Snow falling on Nocturne

こぼれおちてゆく群青 


 ──うっかりしていました、と。

 そんな一言では済まされない状況下にあると分かっていても、どうしてもそれ以外は頭に浮かんでこない。
 後はどうやってこの場を乗り切るべきかという、切迫した思考を回すのみ。……とはいえ、そんなもの“とにかく逃げる”以外の答えを弾き出せるわけもないのだが。
 フィオラは、腰のベルトに携えていた短剣を構えて目の前を見据えた。周囲には無数の魔物の姿がある。どうにか木を背にして背後を取られる危険は防いだものの、逃げ場がないことに代わりなどない。

 魔物避けの聖水を撒きながら、デルカダールの城下町を出、丘を越え、どうにかこのナプガーナ密林までやってきたのだが──ここまでの豪雨に見舞われるとは、全くの想定外だった。
 そして、その雨が聖水の効果を打ち消してしまったことも思いがけない不運だったのである。

(それくらい考えの内に入れておけ……と、怒られてしまいそうですが)

 容易に想像が出来る苦く歪められた金の眉を、思い浮かべて首を振る。
 とにかく、まずはこの場を切り抜けなければ。そうでなくては、彼の小言を聞くことはおろか自らの目的を果たすことすらできないのだから。

 飛びかかってきたベビーパンサーの爪をどうにか避け、右手の剣を振り回す。無茶苦茶に薙いだ刃は獣の鼻面を傷つけて、そこに一瞬の隙を作った。
 今だ、と水溜まりを踏みつけて走り出す。この場で最も足が速い魔物が怯んだうちに、どうにか少しでも距離を開けて──

「──きゃあっ!?」

 4歩目、5歩目と踏んだ水の溜まりが思いがけず滑って、重心が傾く。ブーツが蹴り上げた残滓はぬかるんだ道の茶色ではなく、バブルスライムの溶け出した緑色の粘液だった。

 勢いと共に身体が投げ出され、地を覆う緑が視界に迫る。手が、頬が、草に弾かれた雨の雫に触れて濡れ、衝撃によって手を離れた短剣が遠くへと転がっていく。鈍い痛みに顔を歪めながら、起き上がらなければと必死に身体に鞭を打った。
 見えずとも背後に迫る、獣の唸り声が、生命の呼吸が聞こえてくる。早く、起き上がらなければ、早く。

「……ッ、」
「──はぁぁあッ!!」

 フィオラの動悸も、雨音をも裂いて聞こえたのは、まだ高い少年の気勢の声だった。
 そして一閃。大きな剣が振るわれて、迫っていた魔物のうちの1匹であるおばけきのこを斬り伏せる。同時に躍り出たのは人の影だ。

「大丈夫ですか!?」
「あんたは下がってな!」

 武器を構えた若者が2人。突如として現れた庇い立つ背に目を思わず瞬いたフィオラが、地に伏した身体をようやく起こした頃、彼らはその手に携えていた刃を閃かせ周囲の魔物の掃討を終えていた。

 濃紫に霧散したその亡骸は、雨によって忽ち溶け消えていく。
 手を組み、自分が生き延びるために失われた命の安らぎを祈ってから、フィオラは剣を収めた彼らへと視線を移す。

「ありがとうございます。お陰で助かりました」

 ホッと息を吐きながら振り向いた先で、二色の髪から雨の雫が落ちた。癖なく重力に従った素直なブラウンと、掻き上げてしっかりとセットされた空の色。
 そのうちの一、ブラウンについては、つい5日前に出会ったばかりの少年のもので、フィオラは「まぁ」と呟く。そして彼の方も、助けた相手が顔見知りであると気付いた様子で、その大きな目を丸くして声を上げた。

「聖女様!? えっと、怪我はないですか?」
「イレブンこそ……投獄されたと聞いて、心配していたのですよ」
「ったく、なんだって教会のシスターがこんな場所に……って、」

 駆け寄ってきた少年に応える向こうで、青い髪の青年が呆れたように呟いた。けれどその声は不意に途切れて繋がらず、フィオラはイレブンへ注いでいた目を青年へと移して首を傾げる。

 精悍な面立ちに光る鋭い目は、驚愕を湛えてフィオラを見つめていた。街の子供が「裏路地でお化けを見た」と言って教会に駆け込んできた時の顔とまるで似ているように感じて、もう一度首を傾げる。
 はて、自分はそのような亡霊じみた存在ではないはずなのだけれども。

「……いや、なんでもねぇ」

 ついと逸らされた視線。まるで拗ねたような横顔に見覚えがあって、あら、と感嘆が唇から零れ落ちた。

「もしかして、カミュ君ですか?」

 ぴくりと動いた肩が何よりの答えだ。そして、何故だか街の子供達の姿を思い浮かべた先の自分に納得をする。
 別に決して、彼が“そうだった”というわけではないけれど。それは、自ずと結びついた点が一つの像を結んだ結果だったのだろう。

