ」
「ま、って、みょうじさん、何言って」
「俺からのお願いはそれだけだ。叶えてくれんだろ」
「それとこれとは話が違う!」
「違わねえ」
「違う!俺は、あんたと一緒に」
「雪成」
「っ、」

ごめんな、ズルくて。

「これは、お前にしか、叶えられない。世界中どこ探したって、叶えてくれるやつはいない。お前にしかお願いできねえことだ」

ズルいって、汚ないって、いくらでも思ってくれていい。それでもお前はこれ以上俺と一緒にいちゃいけない。

「雪成、俺の一生のお願いだ。俺のことは、もう忘れろ」

全部全部忘れて、前に進んでくれ。

「……んなの…ズリィ…っ」
「うん。知ってる。ごめんな」
「…かな、えれば」
「うん」
「みょうじ、さんは…し、あわせ、スか…?」
「…ああ。それさえ叶えてくれんなら、これ以上の幸せはねえよ」

そうすれば、お前はまだ戻れる。俺みたいなやつに壊れていく必要も意味もない。

「頼んだぜ、雪成」

泣き虫なお前の涙を拭うのは、もうこれで最後だ。






160706