Snow falling on Nocturne

こびりつく賛美歌はあの人の声 


 ふわりと、羽のような綿雪が舞う。真白に染め上げられた景色は、いつだって夢と現実の境を曖昧にさせるし、冷たく凍りついた空気は、まるで生と死の境すらも融かして無かったものにしようとする。
 黒い外套を纏った彼女は、そんな世界を保つ一点の影だった。淡い紫の髪を海風に靡かせながら、彼女は一人、船を待っていた。

 門の陰から、少年は彼女の後姿を見つめることしか出来なかった。
 どこに行くの。いつ帰ってくるの。もう会えないの。また、いつか会えるの。問いは溢れ、それでも零れることはない。

 彼女は静かに振り向いた。理由は少年には分からなかった。けれど彼女は真っ直ぐに少年を見つめていて、まるで自分のために振り向いてくれたように感じられた。
 彼女は陽だまりのように微笑んで、手に提げていた大きなトランクを足元に置いた。そして桟橋に敷かれた淡雪を踏み、少年の元へと歩み寄る。
 冷たい石の裏へと身を潜めた小さな身体の前に、彼女は膝をついた。視線の高さが近づいて、少年はいつものようにその優しい夜明けの瞳の中に吸い込まれるのではないかと考えた。

「お見送りに来てくれたのですね」

 頷けなかった。本当は、見送りたくなんてなかったからだ。

「ありがとうございます。嬉しいです」

 喜んで、それでここに残ると言ってくれたらいいのに。けれど、少年に彼女を引き留める力などない。

 汽笛の音が遠くから聞こえる。灰色をした海の向こうに、船の姿が見える。

 彼女の冷たくて白い指が、額に触れた。まるで雪のようだと思った。触れて、少年の額にかかる前髪をそっと後ろに掻き上げた。

「カミュ君──どうか貴方に、神の祝福がありますように」

 ふわり、と。額に柔らかい羽のようなものが触れる。雪よりも温かくて優しいもの。その名残を追いかけるように少年が額に触れる頃、彼女はもう立ち上がり、歩き始めていた。

 迎えが来る。船影が近くなる。彼女を連れて行ってしまう。迎えが、来た。

 幸せの痕は、彼女の柔らかな口づけの形をしていた。いつまでも消えない胸の痛みごとそれを覆い隠すように、雪は降る。
 少年の淡い初恋は、そうして息を止めたのだ。







 はあぁぁ、なんて吐き出す息は深い。溜息を吐くと幸せが逃げるなど誰が言ったのかは知ったことではないが、既に逃げる幸せなど持ち合わせていないからどうだって良かった。

 カミュがイレブンと共に王国の追跡を逃れてやってきたのはホムラの里だった。
 旅立ちの祠と魔法の石のお陰で難を逃れ、今は1人、蒸し風呂の真っただ中。イレブンの故郷の惨状については目を覆いたくなる部分もあったが──デルカダール神殿でレッドオーブを取り戻すこともできて、追っ手からも逃げ延びて。
 上々、と言って良い状況だ。そう、状況だけを見るなら。


 ──また会いましょう、カミュ君。


 ……いや。状況だけを見るというより、あの“聖女様”のこと以外は、と言うべきだろうか。

 神殿を出、イレブンの祖父の言葉に従って旅立ちの祠へと進路を向けて間もなく、現れたのは王国の将であるグレイグだった。
 悪魔の子の捜索に回っていた彼は、騎馬隊を引き連れて急襲。3人は、慌てて近くで草を食んでいた馬に飛び乗って逃げることになり、イレブンが一頭、もう一頭にはカミュがフィオラを同乗させる形で馬を駆った。

 しかし、相手は当然の如く手練れで、そう簡単に逃してくれるわけもない。グレイグが放ったボウガンの矢は真っ直ぐにイレブンの馬の足を射て、彼は馬の嘶きと共に地面に振り落とされた。
 急いで拾いに行かなければ。そう、馬を引き返させた時だ。後ろから聞こえたのは、フィオラの囁くような声だった。

「馬に3人乗りは、難しいでしょう」

 じゃあどうしろと。問い返す間も開けず、彼女は言う。

「私が降ります。イレブンのことは任せましたよ」
「はぁ?! ってか、降りる暇なんて」
「権力を笠に着たいわけではありませんが……これでも私は、デルカダール王国の聖女です。彼らは決して、私を無碍には扱えません」

 理屈は分かる。仮に3人のうちの誰かをこの場に残さなければならないとして、それが脱獄者である自分達のどちらかならば、到底ロクな目には合わないだろう。
 けれど馬をわざわざ止める暇などない。出来る手段といえば、聖女に短剣を突きつけて人質に取って逃げることか。否、グレイグとの実力差を考えるとそれも有効な手段であるとは言い難い。

 目まぐるしく脳を回転させ、取るべき最適解を求めようとするうちにも、救うべき勇者の姿が近づいてくる。遠かったはずの軍の騎影も大きく見え始める。
 とにかく、イレブンに手を伸ばして、彼の手を──

「また会いましょう、カミュ君」

 柔らかな声が、すぐ耳元で聞こえた。そして指先が、掻き上げた前髪の生え際をそっと撫でていった。
 子供扱いはやめろ、と。この短期間で何度繰り返したか分からないやり取りをなぞるように振り払うまでもなく、その温度は腰に回されていた腕ごと消えて無くなった。