「カミュ、聖女様と知り合いなの?」

 きょとんと瞬く少年に、フィオラは首を振って応えた。が、それは決して、問いへの回答ではない。

「聖女様なんて呼び方はやめましょう? 私はフィオラです……どうか、そのようにお呼びください」

 さぁと促すと、イレブンは「フィオラ」と素直に鸚鵡返しした。よくできましたと頷くその間にも、カミュは特に何を付け加えるつもりはないようだった。

 ──イシの村からデルカダール王に会いに来たのだ、と。
 5日前にフィオラの勤めるデルカダール城下町の教会を訪ねてきたイレブンは、そう教えてくれた。初めての旅路に、まだ幼さを残した柔い頬には少しの疲労が滲んでいて。その表情の強張りが解けるまで、フィオラは聖堂横の客室で彼を紅茶とクッキーでもてなしたのだが。

 その後、王城への行き方を説明して見送った背中は、城下へと帰ってくることはなかった。そして聞こえてきたのは、「イレブンという“悪魔の子”が地下牢へ連行された」という信じ難い話である。

「……街で噂は聞きました。脱獄してきたのでしょう? 大変でしたね」

 そして現在、にわかに街を騒がせているのは「悪魔の子である勇者が、牢から逃げ出して逃走中」という噂だった。その噂の証明が、目の前にいる彼である。
 5日前も大概疲れているように見えたが、それと比べたとて現在の顔色は悪い。16歳の少年の身に突如として降りかかった災難と、伴うその心労に胸が痛んだ。
 ……それでも彼が足を止められない理由は、きっとこの道の先にあるのだろう。

 息を吐いたフィオラは、まず始めに自らの口を開いた。

「私がここに居る理由ですが……私は、今からイシの村に行こうと思っています」

 思考の端を騒つかせるのは、どうにも良くない想像だった。嫌な予感。王国中を灼くような悪意が、大地を焦がす幻覚に囚われた。
 それは、悪魔の子が現れたのだと聞かされた時から。王がかの村へ兵を派遣する命を出したと聞いた時から。彼が脱獄をしたという噂を知った時から。
 ──違う。実はもっと、ずっと、前から。

 増した予感は、居ても立っても居られずに平原へと繰り出そうとした瞬間、更に深まらざるを得なかったのだ。

「正規の街道はグレイグに──軍によって塞がれていました」

 人をそこに寄せ付けないようにする意味は、一体どこにあるのだろう。その理由は、“誰の目に触れさせるべきではない何か”が行われているからなのだろうか。

 だからこそ、フィオラは行かなければと、益々胸を掻き立てられたのだ。過去に教会を訪れた旅人に聞いた抜け道の存在は、この状況になって都合よく記憶の底から浮かび上がって現れた。きっと、軍の裏をかくにはこの迂回路を使うしか方法は無いのだという、確信を伴って。
 不安がただの杞憂であると、確かめられるのならばそれで良かった。仮に“そう”ではないとしても──何か出来ることがあるかもしれないのに、手をこまねいてなどいられないだろう。

「……けれど、少し考えなしでしたね。魔物に囲まれることなど、全然想定できていなくて」

 ふぅと息を吐いて、フィオラは目の前の彼らへと目を向ける。直立のままの真剣な眼差しと、腕を組んだ胡乱な眼差し。
 あまりに対照的で違う色味の青色は、「お願いがあるのですが」と続けたフィオラの言葉に同時に小さく傾いだ。

「もしも貴方がたの向かう先が同じであるなら、私も共に連れて行っていただけませんでしょうか」

 魔物と戦うことは出来なかったが、聖職に就いている故に回復魔法は多少心得がある。足手まといになる可能性は否めないが、足を引っ張ることも恐らくはないはずだ。
 フィオラの懇願に二つ返事で了承しようとしたイレブンを遮ったのは、あからさまに顔を歪めたカミュだった。

「おいおい。王国の聖女様が、オレらみたいなお尋ね者と一緒に居ちゃマズいだろ」
「……まぁ」

 思わず出掛けたそちらでしたか、という言葉はかろうじて飲み込んだ。てっきり軍と繋がっている可能性を懸念されたのかと思ったために、純粋に驚きが勝ってしまったが──けれど、彼らしいような気もする。
 フィオラの身を案じるような言葉に、“昔”から変わらない心の優しさが垣間見えて嬉しくなった。そう、自然と浮かんだ笑みを隠す必要もない。

 胸に飾った純金のロザリオへと手を添える。雨に濡れたそれは、凍える子供達の手のように冷たい。握った温もりが伝わるように祈りながら、フィオラは「大丈夫です」と頷いた。

「人は皆、神の元に平等です。罪なき者も罪人も、勇者も悪魔の子も、皆この世界を支え育む一葉であることに違いなどありません」
「は……ぁ?」
「ね? ですから、何も“マズく”などないのですよ」

