連載短編 | ナノ


▼ 恋人の役目とは

(「おねがい」後のお話)






「…………」
「あ……あの…みょうじ、さん……」
「…………」
「…………その…」

部屋の中の様子は少ししか窺えない。ドアの隙間からギリギリ見えるのは、見たこともないくらいに動揺しきって汗だくのユキの顔だけだ。会話を聞く限り、ユキと向い合わせで座っている人物…みょうじさんは、ここからは顔が見えないが恐らく、いや確実にものすごい恐ろしい表情でユキを見つめているんだろう。無言なのとえもいわれぬ雰囲気からそれを察するのは容易かった。

みょうじさんのことはユキからの話でしか知らなかった(ユキ曰くめちゃくちゃかっこよくてめちゃくちゃ可愛くてなんだかんだで俺のことめちゃくちゃ好きだとか)が、さっき初めて話した時は軽い雰囲気ながらもいい人だという印象を感じられたのだ。なるほどこの人はこの人なりにしっかりユキを愛しているんだなと感じられるような、口の悪さは多分それを悟られたくないからなんだろうなと思わされるような。だって、そうでもないとわざわざここまで会いに来ないだろう。ユキから散々聞かされていた話通りだと、たしか今は鹿児島にいらっしゃるとか。それをユキのために栃木にまで来て、しかもホテルにまで顔を出しに来てくださったんだ。きっとユキも喜ぶだろうと一つ返事で部屋へ案内した。みょうじさんの顔を見るや否や、いつもの不敵な笑みはどこへやら。初めて見るんじゃないかってくらいの眩しい笑顔で椅子から飛び上がったユキ。みょうじさんもそんなユキを見て苦笑いしていた……が、それは一瞬で固まることになる。

『…………お前……なに、その体』

そう、ユキの包帯や絆創膏まみれの体を見た瞬間だ。まとう雰囲気もガラッと変わり、当然それにいち早く気付いたユキの顔も強ばった。低い低い声で二人にしてくれと言われ、仕方なくこうして部屋を出たふりをしてドアから様子を窺っているのだが。



(と…とうちゃん…ユキちゃん、大丈夫なの、あれ)
(わからない…僕もあんなユキを見るのは初めてだからな)
(すっごいな〜、黒田さんもあんなに焦ることあるんだあ)
(焦るっつーかビビってるっつーか…)
(黒田さん、男の人と付き合ってたんスねー)


「…………みょうじさ」
「仕事の都合でさあ」
「!!」
「昼間移動になっちまったから一日目はレース見れてねえんだよ」
「そう、だったんス、ね。あ、けど、み、見に来てくれただけでもう俺大感激ですから!仕事忙しいんだろうなと思って連絡したかったけどしてなかったのに来てくれたとかほんと嬉しくて」
「だからさあいつどこでどうしてそんな意味わかんねえくらいボロッボロになっちまったのか知らねえから全部全部話してくれる?」
「うっ、」
「つーか話せ」


(ここここここ怖いよおおおおあんなに怖い人だったなんて聞いてないよおおおお!!)
(たしかに意外だったな。心配するにしてもあんなに威圧的に…ユキからの話だと、いつも冷たいというか素っ気ないタイプの人だと聞いていたが…)
(素っ気ないどころかだいぶ怒ってますよねーあれ)
(黒田さんビクビクじゃねえか…泉田さん、ここは俺が出てフォローを)
(銅橋さん出てったらただのケンカになるんじゃないですか?)


「ご…ゴール前、ちょっと、無茶しただけっス」
「ちょっと?」
「…………け、けど!大丈夫ですから俺!明日には痛みもだいぶ引いてるだろうし、ちゃんとみょうじさんに走ってる姿見てもら」
「なにが大丈夫なんだよ」
「いっ……!」
「こんな、包帯まみれで、なにが大丈夫なんだよ。顔も傷付いてるし」
「……みょうじさん…」

軽く体の傷に触れたみょうじさん。低い声は変わらないけれど、たしかにユキの心配をしている感情が読み取れるものだった。ユキもそれに気付いてる。だからこそ、困ったように顔を歪ませているんだろう。

ただ、心配しているだけならまだいい。しかし怖いのはここからだ。もしも心配しているがゆえに、明日の出場を止められたら?

(……それが一番最悪のケースだな)

出来うることなら、本当は出場させない方がいいのかもしれない。しかしレース出場はユキからの希望でもあるし、僕自身…いや、チームとしても彼が出ているからこそ全力を発揮することができる。ユキはチームの要だ。そこを押さえられては、明日以降のレースの厳しさは目に見えている。でも、相手はあのみょうじさんだ。あの人に対するユキの盲目っぷりは部内の人間ならほとんどが知っている。付き合いの長い僕と葦木場ならなおさらだ。さすがの葦木場もそれに気付いたのか、さらに顔を青ざめさせて僕を見つめている。

最悪のケース。それは、みょうじさんからユキへレース棄権を求めることだ。



(ね、ねえ、これ、ほんとに不味くない!?みょうじさんから棄権しろって言われたら…!)
(……まさかとは思うが……残念ながら、ユキなら、あるいは…)
(けどそうなったらヤバくないですか?)
(ヤバイどころじゃねえよ!そりゃあの怪我は気になるけどよォ!)
(泉田さん、これマジで止めた方がいいんじゃないですか?)



