また今日も来なかった、とため息を吐く。もう少し待ってみようかと思ったが、あまり夜更かしをしているとまた隈のことを指摘されるだろうからそろそろ眠らないと。
(…一度心配させれば、もっと来てくれるようになるだろうか)
一瞬過った邪な考えをすぐに振り払う。約束したのだ、また必ず来ると。なら私はただ待つしかない。大丈夫。まだあれから数日しか経っていない。もうすぐ現れる。そう言い聞かせて、手にしていた書物を閉じたその時。
「先生、起きてる?」
聞こえた声に、勢いよく振り返った。
「なまえ!」 「あ、起きてた」 「やっと来てくれた…待ってたよ、ずっと」 「そうなの?いやあ、待たせてごめん」
いつの間に来ていたのか、へらりと笑うなまえの姿がそこにあり、沈みかけていた気持ちが面白いくらいに簡単に跳ね上がるのがわかった。しかし大好きなはずのその笑顔がどこか影を落としているのは気のせいだろうか。
「こんな時間にごめんね。起きてるかどうか不安だったんだけど…ていうか、どちらかと言えばもう眠っててほしかったかな」 「もう眠ろうとしていたところさ。だが、少し粘っていて正解だった」 「粘る必要なんかないよ。いつ来るかなんかわかんないのに」 「でも会えた」
それだけでも粘った甲斐があると笑えば、なまえも少し呆れたような笑みを返してくれた。けれど、やはりそれもなんだか曇っているように見える。
名前を呼ぼうと口を開くと、首もとの手拭いを取り着物を脱いだなまえ。黒ずくめになってしまった彼は、ちょこんと私の目の前に座った。
「……ねえ先生、また一緒に寝てもいい?」
どこか心細そうなその声に戸惑う。何かあったのだろうか。一緒に寝ること自体は構わないし、むしろ私としては万々歳なのだが。
「ああ、構わないよ。行こうか」 「…重ね重ねすまない」
自分から頼んでおきながら申し訳なさそうに目を伏せるなまえがいとおしい。そんなこと気にしなくてもいいのに。おいでと手を引いて寝床へ向かう。昔そうしていたように掴んだ手は、あの頃よりも大きくなっていて、けれど体温はあの頃と変わらず少しばかり冷たかった。
やはり遠慮されたらどうしようと少し不安に思いつつ布団に入ると、意外にもすんなり隣に潜り込んできた。私の顔を捉えるその目は暗い。
「…おやすみなさい、先生」 「おやすみ、なまえ」
そう言ったくせに、お互い目は閉じない。変な状況だなあと可笑しくなって笑ってしまった。それはなまえも同じだったようで、乾いた笑い声が漏れる。
「……何かあったのかい?」
頬にかかる髪を払い、優しく問いかける。少しも逸らされないけれどその目はたしかに揺れていた。
「…本当は姫ちゃんのところに行こうとしてたんだ。昼前に出発したから、この時間にはもう着いてたのに」 「…………」 「でも、うん、ちょっと、しんどくなって」
だから先生に会いたくなったんだ。力なく笑うなまえに胸の辺りがきゅうと痛む。本来の目的が私でなかったことには少し不満だけれど、辛い時に会いたくなるのは自分なのだと、そう言ってくれた。
「…気にすることはないよ。むしろ私としてはもっと頼ってほしいくらいだし」 「ふはっ、先生には頼りすぎてるくらい頼ってるのに」 「え、そう?」 「そうだよ。先生には、本当に感謝してる。何度助けてもらったかわからない」 「……それなら何よりだよ」 「うん。なんか、先生の顔見ただけで安心してきた。ありがとう」
へにゃりとしたそれは、今までのとは違うちゃんとした笑顔だった。言葉通り安心したというような、気を抜いているような、そんな笑顔。
ねえなまえ、君は知らないんだろうね。何の気なしに溢されるその言葉一つ一つが、どれだけ私を縛りつけているのか。それならずっと私のそばにいればいいのに。戦もなにもないこの世で、いったい何が君を縛りつけているというのか。君の笑顔が曇る理由が外にあるのなら、ずっとずっとここにいればいいのに。私が君の笑顔の理由になるのなら、ずっとずっとそばにいればいいのに。
すっかり口を閉ざしてしまった私を不思議に思ったのか、そろりとなまえの手が伸びてきた。顔に触れようとしたそれをぎゅっと掴む。
「……なまえ、」 「ん?」 「…君さえよければ、ここにいてくれないか?」 「え」 「忙しいのはわかってる。でも、もう待つのは嫌だ。気まぐれな君のことだ、また急に姿を消すかもしれない。そんなことになったら、私は今度こそ死を選ぶよ」
私を生かすも殺すも君次第だと、そう言い聞かせるように囁く。端から見れば狡い手だと思うかもしれない。しかし当の本人は驚きもせず恐れもせず戸惑いもせず、真っ直ぐ私を見つめていた。
「大丈夫。もうそんなことしないよ」
そう言ってふんわりと笑うなまえに涙が溢れるのはなぜだろう。
「でも、まだどこかひとつの場所に留まることはできない。やらなきゃいけないことがあるんだ。だから、約束」
握っていた手をするりと解き、互いの小指が結ばれる。
「全部終わったら、さっきの話、考えさせてほしい」 「!」 「あとどのくらい時間がかかるかわからない。でも必ず終わらせる。そしたら、そのあと、先生のそばにおいてくれる?」
嘘か真か真実はわからない。でも、それでも、その言葉だけでも十分だった。これがかの有名な謀将だって?聞いて呆れる。
断る理由なんてなかった。繋がった小指ごと彼の手を引き寄せて、食むように口付ける。味なんてしないはずなのに胸焼けしそうなくらい甘く感じた。
「くすぐったいよ先生」 「…待ってるよ」 「!」 「ちゃんと待ってる。信じてる。どこで何をしようと、教えてくれなくてもいい。だから最後は必ず私のもとへ帰ってきて」
情けなく震えた声で懇願すれば、力強く頷いてくれるなまえ。口約束なんて普段ならきっと信じないくせに。けれど大丈夫だ。なまえならきっと帰ってきてくれる。そんな根拠もなにもない自信があった。
「……ありがとう。できるだけ、早く終わらせるから」
その言葉はまるで自分に言い聞かせているようだった。
『おにいさん、だれ?』
あの時君と出会わなければ、長い時を共に過ごさなければ、風魔に返してしまわなければ、何かが変わっていただろうか。しかしそれらすべてが相まって今があるのなら、私はそれを素直に受け入れよう。
(いちばんのこうふくは、きみとであえたこと)
140608
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