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Vigil



*THE GOLDEN CIRCLE

テキーラという名の竜巻が、病み上がりのハートの代わりに吹き飛ばした、米国製の無頼漢の身体。それらで躓かないように、ハートとサラは先にバーの外へと出た。『其処で一日立っている気か?』との煽り文句を言い終わる前に一発殴られてから、彼の表情に顕となった、年季の入った矜持の喪失と毛の生えた心臓に芽生えた焦り。その能力の異変を眼の当たりにした彼女は、直様席を立ち、応戦しようとした。小物からダメージを食らっているハートを一度も見た事がなく、充分に呆気に取られたのだが、その一発殴られたハートを見ただけで、凡ゆる思いが憎しみに満ちて心中で沸騰した。だが、隣に居たマーリンが彼女をそっと制止し、動き始めたテキーラの後ろ姿をじっと見た。「神経は修復出来たが、身体が未だついていかない」と最もらしい説明をしたマーリン。『それって老いって事?』という問い掛けを、心身共にダメージを受けているハートに遠慮し、口に出す事をしなかったのは英断であった。追い討ちを掛けてはならない。特にこの人には。サラは胸一杯に外の空気を吸うと、自分の周囲の野原を眺めた。空に近く、丘々まで連なる糸杉の並木、この焦茶と緑の大地、くっきりと描き出された疎らな人家──これらを通しても、彼女は此処最近の出来事について、何も正確に理解する事が出来なかった。夕暮れは、この地方では、憂愁に満ちた休息の一刻に違いない。今日、溢れるような太陽は、風景を慄かせ、非人間的に衰弱させているように感じた。何故ハートは死ななければならなかったのか。何故ハートは蘇ったのか。単なる小さな偶然が重なり合って生じたものと、隣り合わせに息衝いている自分をも理解する事が出来なかった。
先程の、自分自身に対する苛立ち──研ぎ澄まされた精神に釣り合わぬ身体の動き。数々の幻覚と声高らかな挑発、その場を意のままに支配する事が出来ないという気の食わなさにすっかり翻弄されてしまった。このような有り様では、肝心のサラに呆れられてしまう。彼女がその心に留めるものは完璧なスパイであって、二流のスパイではない。地の女神の剣となって敵の心臓を貫き、また盾となって死を弾き、彼女を先導する高潔な騎士であった筈だ。騎士団の先頭に立ち、昂然と采配を振るい、他の騎士をも凌ぎ、世界で最も偉大な騎士ガラハッド。それが今やどうだ、異国の余所者に尻拭いをされるというこの有り様は……。ハートはサラの横顔を見た。一つの蝶が彼女の周囲を舞っている。彼女の眼の色と同様の色を備えた可愛らしい生物が、まるで彼女の意識に添っているようであった。幻覚と念頭で理解する前に、彼女の髪で羽を休めている蝶に利き手を伸ばす。柔らかな髪に指先が触れると、灰色の蝶は再び舞い上がる。日の光によって宝石と輝き、彼の隻眼を通り過ぎて行く。細やかな空気の振動が睫毛に流れる。女神が、振り返る……。
「バタフライ?」
「すまない。幻覚と分かっているのだが」
「直ぐに治るわ──私を信じて、ガラハッド」
此処にして漸く、つれないサラの姿が形を整え愛らしく現れた。此処にして漸く、優しい花の唇を漏れる息吹きは訴える如く、阿るが如く、神々の誡を思わしめた。そして、この神々しい声の中に胸は如何に慄いた事か。凡ゆる尊貴も自卑も、生の苦しみも喜びも、押し並べて如何に美化され、品位の高いこの調べの中に現れた事か。燕が飛びながら蜂蜜を捉えるように、彼女はいつもハートの心を掴むのであった。歓喜が来たのでない、嘆美が来たのでない、二人の間に天の平和が来たのだ。幾度か繰り返して彼は自分に向かい、また彼女に向かって告げた。最も美しいものは、また最も聖なるものであると。しかも、これは全て彼女の身に具現していた。彼女の声と等しく彼女の生命は美しかった。切れた唇の隙間から血が覗くと、サラがそれをハンカチで拭った。酷く人間染みた、側から見ると何の意味も持たない行動。何が彼女にそうさせたのかは皆目分からない。だが、彼は何度も心中に思い描いたその手から避ける事をせず、だが身体は硬直してしまった。