 笑いかけた先の青年は、なかなかどうして苦々しい顔をしているままだった。その顔のまま視線は逸らされて右手が困ったように額へ添えられると、応えは大きな溜息に取って代わられる。
 仕方ねぇなと漏れ聞こえた呟きに、フィオラはイレブンと目を合わせて頷き合った。

「じゃあ、行こう! カミュ、フィオラ」

 少年の目尻が微かに下がって、嬉しそうな表情を形取る。
 そのままくるりと右向け右で進行方向へと爪先を蹴り出した彼は、紫の服の裾をはためかせながら歩き出した。その後ろ姿はまだまだ無邪気な子供のそれで、どこか和ましく背中を見つめる自分がいると気がつく。
 そして──そんな子供が突然降りかかった不幸に苛まれてなおこうして前を向けるのは、成り行きでも側で補助してくれる面倒見の良い“誰か”が居たからなのだろう。

「……ふふ。素敵な人に成長しましたね、カミュ君」
「……そりゃどーも」

 立ち止まったままのカミュに少し歩み寄ると、目線は少し上にあった。当然だ、心だけでなく身体もしっかりと成長している。

「身長も伸びたみたいで……抜かされてしまいました」

 最後に見た時には、彼の綺麗な青髪はフィオラの胸元くらいの高さに見える小さな青空だった。それが今では本物の晴天にだって溶け込めるようになったのだろう。
 ああ、本当に大きくなった。こうやって顔を見ると、実感が沸々と込み上げてくる。自分の手があの日掴んだ指先は、決して無意味ではなかったのだと。

「そういうの、やめてくれよな」

 ぱし、と左手が払われて我に帰った。無意識に手を伸ばして、彼の頭を撫でようとしていたことに気がつく。
 二、三と瞬いて、フィオラは思わず肩を竦めた。

「ああ、すみません、つい……もう幼い子供ではありませんね」

 大きくなったと感動しながらこんなことをしては、矛盾も甚だしい。まるで癖のようなものとはいえ、確かにカミュに失礼だっただろう。
 素直に反省をして、払われた手を戒めるように摩る。

 と、ふと目の前の青年の目が自分の手元に向けられていることに気がついて、フィオラは手を摩る動きを止めた。
 払ったせいで痛めたとでも思われたのだろうか。決してそんなわけではないと弁明をしなければ──口を開きかけたフィオラより先に、カミュの方から言葉を放つ。

「あんた、結婚したんだな」

 その言葉に、彼の視線がまるで可視となったように鮮明になった。

 フィオラの左手の薬指。そこには、金の指輪が嵌められている。繊細な彫り模様が施され永遠を誓う輝く宝石が埋め込まれた小さな輪はあまりにも美しく、それを選び贈った誰かの想いを一つの形としてその場に留めてくれていた。
 摩っていた右手で、指輪をなぞる。ぴったりと吸い付くようにサイズが合っている。完璧を求めた“彼”はいつの間に自分の指の太さを把握していたのだろうと、驚いた日の出来事を思い返しながら頷いた。

「ええ、婚約を。まだ籍は入れていませんが」
「ふぅん……」

 まるで興味など最初からなかったかのように、それだけの相槌を打ったカミュはイレブンの背を追って歩き始めた。「行こうぜ」と短く促す声にまた頷いて、フィオラも彼に続く。

 そして、もう一度指輪をなぞった。
 共に歩む永遠と共に過ごした一瞬を、2人の世界を繋ぐ輪として閉じ込めたこの黄金の輝きを。いつまでも愛おしみたいと、心の底から願いながら。まるで、縋るように祈りながら。





「──ああ、どうか。一つだけ懺悔をさせてください。私は、貴方がたに出会えて心の底から安堵したのです」

 隣の青年は、黙ってそれを聞いていた。

「この光景を、1人で見ることはないのだと。せめて隣に誰かが居てくれるなら、きっと虚勢を張れるだろうと」

 いや、聞いているのかは分からない。彼の青い眼は、目の前の光景に釘付けられていたから。

「私は街を発った時から知っていたのでしょう。向かう先に見えるのは、きっと“この”光景であるということを」

 壊された家屋には、つい最近まで人が生活していた痕跡が見えた。
 クローゼットから飛び出した綺麗なままの衣服、散乱した本のページは酸化の茶のシミも見当たらず。まだ萎れていない野菜が床板に転がって、厨には作り置きのシチューの鍋も置かれたままだった。

 それなのに人は居ない。静まり返った村の中に、あちらこちらで燃え盛る炎が弾ける音だけが響く。

「分かっていたのです。私は──」

 左手に繋がれた指輪は、炎を反射して真っ赤に染まったまま。決して元の美しい色には戻ってくれないのだということだって。


こぼれおちてゆく群青



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