「……もしかしてだけどさあ……お前、そんな体で明日も走るつもり?」
「…………走り、ます」
「…………」
「怪我がどうとか、関係ねえ。俺は走れます。だから、」
「走るな」
「!」
「……つったら、どうする?」
「………それ、は…」
「ただでさえそんだけ怪我だらけな姿見せられて、自分でも意味わかんねえくらい心配なのに、その上明日も走るとか、馬鹿じゃねえの」
「…………」
「どうすんだよ。無理して一生もんの事故でも起こしたら。それ以上ボロボロになったら」
「……でも、」
「俺はそんなの耐えられねえ」

それでも、走んの?

みょうじさんの言葉が静かに響いた。ユキの目が、ここからでもわかるくらいに揺らいでいる。やはり僕が出ていくべきだろうか。いや、しかし、決めるのはユキだ。恐らくこの話を断れば、みょうじさんとの関係が悪化するのは一目瞭然だろう。それをあのユキが耐えられるかどうかなんて、考えなくてもわかる。今でこそ安定しているが、みょうじさんの卒業前の数ヵ月は本当にすごかったからな。もちろん、悪い意味で。


「………俺のせいで、あんたに、そんな顔してほしくない」
「…………なら、」
「でも、走りたい…!」
「!」
「ずっと憧れてた、夢の舞台だった。去年、それがすぐ目の前まで来てたのに、走れなかった。けど、俺は今走ってる。一年かかっちまったし、怪我だってしたけど、走ってる。ここで。インターハイで。今日だって嬉しくて楽しくて仕方なかった。しかも一位だ。リザルトもゴールも、全部、一位だった。最高だった」
「…………」
「……なのに、俺だけこんな、途中でリタイアなんざ、出来ない。明日も、明後日も、走りたい。怪我が酷くなろうが、体がどうなろうが…みょうじさんのこと、不安にさせるのは嫌だけど、それでも俺は、走りたい」

ユキの声は震えていた。けれど目の揺らぎはなくなっていて、真剣にみょうじさんを見つめている。

「…………あっそ」
「っ、」
「なら、死んでも走れよ」
「はい…………え、」
「あ、でもそれ以上ひどい怪我したらさすがにキレるからそのつもりで」
「……あの……みょうじさん…?」
「あ?」
「…………」
「なんだよその間抜け面」
「いや……てっきり、走るなら別れるとか言われるのかと…」
「はあ?なんだよそれ、お前は俺を何だと思ってんだ」
「や、だってあんだけ怒ってたらそう思うでしょ!」
「んなことねえだろ。つか、むしろ俺の言う通り走らねえとか言い出したらそれこそ別れてたけどな」
「!!!」
「……相手がやりてえっつってること無理矢理やめさせるなんてことするかよ。背中押してこその、こ、恋人だろうが」
「………ぁ…」
「俺は、そのために」
「みょうじさあああああああああああん!!!」
「いっ…おま、う、うるせえんだよ!今何時だと思ってんだ!つか怪我!悪化するから!離れろ!」
「みょうじさんがっ…みょうじさんがかっこよすぎて辛い……!!」
「聞いてねえよ離れろっつってんだよ!」



(よ……よかったあああ……!)
(ふう…どうやら心配するだけ無駄だったかもしれないね)
(うわー、黒田さんが黒田さんじゃなくなってる)
(誰だありゃ…)
(ヒュウ!まさしく別人ですねえ)


部屋の中でぎゃあぎゃあと騒いでいる二人を見て、安堵の息を吐いた。みょうじさんのことも、そしてユキのことも、どうやら甘く見ていたようだ。いい関係を築いている。本当に。



「それにお前明日も早いんだろ!さっさと寝ろ!俺ももう帰るし、いい加減」
「帰るんですか!?」
「何でビックリしてんの!?帰るに決まってんだろもう他所で部屋とってんだよ!」
「いやだいやだいやだここに泊まってってください」
「駄々こねんなクソガキ!離せ!」
「じゃあ離すからみょうじさんからもギュッてしてください!」
「怪我に響くから離せっつってんのにするわけねえだろ馬鹿黒田!!」
「むしろ回復するかも」
「しねえよ頭お花畑かてめえ!!」
「じゃあキスで我慢してやります」
「なんで上から!?やっぱりレース出れねえようにしてやろうか包帯増やしてやろうかコラ」


……しかし、これ以上続けられてはさすがに近所迷惑なので、そろそろ割り込むことにしよう。









160817

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