「──え、」

 視界の端で、淡い紫の髪が揺れる。ふわりと、舞って、そして遠のく。

 伸ばしたカミュの手がイレブンの手を掴み取って身体を馬上に引き上げるのと同時に、地面へ叩きつけられ転がっていく修道服が見えた。
 自身らの進行方向の大地に倒れる聖女の姿に、慌てた様子のグレイグが馬を止めるよう指示を出した。地面を蹴り続ける2人の馬は、彼女らからどんどんと遠ざかっていく。再び放たれた矢で馬の足が射抜かれても、距離はすぐに詰まりはしない。
 すぐさま立ち上がって、イレブンのためだけに開かれた祠の中へと飛び込んで、そして、

「はあぁぁ……」

と、溜息を吐く今に至るわけだ。

 何度思い返しても、無性に腹が立つ。いっそ全て忘れてしまえばいいものを、揺れた髪の残像があまりにも鮮やかに目に焼き付いて離れてくれないのだ。
 腹が立つ、苛々する、胸の奥がなんだか靄ついて仕方がない。今のこの感情を的確に表す言葉が思いつかない。そもそも、何がこんなに無意味な溜息を量産しているのだろう。

 少しの期間とはいえ共に行動した者と、突然別れることになったからだろうか。いや、けれどあの状況で最も適切な対応は彼女を残していくことだったと、納得している。
 馬の上から飛び降りるだなんて無茶な真似を平気でした姿に、説教じみた怒りを覚えているのだろうか。いや、馬を止めることができなかった以上、彼女にはその方法しか無かっただろうことは理解ができる。
 じゃああれか、最後の最後まで頭を撫でていった子供扱いが癪に触ったのか。

「いや……むしろ、全部か」

 イレブンと、そしてカミュを逃がすために無茶をして突然居なくなった。彼女はさも当然のようにそれを遂げた。
 きっとフィオラという聖女にとっては迷う必要もなかったのだろう。救うべき者を救う。それが勇者かどうかなどは思考の端にも上がらない。彼女にとってはイレブンもカミュも──行き倒れの孤児ですらも、平等に慈しむ対象でしかないのだ。

 ここまで考えて、妙に納得がいった。苛立ちの正体の、切れ端が掴めた気がした。
 そして引き寄せることを躊躇する。気がつくべきではない答えだと知っていた。けれど目を逸らしてみたところで、きっと意味はない。なんせ、自分の“感情”なのだから……逃げたところで、どこまでも追いかけてくるに決まっている。

 ……要するに10年の歳月が過ぎようとも、フィオラの目に映るカミュは庇護すべき少年のままなのだ。まるでお前は昔から何も成長していないのだと告げられたような気分になってしまって、それが不快なのだ、不愉快なのだ。
 ずっと遠い昔のことを、去りゆく彼女を止めることが出来なかった自分の痩せ細った手を思い出した。靡いた髪の色、優しい声、触れた指先。自分には、彼女を止める力などなかった。過去も、そして今も。
 待て。やめろ。一緒に逃げるぞ。そのうちのどれかを口にできていたならば、何かが変わっていたのだろうか。額を撫でた手を咄嗟に掴み取っていれば、あるいは──

 無意識に、名残を追いかけるようにしてカミュは自身の額に触れていた。蒸し風呂のせいで、どうにも汗ばんでいる。

「…………はぁ、」

 そろそろ広い浴室内が、自分の溜息で満たされてしまう。溜息と共に逃げ出した幸せがあるなら、それに満たされた部屋で呼吸をしたら幸せも戻ってくるのではないだろうか──ああ、ダメか。最初から逃げる幸せも持ち合わせていないんだった。
 自嘲する。それもこれもイレブンがさっさと来ないせいだ。だからこうやって無駄に思考がよく回ってしまう……なんていうのは、さすがに責任転嫁がすぎるだろうか。

 カミュは最後にもう一度だけ大きな溜息をついた。額に添えた手は、まるで降参のポーズに等しい。

 恋愛への興味はない。仮に恋人なんて出来ても面倒に決まっているし、色恋沙汰については他人事だとしてもあまり関わり合いにはなりたくないくらいだ。
 そもそも、そんなものにうつつを抜かすことが許されるわけないだろう。だから故郷を離れて旅に出て、たったの一度も他人に感情を揺さぶらせるつもりなどなかったのに。
 そのはず、なのに。


 ──どうか貴方に、神の祝福がありますように。


 雪に覆われ眠っていた憧憬は、永い冬を越えて今更その息を吹き返した。恋心を抱くつもりなどなかったのに、遠い過去に蒔いた種が生き残っていただなんて、とんだ誤算だ。

「いやいや……だって、指輪してたじゃねぇか……」

 芽吹いたとて蕾にもならないくせに。気付くだけ気付いて──それはあまりにも滑稽で、馬鹿馬鹿しい話で。
 それが贖罪のために生きている現実と忘れるべきでない過去を突きつける罰だというならば、その痛みはあまりにも苦しくて、切なくて、そして甘すぎた。



 ようやくやって来たイレブンは、カミュの苦悩などつゆ知らず能天気に「顔が赤いよ、逆上せたの?」と、優しく心配をしてくれたのだった。


こびりつく賛美歌はあの人の声



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