「私が記憶喪失であると知り、実際にそのような私を目の当たりにした時、君はどう思った」
「貴方をそのまま学者にしても良いと、ガラハッドに戻らなくても良いと思ったわ」
「それは……何故だ?」
「貴方のあんな幸せそうな顔を見た事がなかったから」
『誰が彼女を傷付けたの?ガラハッド』──確かに、私は君に酷い事をして来た。その手に拳銃を握らせ、その手で凡ゆるものを葬らせた。君自身が拒絶を見せたものでさえ、私は君に殺しを選択させ、ヴァレンタインが私にした事を、私は君にやらせて来た。殺しのみならず……だが、君はキングスマン以外に生きる道はないのだ。この道の他に情熱が入り込む隙はない。君は英国の為、英国が見る勝利の為、英国が掲げる正義の為に生き、死んで行かなければならないのだ。この私と共に。無上の柔らかな眼差しを向けられ、思わずハートはその灰色の瞳を見詰めた。その色は琥珀色の一つの目の内に、自分の亡き後の事を蒙昧と映し出した──マーリンに心を許したか?ガラハッドは頭部を撃たれ、惨めな有り様。だがその空席に遺体はない。最大の脅威は過ぎ去ったが、世界は未だ救われない。果てのない任務に舞い戻る日々。傷だらけの君の身体を、彼はどう思っただろう。益々、君の事を深く愛するようになっただろうね。この人にはもう自分しか居ない、この人をこの暗澹な境遇から救えるのはもう自分しか居ない。ガラハッドの役割を自分が担う。自分が先頭に立つ騎士となり、女神の高名な剣となる、とね。マーリンは本当の名を明かしたか?恋敵であり戦友、そして英雄の名が存在しない墓石に刻まれるな否や、彼は自分と、自分の名の価値を見出したのではないかな。例えそれが少しの間でも彼は幸福だっただろう。君と二人で過ごす事が出来たのだ。蝶に舞う、あの空っぽの家で……。
「あの家しか、私には遺せなかった。ふと自分の人生を振り返ってみると、財産は"あれ"だけでね」
労働と夢想に満たされた長い時間が流れた。それなりに順風満帆だった。ガラハッドという騎士は、その名に恥じぬ程に認められ、その座に堂々と君臨した。しかし、愛とは何であろうか。薔薇の花々を吹き抜ける風、いや、血潮を激らせる黄色い炎か。愛は廃れた心すらも踊らせる地獄の音楽であり、夜の訪れと共に花を開く壁際の雛菊、或いは、微かな息吹にも花を閉じ、微かな接触にも息絶えてしまうアネモネ、といっても良い。愛とはそうしたものである。愛は己の捉えた人間を滅ぼし、また蘇らせ、新たに焼印を押し付ける。今日は己に寄り添い、明日は君に寄り添い、明日の夜は他の誰かに寄り添う。愛は斯も移ろい易い。だが、破り得ぬ封印の如く、抑えられぬ炎の如く、死の瞬間に至るまで揺るがず、信義を貫き得る。愛とは如何なるものか。ああ、愛よ、空の煌めく星辰と、地の芳しき香りに祝された夜よ。だが、何故愛は、隠された道を辿らせるのか。愛は人間の心を腐葉土に変える。豊饒且つ猥雑な土壌からは、秘密めいて行儀の悪い芽が厚かましく育っていく。夜半、閉ざされた中庭に忍び込ませ、眠れる騎士の窓を見詰めさせるのは、愛ではないのか。騎士を愚行へと走らせ、王女の思慮を曇らせるのも、愛ではないのか──いや、違う。そんなものではない。愛に似たものは世界に二つと存在しない。地上に春の夜が訪れ、騎士が二つの眼を見る。そう、二つの眼を。騎士はじっと見詰める。騎士が一つの口に接吻すると、彼の心の中で二つの光──一つの恒星とそれを眩く照らす一つの太陽がぶつかり合う。女王は腕の中へと倒れ込み、最早何一つ耳に入らず眼にも入らない。愛とは神の発せし最初の言葉、神の脳裏を過りし最初の思念。神は言った。『光あれ!』と。そして、愛が生まれた。神が創ったものは頗る良かった為、何一つ変えようとは思わなかった。斯くて愛は世界の始原となり、世界の支配者となる。だが、愛の辿る道は悉く花々と血にまみれる。花々と血に。
