練習中も、寮に帰ったあとも、入浴中も夕食中も就寝前である今も、やすがいない。日中はどれだけ嫌がっても引っ付き虫だったのに。しんの言葉を聞いてから少し意識して見ようと思えばこれだから拍子抜けだ。部屋が隣なんだし、会おうと思えば会えるんだけど。
(明日になれば戻ってるかな)
それなら今のやすに無理して会わずに、明日元に戻ってから会えばいいだろう。
「なまえチャン」
「!」
なんて軽い気持ちで構えていたら現れたやす。そうか、そりゃそうだよな。襲うなら、今この時間、この場所がもっとも最適だもんな。口元がひきつったのがわかった。
「……どうした?もうすぐ、消灯時間だぞ」
「ハッ、わかってるくせに」
「っ、やめ、!」
寝転んでいたベッドから素早く降りようとしたら、それを分かってたみたいにさらに素早く押さえつけられてしまった。ああ、ダメだ、またおんなじこと繰り返してる。こんな時間だともうぱちもしんも来てくれない。助けは来ない。ならもう諦めて流されてしまおうかと思ってしまうけど、ギリギリのところで恐怖が勝って体が勝手にはね除けようとしてる。
これがやすなら。いつものやすならどうなんだろう。いつもと違うやすだからこんなに拒絶してしまうんだろうか。でも、いくら様子が違うからって、これは
「……はあ」
「!」
「そーんなガチで拒否られたら傷付くじゃナァイ…」
冷めた。
ぽつりとそれだけ呟いて、呆気なく俺から離れていった。なんだ、助かった、のか?あまりに唐突だったから驚いた。今日一日の様子を見てたら、無理にでもされるかと思ったのに。
「…なあ、」
「オヤスミ、なまえチャン」
「え、あ、お、おやすみ…」
「バイバイ」
「っ、」
『夢で終わらせるわけないデショ?』
『なかったことになんてさせないからネ?』
『靖友の奴、ちょっと寂しそうに見えたからさ』
瞬間背筋がぶわぶわってして、気付いたらやすの手を掴んでた。
「……なまえチャン…?」
「…………やす、」
「!」
そういえば俺、このやすになってから一度も名前呼んでなかった。
「絶対、なんにもしないって約束するなら、あの、そ、添い寝くらいなら、大丈夫だから」
「………」
「あ、その、調子いいって思われるかもしれないけど、でも、俺…」
「……優しいネ、ほんと、なまえチャンは」
「……そんなことない」
「優しいヨ」
その時の儚げな笑顔を見てやっと気付いた。どうして急に現れたのか。どうして何度も襲ってきたのか。どうして寂しそうにしてたのか。きっとこのやすは、元から俺を本気でどうこうするつもりなんかなかったんだろう。優しいなんて、優しいのはお前の方だよ、やす。
「…………なまえチャーン…」
「……もう寝ちゃったァ?」
「…………俺ネ、ほんとに嬉しかった。最後の最後に、バレちゃったみたいだけど、それでも受け入れてくれたこと」
「また長い間会えなくなるネ。今回無茶しちゃったからなァ俺」
「なまえチャンの手ェ、あったかいなァ」
「ずっとこうしてそばにいれたらいいのに」
「……ねえなまえチャン、」
「…………俺のこと、」
「忘れないよ」
「!」
「ごめんな。遅くなってごめん。やすはやすなのに。怖くなって不安になって逃げてごめん」
「……起きてたのォ?」
「俺忘れないよ。ずっと覚えてる。ずっとそばにいる。お前はやすなんだから。多重人格だか夢だかなんだか知らないけど、何でもいいよ」
「…………」
「俺は荒北靖友が好きなんだ。愛してる。忘れなんかしない。大丈夫」
「…………」
「だから、またいつでも出てきて。出来るかわかんないけど、その時までにはその、は、初めては、済ませとく、し…」
「……ぷっ、」
「っ、笑うなよ……」
「だってなまえチャンが可愛いからァ……はー、なんか、心配して損したわ」
「…………」
「けど、不安にさせてごめんネ。明日にはちゃんと元に戻ってるから」
「……やす、」
「お言葉に甘えてまた会いに来るからさァ、今度こそ、楽しいことたくさんしようネ?」
薄暗い部屋でもわかるくらいの至近距離にあるやすの目は、たしかに濡れていた。手を伸ばそうとしたけど、なぜか意識がふわふわしてきて、思うように動けない。
「またネ。バイバイ。俺もずっとずっと、愛してるよ、なまえ」
瞼に優しく唇が触れた途端、俺の意識は完全にシャットアウトされた。
160312