月光 | ナノ




20


『……俺も、また君と投げ合いたい』

言葉と一緒に返ってきたのは、対峙した時のギラギラした鋭い目やキリッとした顔つきとは全然違う、ふわふわキラキラしたようなはにかんだ笑顔だった。その瞬間、俺たちの周りだけ時が止まったような錯覚に陥った。ダラダラ流れてた汗の感触とか土で汚れたユニフォームの匂いとか生温い風の音とかずっと眩しかった太陽の光とか、なにも感じなくなって、ただ馬鹿みてえに目の前のこいつに釘付けになった。

『…オメー、名前は?』
『黒田。黒田、なまえ。1年』
『黒田……俺は』
『知ってるよ、荒北くんだろ?』

君、有名だから知ってる。そう言ってまた笑ったなまえを見て、今度は顔が熱くなったのがわかった。夏特有の暑さじゃねえ。恥ずかしくなって顔をそらしたかったけど、それすら惜しくてずっとその笑顔を見つめていた。心臓がうるせえ。ひどく喉が渇く。何か喋らねえとって思えば思うほど言葉に詰まる。

初めて勝負したその時は結局それ以降なにも話すことが出来なかった。けど、試合が決まる度また会えるって嬉しくなって、あいつとの勝負はやっぱり楽しくて、言葉を交わすことも増えて、また会えた時にすげえとこ見せれるようにって練習も張り切りまくって、また野球をする楽しみが増えて、いつしかこの気持ちの正体にも気付いて、それで、

舞い上がってた中2の夏。すべてが終わった。



(悪ィなまえ。もう約束守れねえわ、俺)

怪我を理由にして全部投げ出したのは俺だ。それでも諦めずに続けてりゃまた違う世界が見えたのかもしれない。でも、もう本来の力は出せなくなってた。出してもらえたとしても捨て試合ばかりになるだろうし、下手すりゃベンチ。初回からの登板なんざもっての他だ。そんな状態であいつに会えるわけがねえ。あいつがすげえすげえって褒めてくれた、憧れてくれてたあの時の俺にはもう戻れない。今の俺を見たらなまえはきっと幻滅する。分かりきってる。そうなったら今度こそ俺は空っぽになっちまうから、それならいっそのこともうこのまま忘れちまおうと、逃げるように地元から離れた野球部のない箱根学園を選んだ。




『黒田なまえです。よろしくお願いします』

けど、神様って奴は俺を見捨てなかった。

どこかで野球を続けるんだろうと思ってた。だからここには来ないだろうって。そう思ってたのに。もう会わないつもりだったのに。もう忘れるつもりだったのに。同じ学校で、しかも同じクラスで再会した。らしくねえけど、これはもう運命か何かだろって本気で思った。入学して落ち着いた頃に俺の方から話しかけたら、なまえも俺のことを覚えてくれていた。もう見ることも叶わないと思っていたあの頃のままの笑顔で、話をしてくれた。どうして野球を続けていなかったのかはこの時はまだ聞けなかったけど、そんなのはもう二の次だった。

こんなチャンスはもう二度とないだろう。せっかく掴んだ蜘蛛の糸みてえな奇跡。忘れようとするのは間違いだった。その証拠にまたこうして巡り合った。だから絶対に離しちゃいけねえ。本能的にそう感じた。何を犠牲にしようと、どんな手を使おうと、必ずなまえを手に入れる。けど簡単なことじゃねえ。何か大きなきっかけがあれば動けるのに。そう思いながら、それでもそばにいられるだけで幸せだった最初の一年間はあっという間に過ぎていった。




2年に上がる直前に見つけた。あいつを俺のものにするための“大きなきっかけ”。

『……弟の雪成だ』

すぐに気付いた。仲良しこよしだなんて可愛らしい関係じゃねえこと。なまえが弟に対していい感情を抱いていないこと。それから、俺を見る弟の目がほんの一瞬だけ殺気立ってたことも。

考えるだけでめんどくさそうな兄弟関係。これを利用しない手はない。なんにも知らないふりして二人をつつけばあっという間に俺の望んでいた状況を作り上げることが出来た。唯一の味方。絶対的な存在。最後の逃げ場所。まさか強姦までするとは思わなかったが、これでもうなまえは実質俺のものになった。



「…もうこいつはいらねえな」

だらしなく呆けてやがった黒田を放置して、部屋に戻る前に無理矢理へし折ったケータイを窓の外へ放り投げた。あんなのあるだけ邪魔だ。もう俺だけでいい。今さら周りは誰も味方なんかしてくれねえ。軽蔑されて突き放されて見捨てられる。でも俺は違う。だから安心して俺のそばにいればいい。ずっとずっとずーっと、死ぬまでずっとだ。



俺の部屋で静かに眠るなまえの顔に触れる。いつだったか言ってたよな?荒北くんは太陽みたいだって。それは大きな間違いだ。俺にとってはお前の方が太陽だった。けど、誰からも愛される太陽じゃなくて、俺だけに愛される独りぼっちで輝く月でいてほしい。俺が真っ暗な闇になってお前を覆い隠してやるから。だからもうなにも心配しなくていい。

「…絶対逃がさねえヨ。ずっと二人でいような、なまえ」

あと少し。もう少し。なまえが完全に俺に依存しきるまで、存分にあいつを利用させてもらおう。ひどく歪んでいるであろう笑顔を隠しもせず、そのまま薄く開いていた唇にキスをした。



160416

prev next