「実は、あの家はエグジーに譲ったの。貴方を慕っていた彼に」
貴方のもう一つの財産である彼に──だが、この人は帰って来た。長い長い任務から、死の果てから帰還したのだ。この人はいつだって帰って来た。どれ程に困難な任務であろうとも、どれ程にその身体を傷付けようとも、この人は私の眼前へ帰還した。今回もその通りだ。しかし、私の両親は帰って来なかった。いつまで経っても、彼等は帰って来なかった。この人のように、頭に一発の銃弾でも食らったのだろう。死は一瞬であったのだろう。国へ一人残して来た子ども、私を思い出す暇もない程に、頭に風穴を開けられたのだろう。サラは、自分が孤児になった時の事を覚えていた。自分の周囲で世界が崩れ果てた瞬間である。寄宿学校には霧が立ち込めていた。陰気な雰囲気の庭師達が湿地帯のような庭の手入れをしている中を、ガチョウ達が自由に動き回っていた。全体として、この学校にはかなり禁欲的な雰囲気があった。最も、彼女が覚えている限りでは、 女教師達は温かい顔付きをしていたが。あの冬の日、五十代の教師が、寒い廊下を一緒に歩いてくれた事を覚えている。家に帰宅させられると、一人の男がやって来た。背の高い、背広姿の英国人。相手の心を刺すような鋭い目付きだが、思慮深く深味がある。乳母が部屋から辞すると、男はソファーに腰掛け、声を潜めて彼女に言った。身を案じる言葉だった。それは次に発する言葉に対する防護膜であると捉えた彼女は、不意に胸の内を見せた。学校にいると、時々忘れてしまうんです。ほんの時たまですけれど。他の女の子達がするように、お休みの日までの日にちを数えながら、その日が来れば、また両親に会えると思ってしまうんです。けれど、もうそんな事は出来ないんでしょうね?男が何と言ったのかは明瞭には覚えていない。何の肉付けもなされていない、事実のみを言ってのけたのだと思う。しかし、何かの拍子に、ハートがサラに言った言葉を、その男の言葉に紐付けて記憶していた。いや、最早置き換えてさえいた。『時にはとても辛い事もある。私には分かっているよ。まるで、全世界が自分の周りで崩れてしまったような気になるのだ。だが、これだけは言っておくよ、サラ。君は、壊れた欠片をもう一度繋ぎ合わせるという、素晴らしい努力をしている。本当にそうだ。決して、前と同様にはならない事は分かっている。でも、君が自分の中で今それを頑張ってやっていて、自分の為に幸せな未来を築こうとしているという事が私には分かっている。私はいつも、君を助ける為に此処にいるからね。その事を知っておいて欲しいのだ』サラにとって、この世界は最初から邪悪だった。自分という無力の子どもを孤児にする程に、悪意に満ちている為である。両親は何処かへ消えた。この世界の絶望を知った、正にその時に傍にいて欲しい両親はいない。膨大な時間は掛かったが、彼女は崩れた自分の周囲の世界を構築していった。大人になれば。大人になれば必ず、と夢を見ながら。だが、ハリー・ハートという人間の死によって、世界が再び崩れてしまった。必死に踏み止まろうとした。崩れるな、と声に出さずに叫んだ。崩れてくれるな、私の眼前で。『私はいつも、君を助ける為に此処にいるからね』と言ってくれた人を、私の眼前から連れ去るな。
