5 「あ!いたいた!黒田くん!」 女子の声が聞こえて軽く振り向く。そして後悔した。女子の視線が俺ではなく廊下の窓に向いていたから。 (…そうだ。そうだったな) 中学の頃もそうだった。よくありそうで意外に少ない黒田という名字。この学校にいる黒田は俺だけだった。去年までは、の話になるが。女子にだって男子にだって、先輩にだって後輩にだって、いつだって黒田黒田と騒がれるのは俺ではなく雪成の方だ。それに苛立つなんて子どもみたいなことはもう中学で卒業した。ただ同じ名字だからややこしくて、それだけが鬱陶しくて敵わない。兄弟なんだから仕方のないこととはいえ、思わず舌打ちしそうになる。これが母さんだとか、他のまったく知らない黒田さん相手だったならなんとも思わなかったろうに。 名前だけじゃない。俺たちは一つ違いの兄弟ではあるが、体格のいい雪成と俺の身長はまったく変わらない。それどころかそろそろ追い抜かれそうだ。そしてこの髪。後ろ姿だけで雪成だと勘違いした奴がどれだけいたことだろう。本当にいい迷惑だ。きっと雪成も同じことを思ってるんだろうけど。 「お、黒田」 まただ。どうせまた雪成の方なんだろう。誤解が生じないようにさっさと教室に退散するか。 「おい、無視すんなヨ」 「っ!」 軽く腕を掴まれた。なんだ、俺の方だったのか。振り返ると不機嫌そうに目を細めた荒北くんがいた。なんだか久し振りに会う気がする。 「…悪い。弟の方だと勘違いした」 「はあ?明らかにオメーのこと指してただろ」 「いや、偶然弟が外にいるみたいでな」 窓からグラウンドを眺める。どうやら体育らしい。体操服を着た雪成がクラスメート達とじゃれ合いながら歩いてる。ほら、とそこを指して答えると、ふーん、とつまらなそうな答えが返ってきた。まあ俺も同意見だが。 「…そういえば、自転車競技部に入ったらしい」 「……あー…」 「能力はあるかもしれないが、性格に難がありすぎる奴だ。気に障ったら遠慮なく指導してやってくれ」 「…そー、だネ。りょーかい」 「……荒北くん?」 「あ?いや、なんでもねー」 どこかぎこちない態度の彼が気になった。 『前に会ったお前のクラスメートにだって勝ってやる』 同時に、数日前に聞いた言葉を思い出した。まさか、あの言葉通り、荒北くんが?彼の練習中の姿や彼が走るレースには数えるほどしか立ち会ったことがなかったけれど、自転車に乗っている時の彼の顔は、野球部だった時の真剣なそれと同じだった。上手い下手のわからない素人な俺から見ても、彼はすごく頑張っていたと思う。だから、もしもそんな彼が、あんな愚弟に負けてしまったのだとしたら、俺は、 「っ…荒北くん、まさか」 口を開いたと同時に、チャイムが鳴ってしまった。 「っと、悪ィ。次移動だから急ぐわ」 「あ、ああ」 「またな」 そのまま颯爽と行ってしまった背中に、えも言われぬ不安が過る。もしも、さっき俺が想像したことが現実に起こっていたのだとしたら。だからあんな態度をしていたのだとしたら。 俺はもう彼に合わせる顔がないじゃないか。 160229 |