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Lulls us to rest with songs, and turns away



雨の単調音は美しい。また、長たらしい雑多で混然とした雨の突如と高まり徐々として静まる音も。山々に照る太陽は美しい、また海に投げられて火と金色の旗を帯びる囚われの落日も。我々の知っている顔は美しい。空と海の火と金色、長い暖かな雨の安らぎを持ち、その歌声で悩める我々を慰めて欲しい──『キスして良いわよ、貴方がしたければ』サラにそう言われたら、私は彼女が差し出す頬に喜んでキスをするだろう。彼女の頬にキスが出来るのなら、大抵の事には耐える事が出来る。だが、決まってそういった際のキスは、取るに足らない人間に与えられた駄賃のようなものであり、何の価値もないように感じられるのだ。その頃──サラと初めて出会った頃の事だが、私が何を望んでいたか、一体誰に分かるだろう。自分でも分からなかった事を、どう説明出来るというのか。私が恐れていた事は、偶然と偶然が重なり合って起きた失敗が降り掛かった時、或いは自分の不甲斐無さをまじまじと認めた時に眼を上げると、窓の一つから彼女が中を覗いている事だった。遅かれ早かれ、冴えない顔と洗練されていない格好で仕事をしているところを彼女に見られ、勝ち誇った眼で蔑まれるのではないか。その恐怖が頭から離れる事はなかった。外が暗くなってから、新しく作成した武器の設計図に抜けがないかを今一度確認し、ジョン・デンバーのお気に入りの曲を口遊んでいると、その武器で颯爽と騎士達が敵を倒していくのが想像され、次に、白い硝煙の中にサラの顔が浮かんだ。綺麗な髪は風に靡き、灰色の眼は私を嘲笑っている──そんな時、私はよく、壁に暗い夜の板を嵌めたように見える窓を見やり、彼女が丁度顔を引っ込めたような気がして、遂に現れたかと観念したものだ。私に一つの尺度が与えられたという訳である。変化を知らない確実な尺度が。それがいつも誤った事なく守ってくれる為、私は空虚な物を充実と思ったり、浅はかなものに精力を費やしたり、他人の雰囲気や根拠のない考えを血管の一筋にすら染み込む事を許したりはしない。如何にも、病気や悲惨、また死がこれから後、私を脅かす事はあろうが、虚偽に脅かされる事はない。何故なら、この新しい私の務めは単純な高貴さに満ち満ちており、それに照らせば、まやかしの仰々しさは無に帰するのだ。私が悪しき道に踏み込もうとし兼ねても、扉という扉には悉く錠が下りている。最早私は奥底まで掻き乱され、核心を汚染され、美しく良いものを見誤る事は決してない。何故なら、人生の事実の意味の輝きが私の心を燃え上らせた為である。サラ・バラデュールという輝きが。

