男はその昔、名もない小さな集落に暮らす貧しい夫婦の間に生まれた。戦国乱世であるこの時代で、決して恵まれた環境とは言えなかったが、それでも家族は幸せに暮らしていた。優しい優しい父と母であった。朧気な記憶の中の二人は、たしかに自分を愛してくれていたという自覚が男にはあった。

生まれてすぐに、男はなまえと名付けられた。なまえ、なまえ、といとおしそうに呼ばれる自分の名前が好きだった。大層甘やかされていた自覚もあったが、ただの甘ったれには育たず、大きくなったら二人に恩返しをしよう、早く一人立ちをしようと意気込むほどには孝行息子であった。そんな息子が父と母の自慢であったし、苦境の中でも自分を愛し育ててくれる父と母がなまえの自慢であった。


転機が訪れたのは、なまえの年が十になった頃だった。大好きな父と母の間に、また子どもが生まれた。初めて見る生命の誕生に驚き、感動したのを覚えている。自分とは違う女の子だった。父と母は口を揃えて言った。お前も一緒にこの子を守っていくのだと。誰よりも弱いこの子を誰よりも一番近くで守ってやるのだと。大きな使命だと感じた。自分にしか出来ないことだと、この子は自分に加護されるために生まれたのだと、そう思った。きっと父と母に言われずともそうしていたであろう。それまで一番弱い存在だった自分よりも、遥かに弱い存在。たった一人の妹。同じ栗色の髪を持つ可愛い女の子。千代と名付けられたその子を抱くこの時間が、何よりも大切に感じた。そんな息子の姿に、夫婦は深く感動していた。もう少し余裕ができれば、いつかこの集落を抜け、町に出よう。家族四人で幸せに暮らすのだと、明るい未来を夢見た。


その夢は、夢のまま終わってしまったけれど。


父が原因不明の病でこの世を去った。母は女手一つで幼い兄妹を養おうとしたが、無理があったのだ。体力的にも精神的にも追い詰められた母もまた、父の後を追うように逝ってしまった。あっという間の出来事で、まだ幼いながらもなまえには悲しむ暇さえなかった。父はいない。母もいない。守るべき妹は無邪気に笑いかけてくる。この子だけはなんとしても生かさなければならない。けれどどうやって?働こうにも便りはないし、まだ一歳にも満たない千代を置いて外へなんて行けない。同じ集落の人間に頼もうとしても、千代が嫌がり泣き叫んでしまうのだ。まるでなまえと離れるのを拒むかのように悲痛な声で泣き叫ぶ千代を、それでも見てやろうという者はいなかった。

「かわいそうに」
「恨むならこの時代を恨みなよ」
「せめてもう少し大きかったらねえ」

集落の人間はみな哀れみの目を向けるだけで、誰もその手を差し伸べようとはしなかった。しかしそんな彼らを恨もうとは思わなかった。彼らも同じなのだ。いつもと同じ毎日なんて約束されていない。明日は我が身という状況の中で過ごしているのだ。彼らを恨むのは筋違いだろう。

まだ十になったばかりの子どもがここまで達観した考えを持つようになったのは、その生い立ちが大きく影響していたのだと思う。もう誰も頼れない。信じられるのは自分だけ。この子を守れるのも自分だけ。自分が強くあれば、きっと大丈夫。この子に不幸な思いはさせない。大きくなるまで、絶対に守ってみせる。

恐らく、先に逝ってしまった父と母に代わろうという使命感よりも、この子を失う恐怖の方が強かったのかもしれない。この子だけが唯一繋がりを持った自分以外の人間だったから。生まれた時から優しい父と母の愛を受けていたなまえには、ひとりぼっちになることなど考えられなかったのだ。この子さえも失ってしまえば、その時こそ自分も終わりだろう。母が死んでしまい二人きりになってしまったその時も、なんとか壊れずに立ち上がることができたのは、他でもない千代が変わらぬ笑顔で自分を見つめていたからだ。


「……大丈夫だよ」
「うー…?」
「ぼくがまもるからね、千代」


言葉の意味が通じるはずもないのに、まるで返事をするかのように微笑んだ千代。頬擦りをすれば楽しそうな声が耳に響いた。




(その日、僕は千代を抱いて集落を出た)


150927