「知っているよ。君の心は脆いから」
「なに、それ」
サラの世界が緩徐に舞い戻る。小さな手で必死に掻き集めた一つ一つの欠片。血と埃に汚れ、他人と共有すら出来ない世界が明瞭な形となっていく。乳母の優しい声。それを聞いて、私は大急ぎで階段を駆け下りる。最後の三段を飛び降りて、広げた両腕をそのままに、両親の周りをぐるぐると回る。私がそうすると、嬉しい事に母が笑ってくれる。此処暫く聞いた事がないような笑い声を出してくれる。勢い良く母に抱き付くと、華奢な肩越しには一人の男性。家の外に立ち、中にいる私を見詰めている、傘を手に持つ紳士。暗闇でその顔立ちは見えない。けれど私はその男性に、にこっと微笑み掛ける──サラが警戒心を緩める事に重要な役割を果たしたのは、正にこの雰囲気、全ては元通りに戻り始めているのかも知れないという雰囲気の所為だったのかも知れない。
「だが安心しなさい。この通り私は帰還したよ」
「……それは、貴方の能力とかが全て元に戻ってから言う言葉だと思うけれど」
そう言った時、サラと過ごした時の印象が鮮やかに蘇って来た。英国の優しい午後の陽光が、オーク材の羽目板に降り注いでいた。ハートの話を聞く時の彼女の顔、考え込みながら頷く彼女の事、そして、それから全く思い掛けなく彼女の口から出た言葉等を、彼は突然思い出した。『だが、ヘレネーの事がありますから』と、私は何度言った事だろう。自分が死を誘う白昼夢に彷徨い込む危険があると気付いた時も、私はその言葉をよく呟いていた。ヘレネーの事がある。私は自分一人ではなく、自分一人の為に生きているのではなく、私にはヘレネーがあるのだ。彼女の事も考えてやらねばならない、といったように。サラ、私はとんだ幸せ者だ。なんて幸せな男だろう。もうどんな事があっても、君を不安にはさせないよ。君から離れないよ。ハートは彼女の眼元を見やった。今、分かったのだ。君とまたこうして会えた。世界中に私ほどの幸せ者はいないだろう。神でさえ疑う余地はない。彼女は顔を上げた。 その蒼ざめた顔は美しく、気高く、若々しく──神秘的な影の中で夜半の空から射し込む微かな光を浴びると──悩ましくさえあった。
「君を信じるとも、サラ」
徹宵、私の纏りのない思考に従ってくれた君を。徹宵、度し難い私の魂を繋ぎ止めてくれた君を。ハートの琥珀色の瞳が近付く。彼は幸福そうに微笑した。しかし、その微笑には何か殉教者めいたものがあった。いや、それよりも、人道主義的な、崇高なものというべきか......サラには上手く言い表す事が出来ない。しかし、ハリー・ハートという彼女がよく知っている人は、どうやら、得意満面の幸福を絵に描いたような顔は出来ないものらしい。私の心を鎮める彼の愛の姿、ほっそりと、何かを与えようと身を屈めて──漠然とした幸福に対する心配などせず、人生を送っていく事の出来る人々もいるのだろう。しかし、私のような者にとっては、消えてしまった両親の影を何年も追い掛けている孤児のように、世界に立ち向かうのが運命なのだ。最後まで使命を遂行しようとしながら、最善を尽くすより他ないのだ。そうするまで、私には心の平安は許されないのだ……。嘗ての優しげな夜は、『君はハリー・ハートという人間を愛していたのだ』と、彼女に囁いて聞かせた。あの声が再び響く。褪せていた視界の色が、瞬く間に息を吹き返す。琥珀の色は濃くなる。それは、その中にサラが映った為であるのか、情熱の炎がぱっと燃え上がった為であるのか。額に落とされた恵のようなキス、彼女は思わず瞳を閉じた。何処か生き生きとした、晴々とした気持ちが、胸中に花の如く咲き出でたのであった。

David Ross Lawn - Vigil