「大変だよー官兵衛殿ー!」
聞き慣れた高い声と廊下を走る音がうるさい。呼び出されている黒田官兵衛は特に反応もせずに自室で書物を読んでいたが、それを無視するように乱暴に襖が開けられた。
「…半兵衛、少しは静かにせぬか。読書の邪魔だ」 「………」 「……どうした、何かあったのか…」
部屋に入った途端に黙りこんだ半兵衛を不思議に思い、ちらりとそちらへ視線をやり絶句した官兵衛。それもそのはず、立っていたのは白い容姿の腹黒軍師ではなく“自分”だったからだ。
「…何者だ」 「卿こそ何者だ。私の部屋で何をしている」 「どこぞの忍びだな…風魔小太郎か?服部半蔵か?」 「え、ひっど。僕の名前は入ってないの?」 「!」
姿だけでなく声も口調も自分のものと合わせてくる忍びをどうしてやろうかと思考を働かせようとした刹那、姿形は自分と同じまま、しかし声と口調ががらりと変わった。しかも、知っているそれだ。思わず目を見開いたその時、大きな音と煙とともに現れたのはやはり見知った忍びの姿だった。
「……なまえ、か」 「久しぶり、官兵衛くん」 「生きていたのか」 「逆に僕のこと死んでると思ってた?」 「…どちらにせよ、私には関係のないことだ」 「相変わらず冷たいなあ」
たしかに多少は驚いたがそれだけである。さして気にせず再び読書を再開した官兵衛。なまえの目にはそう見えた。
姿を消す前から何度か関わりがあったが、その頃からこの男はひどく冷たかったなあと思い出して一人笑った。その様子をちらりと横目で盗み見ている官兵衛には気付かずに。
「…先ほどは半兵衛の声真似もしていたようだが、何が大変なのだ」 「なーんだそれも気付いてたのかよ。さすが官兵衛くん」 「質問に答えよ」 「そりゃあこの僕が戻ってきたぞーっていう朗報に決まってるだろ」 「…くだらぬ」 「そう言うなよ、ちょっとは驚いてたくせに」 「気のせいだ」 「冷たいなあ…まあいいや。今日は顔見にきただけだし」
どうやらなまえはもう出ていく様子。官兵衛は容易く察したが、そのまま帰してしまうのかと言われればそういうわけにもいかない。いろいろと聞きたいこともある。しかし自分の言葉や態度のせいで引き留めづらくなってしまった。素直に書物を置けばいいだけの話なのに。
さて、と切り出したなまえ。同時に再び開いた襖から今度こそ本物の竹中半兵衛が現れた。
「ねえ官兵衛殿、なんかさっき俺にそっくりな声が…え、」 「お、半兵衛くん!君と会うのも久しぶりだなあ」 「うそ、なまえ…本物!?今までどこに隠れてたの!?」 「それは秘密。でも半兵衛くんも官兵衛くんも変わりなさそうでよかったよ」 「なまえは…なんかずいぶん変わったねー。纏ってる空気が柔らかくなったというか…」 「そうか?特に意識はしてないんだけど」 「変わったよー、うん、変わった変わった。ね、官兵衛殿」 「…少なくとも変化をして現れるなどという悪戯紛いのことはするような者ではなかったな」 「え、変化してたの?じゃあさっき俺の声真似してたのもしかしてなまえ?」 「そうだよー、そっくりでしょ?」 「うわー俺の声だー!すっごいよなまえ、さすが忍びだね」
半兵衛に褒められしたり顔で笑うなまえにため息を吐く。それに気付いたなまえは苦笑いを返した。
「ごめんって官兵衛くん。僕もう帰るし」 「……別にそういう意味では」 「そうだよもう帰っちゃうのー?ひっさしぶりに会うんだしもっと話そうよ、空気読めない官兵衛殿なんか置いといてさあ」 「いいんだよ、ちょっと顔見にきただけだからさ」 「ほらあ官兵衛殿のせいでなまえ帰っちゃうよ?ちゃんと謝って」 「悪いのは勝手に勘違いをしているなまえの方だ」 「もう、なんでそういう言い方しか出来ないかなあ…」 「たしかにちょっと冷たすぎるぞ官兵衛くん」
元就先生なんて泣いて喜んでくれたのに。なまえが何気なく溢したその言葉に反応したのは半兵衛だけではなかった。それに気付いたのは半兵衛だけで、頭を掻きながら襖を開けたなまえには知る由もない。
「…んじゃ、また遊びに来るなー」
そう言うや否や、再び煙に包まれたなまえ。それらがすべて消え去る頃にはなまえの姿もそこにはなかった。すぐさまため息を吐いたのは半兵衛である。それは言うまでもなく、官兵衛に向けてのものだった。
「……なんだその顔は」 「わかってるくせに。どうして官兵衛殿はそんなに天の邪鬼なことばっかりするの?」 「質問の意味が解せぬな」 「久しぶりに会えて嬉しかったくせに」 「………」 「さっき元就公の話が出た時反応したのも嫉妬なんでしょ?自分より先にあの男に会いに行ったんだ、って」 「馬鹿なことを…それは私ではなく卿の方だろう」 「会えて嬉しかったことは否定しないんだね」
にんまりといやらしく弧を描く半兵衛の口に、自然と官兵衛の眉間に皺が寄る。押し黙る官兵衛を見て肯定だと受け取った半兵衛は、だけど、と続けた。
「せっかくまた遊びに来るって言ってたんだから、今度はもう少し分かりやすーい態度を取るように!分かりましたかー?官兵衛くん」 「………」 「ま、官兵衛殿には難しいだろうけど」
とりあえず、今度は俺のためにも余計なことしないでねー。言い逃げするように伝え、半兵衛も部屋をあとにした。遺された官兵衛はというと、やはり不機嫌そうな顔をしている。
余計なこととは、先ほどのように冷たい態度を取るなということだろう。つまりは半兵衛自身もなまえと再会したことを喜んでいる。それもそのはず、しばらく会えなくなっていた以前からあの忍びのことを気に入っていたのは周知のことだった。
初めは珍しいこともあるものだとしか思っていなかった。だのにどうしてこうなった。その答えはもう既に出ている。ただ、官兵衛本人がそれを頑なに認めようとしないだけで。
(本当はずっと会いたかった、など) (そんな馬鹿な話があるものか)
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