今日は朝も昼も自転車競技部の誰かに会うことはなかった。ようやくみなさんも納得してくれたらしい…と思ったけどまだだ。よく考えると部活前に特攻してくる人とか美術室に居座ってる人とかもいたもんな。まだ油断できない。くそう、いつになったら戻ってくるんだおれの平和な日常よ。

(…おれだって元に戻れるなら戻りたい)

だけどあの人はそうじゃないだろうし、何よりまた愛されない不安を味わいたくはなかった。それなら全部このままなかったことにして、普通の恋でもして忘れていけばいいんだ。わざわざ計画まで立ててくれていたみなさんの気持ちは嬉しかったけど、

「………うぇっ?」

なんだ、思わず変な声を出してしまった。美術室前の廊下に、いつかのような人だかりがまた出来ていた。けれど前とは違って人数が少ないし女子だけでなく男子もいる。ていうか美術部じゃないか。部長までいるし。

黄色い声援どころかどこかビクビクした様子で美術室を覗き込むみんなの姿を呆然と眺めていると、そんなおれに気付いた部長が猛ダッシュでこちらにやって来たのでさらにビビった。超速い。

「遅いよみょうじ!」
「あ、あの部長、これは一体…」
「四の五の言わずに早く入れ!」
「えっ、や、ちょ、事情説明は」

おれの言葉なんか聞く耳持たずで無理矢理美術室へと押し込まれてしまった。いやいやいやわけがわから…

ピシャリと閉められたドアの音を、どこか遠くで聞いていた。

「……え、」
「!」
「…なん…なんで…」

美術室のど真ん中の椅子に座っていたのは荒北先輩だった。けど、おれを見た瞬間ガタンと大きな音を立てて立ち上がった。立ち上がったというか、と、飛んだ。それにまた驚く。

そうか、みんなが中に入れなかったのはこの人がいたからだったんだ。でも、なんでこんなとこに。今日の自転車競技部トンデモ大作戦の担当は荒北先輩本人なのかあなんて現実逃避してみたけど、無理だ。心臓がうるさい。混乱しすぎて目が回りそうだ。

自分から離れたくせに、ずっとずっと会いたかった人。どうせ来ないって諦めてたくせに、いつか来てくれるんじゃないかって期待してた。前に会えた時は逃げてしまったけど、今日は、まだ大丈夫そうだ。まあそれでも声が出ないくらいテンパってるけど。

「……悪かった」
「え」
「昨日、全部聞いた。あいつらに」

全部?トンデモ大作戦のこと?なんだ、荒北先輩には知らされてなかったのか。けれどそんなことよりも、心底申し訳なさそうに謝るこの人は本当に荒北先輩なのだろうかと疑問に思った。

「あいつらに言われたこと忘れていいから。気にすんなヨ、マジで」
「………」
「ごめんなァ。オメーは離れたがってんのに。迷惑だったろ」

あれ。

誰だ、この人。おれはこんな人知らない。

「…それだけ、伝えたくて。邪魔したな」
「あの、」
「!」
「本当に、全部忘れていいんですか」

忘れろとか気にすんなとか言うくせに、泣きそうな顔しておれを見るこの人は、おれの知ってる荒北先輩じゃない。

葦木場くんが言ってくれた言葉の意味が、今やっとわかった。

「…おれ、ずっと寂しかったです」

おれだけじゃない。荒北先輩もきっと、ずっと我慢してたんじゃないかな。ずっと隠してたんじゃないかな。その理由や隠していたものが何かまでは分からないけれど。

「付き合ってもらえただけでも満足だって我慢してたけど、無理でした。おればっかり好きで、最初はそれだけでも幸せでした。でも、やっぱり、それだけでずっと一緒になんていられない。辛いし切ないし苦しかった。寂しかった」

だから別れた。別れてもらった。

「なのに、荒北先輩も寂しがってるとか、そんな意味わかんないこと言われたんです。そんなわけないですよね?まさか、荒北先輩が、そんなわけ」
「寂しかった」

返ってきた声はやっぱり泣きそうで、それを聞いたおれの方が先に泣いてしまった。

「……そんなわけ、ないでしょ」
「ほんとはもっと早くに会いに行きたかった」
「…そんな…」
「でももう話も聞いてもらえねえんじゃねえかって思って、行けなかった。前だって顔見た瞬間逃げられたし。分かってたことだけど、すげえへこんだ」
「……嘘でしょ?」
「嘘じゃねえ」
「嘘だ」
「嘘じゃねえ!俺もずっと好きだった!」
「っ」

初めて聞いた愛の言葉はとても乱暴だった。だけど、この世のどんな言葉よりも真っ直ぐで綺麗に思えた。

「あの絵見た時も、好きだって言ってもらえた時も、付き合えた時も、一緒に飯食った時も、初めてデートした時も、本当に嬉しかった。でも全部素直に話したらウゼエって思われると思ったし、ダセーし、変な見栄張って言えなかった」

これが、荒北先輩の隠してたもの。

「…それが原因で、お前のこと不安にさせて、苦しませて、離れてったってんなら、もうそんな無駄なことやめる。だから…もっかいチャンスくれよ」

それじゃあ、今まであの人たちが言ってたことは全部本当だったんだ。この荒北先輩が、本物の荒北先輩だったんだ。

「…別れてくれなんか、言うなよ…っ」

ああ、よかった。おれはちゃんと愛されてたんだ。

それならおれたちが離れる理由は、もうないんじゃないだろうか。

「……じゃあ取り消します」
「!」
「…取り消すから、おれなんかの為にもう泣かないでください」
「……ほんとに?」
「ほんとに」
「………よかったァ…」
「うっ、」

瞬間ぎゅうっと抱きしめられて、一気に頭がパンクしそうになった。き、今日は、やばい。こんなに話せたのは初めてだったし、本当の荒北先輩を知ることができたし、抱きしめられたし、何より、やっと好きだと言ってもらえた。こんなに幸せで大丈夫かな。明日死ぬんじゃないだろうか。それくらい、今のこの状況が信じられなかった。

今度こそ、おれ、ちゃんと幸せになれるかなあ。

「ごめんな、ほんとにごめん、みょうじ」
「そんな…おれの方こそ、もっとちゃんと話すべきでしたし…」
「…もう絶対離さねえから」

な、んだ、そのキュン殺し台詞は。どう返せばいいのかわからない。あたふたと視線をさ迷わせていたら窓やらドアやらの向こうからこちらを見ていた部員とバチリと目が合った。やばいめっちゃ忘れてたまだみんな廊下にいるんじゃん。

「あ、の、でも、そろそろ、部活が」
「やだ」
「…あ…荒北先ぱ」
「やだ」
「ぶ……部活…」
「やだ」
「………」
「やだ」
(なんにも言ってないのに…!)

あー…この人、本性出したら出したで、ちょっと面倒くさくなるのかもしれない。頑なにおれを離そうとしない荒北先輩に気付かれないようこっそり苦笑いして、先輩の背中に恐る恐る腕を回した。





(今度こそ幸せになれる、よね?)





160503