気持ちの良い、静かな場所を歩いていた時の事である。土塁の向こうの川を帆船が往き来し、潮が引いている時には、沈んだ船が未だ川底を進んでいるようにも見えた。私は、白い帆を広げた船が海に出て行くのを見ると、何故か必ずサラの事を思い出した。 遥か遠くの雲、帆、緑の丘の中腹、水平線に、陽の光が斜めに射した時も同様だった。絵のように美しい全ての光景と、孤独な身の上で孤独な生活を送る彼女が、何かしら関わっているように思えたのだ。それからというもの、私は空や海の風景の至るところに彼女の面影を見出していた。遂に、その彼女ついて、ずっと頭に引っ掛かっている彼女についての様々な考えを、誰かにすっかり話してしまおうかとも思った。半ば決意さえしていた。だが、それは最も簡単に親友に気付かれていたのであった。
「ヘレネーを探してるんだな、君?」
確かに私は馬鹿みたいにきょろきょろしていた──サラを探して。随分と見掛けないから、と口籠もりながら言った。「外国にいるらしい」と、ハリーは次のように続けた。
「アーサー曰く、淑女になる為の教育で、ずっと遠い所にいるんだと。前よりもうんと綺麗になって、それも会う人皆に称えられる程に。ヘレネーを失った気がするかい?」
最後の言葉には底意地の悪い喜びが感じられ、おまけに些か不愉快な笑いまで加わった為、私はどう答えれば良いか分からなかった。別にわざわざ外国へ行って、勉強して努力して、淑女になんかならなくたって良いじゃないか。充分だよ。快活で健康的、気立てが優しい女の子は幾らでもいる。だが皆、サラのようにはなれない。勉強するしない以前から、そもそも全く違うのだ。彼女が英国へ来て一年も経たないある日、私は彼女の眼が不思議に思慮深く直向きな事に気付き、とても綺麗で善良な眼だと心密かに思った。あのような眼は、巷の女の子には持ち得ない。幾ら勉強しても、努力しても、サラのようにはなれないのだ。
「失った気はしないでもないが、まあ、綺麗な女の子だよ。今までに見た誰よりも綺麗で、僕は物凄く憧れてる。彼女の為に紳士になりたいんだ、ハリー」
正気の沙汰ではないこの告白の後、私は引っこ抜いた草を池に投げ入れ始めた。それらの後について、漂っていたいような気持ちで。彫刻のような彼女の落ち着いた顔が、すうっと私の前を通った。
「紳士になりたいのは、彼女を見返してやりたいから?それとも、射止めたいからか?」
ハリーが穏やかに聞いたが、「分からない」 と何故か私は不機嫌に答えた。
「だって、見返してやりたいのなら、君が一番よく分かっていると思うが、彼女の言葉を完全に無視する方が自由に出来て簡単だろうよ。射止めたいのなら、これも君が一番よく分かっていると思うが、彼女に射止める価値はないと思うな」
それは、正に私が何度も考えていた事だった。その時も、はっきり分かっていた。だが、素晴らしく善良で聡明な大人すら毎日迷い込むこの驚くべき矛盾に、上流階級出身の異性相手に目の眩んだ哀れな中流階級出身の青年が陥らない訳があろうか。 「本当にその通りかも知れない」と、私はハリーに言った。
「でも、僕は彼女に物凄く憧れてるんだ」
要するに、私がロマンス小説の若い騎士の輝かしい行動を全て取り、王女と結婚する事を望んでいた。サラの部屋を通り過ぎた時には、立ち止まってその窓を見上げた。古びたの壁、閉ざされた窓。老いた逞しい腕のように、茎と巻きひげで煙突にまで絡み付いている頑丈な緑のツタは、私を主人公にした豊かで魅力的な謎を作り出していた。勿論彼女がその中心にいて、命を吹き込んでいる。それ程までに私は彼女の虜になり、彼女を巡る想像や希望に取り憑かれ、青年時代の生活や性格に多大な影響を与えられていたが、その憧れに満ちた朝でさえ、私は現実の彼女を超える何らかの性質を彼女に付け足してはいなかった。迷路に入り込んでしまった哀れな自分の跡を辿る事ほど辛いものはない。私自身の経験によれば、恋する人間について一般に考えられている事は、必ずしも正しくない。私が大人の男としてサラを愛したのは、単に彼女が抗し難い程に魅力的だったから──それが掛け値なしの事実である。はっきりと言っておく。悲しい事に、私は道理に反し、見込みもなく、心の平安も得られず、希望も潰え、幸せも感じず、あらん限りの失望が見えているというのに、それでも彼女を愛していると、四六時中ではないにしろ、度々意識をしていた。はっきりと言えば、私はそういう事が分かっていても、彼女を愛していた。分かっていても感情を抑える役には立たなかった。それは、彼女を完全無欠な人間だと心から信じていたとしても同様だった筈である。

随分と見掛けなかった女性が眼を上げ、茶目っ気たっぷりに此方を見た。その時私は、女性の眼がサラの眼である事に気付いた。しかし、前とは別人のように変わり、余りにも美しく、女性らしくなり、凡ゆる点で格段に魅力を増していた為、私自身は全く変わっていないような気がした。 彼女を見ていると、自分がまた絶望的に取るに足らない人間、冴えない顔と洗練されていない格好をした中流階級の人間に逆戻りしたようだった。彼女とは住んでいる世界が違う、自分は不釣り合いだという感覚に襲われ、どうしても手が届かないように思えたのだった。しかし、彼女は握手の手を差し出した。 私は、また会えて嬉しい、とても長い間この時を待っていたという趣旨の事を辿々しく述べた。サラは笑い、私のもう片方の手に持っていた消火器を見てまた笑った為、私はそれを即座に地面に下ろした。先代のマーリンが考案し大量生産していたペン爆弾を、私の代で廃絶する為に中庭で全て爆破し、燃え広がらないようにせっせと消火活動をしていたのだ。きっと顔や服も汚れていたに違いない。依然として私はパッとしない男で、彼女はそんな私を笑うのだが、私は彼女に惹かれるばかりだった。我々は夢のような空間の中で、嘗て私に大きな影響を与えた不思議な力に包まれていた。昔のように誇り高く、気紛れではあったが、そうした性質は完全に美貌の配下にあり、彼女の美しさから切り離す事は、少なくとも私にとっては不可能であり、不自然だった。私の青年時代を掻き乱した家柄や品の良さへの憧れも、初めて我が家や生い立ちを恥ずかしいと思わせた身勝手な野望も、敵を象った的に銃弾を撃ち込み、彼女の顔を危険な匂いのする白煙の中に浮かび上がらせ、夜の闇から引き出して自室の窓から中を覗かせ、忽ち消し去る幻想も、サラという存在から決して切り離す事は出来なかった。要するに、過去にしろその時にしろ、私の人生の最深部と彼女を分けて考える事は出来なかったのだ。