どうか神に許されたりなどしませんように 「……ねぇ、フィオラ」勇者は、その名の勇ましさとは正反対の浮かない表情でその場に立っていた。 「どうかしましたか、イレブン」 「あのね、その……」 彼の腕の中には1冊の本。鍛冶で扱うレシピだろうか。 首を傾げて、口籠もるその先を静かに待つ。しばらくの沈黙の後、彼は堪えられないとでもいった表情で顔を上げた。 はらりと、捲られる頁。迷いの無いその手は、本に挟まれた栞に基づくものだ。 そうして示されたのは、ドレスの図面だった。雪のような真白の絹が織られ編まれた優美な衣装。横には花をあしらった繊細なレースのヴェールが飾られる。 一目で理解した。それは婚姻の儀に女性が身につける服──所謂、ウエディングドレスである、と。 「これを作ってみたいのですか?」 イレブンは応えない。 「構いませんよ。他の皆さんは結婚や花嫁衣装に憧れがあるでしょうけれど……私はもう、さほどの拘りもありませんから」 イレブンは、まだ応えない。 「私の寸法に合わせて作ってくださったら、それで──」 「……違うんだ」 彼は、固く結んでいた唇を解いた。 「このレシピは、最初からフィオラのためのものなんだ」 勇者の少年は語った。 デルカダールの城の1階。西側の一角。足を踏み入れ目に入ったのは綺麗に整頓された本棚で、その蔵書の豊富さに、彼は何か知識になる本はないかと手を伸ばした。 2冊、3冊と目を通して4冊目。学術や戦術が堅く説かれる書物の中で、唯一その本だけが厭に華やかで、異質だった。不思議に思って手に取ったその上には女性ものの服が羅列されていて、白の衣装が一際目を惹いた。栞など無くても開き癖の付いてしまった、美しい花嫁衣装の見開きが。 少年は、ふと視線を巡らせて気が付いたのだという。大きな執務机。隅にそっと置かれた写真立てに写る男女の姿。その片割れが、自身の仲間の1人である──フィオラであるということに。 「ああ……そういうことでしたか」 目を伏せて、全てを理解した。 指を伸ばして、開かれた本をなぞる。そうしたところで、何が分かるわけでもない。何を読みとることができるわけでもない。“彼”が何を思ってこの本を開いていたのかなど、決して。 純粋な気遣いと使命感から、その意思を伝えようとしてくれたのだろう少年に、フィオラは頷く。そしてその澄んだ瞳につけ込むように──優しい心を欺くように、静かに囁くのだ。 「イレブン……どうか私に、この衣装を作っていただけますか?」 ──王国の聖女は謳った。花婿と花嫁の選択へ祝福を。彼らの未来へ幸福を。 光がステンドグラスに射し込んで、教会は眩い色彩に包まれる。2人の門出を祝うように。その先に待つ喜怒哀楽の全てを美しい道筋と示すように。 そして誓いの言葉を口遊び、彼らは歩き出す。2つの人生を束ね、永遠に支え合う路へと。 フィオラは謳った。誰かの新たな旅路のために、何度も口にした祝詞を。柔らかな光と微笑みと、温かな涙と愛に彩られるための言葉を。 「新婦フィオラ……あなたはここにいる────を、」 声は、夜の教会の中に遍く響き渡った。木霊する祈りの破片が屋根に反射して降り注ぐ。四肢を縫い止めるような残響を、窓から差し込む月明かりだけが照らしている。 「病める時も、健やかなる時も、」 この身に纏ったのは白。彼の好んだ色。穢れなく高潔で清廉で、何よりも美しい色。故郷の雪原を、彼と歩いた記憶を、呼び起こすような色。 「富める時も、貧しき時も、」 幾重に織られた布は思っていたより重みがあって、一歩踏み出すごとに深く地面に沈んでしまいそうな気がした。 だから、手が欲しかった。この手を引いてくれる、大切な人の手が。導いてくれる、これからの未来を共に行く約束を交わす、彼の手が。 「夫として愛し、敬い、慈しむことを誓いますか」 手を掲げる。窓の向こう、手の届かない月に。 冷たい月影は地を這う者を見下ろして、薬指に飾った指輪を一つ舐めて瞳を閉ざす。 「はい──誓います」 涙が、零れた。誓ったところで、意味などない。彼はもう、ここにはいない。だから誓いの言葉など意味をなさない。 共に手を取り未来を求めるその人は、もうこの世界にいなくなってしまった。新たな旅路など拓かれはしない。この場所には昏い闇と、凍えた自分の涙と、後は砕かれ葬られるのを待つばかりの愛だけがある。 知っている。何度も繰り返し言い聞かせてきたのだ。この道を選んだのは、彼の想いに背き拒んで真実を求めたのは、自分自身なのだと。 悔やみはしない。それが、自らに課した信念に間違いはないのだから。悪しきを討ち、平和を求める想いに偽りなどないのだから。 だから。だからこそ、 「誓わせてください──どうか」 ──契りを、結ばせてください。 ──正しくあった聖女ではなく、愛する男を裏切った悪女として。私を貶める理由をください。 膝の力が抜け落ちても、幾重の布は柔らかにこの身を受け止めて、地面に打ち付けられる痛みすら与えてくれない。 広がったスカートに顔を埋めて泣きじゃくっても、幾重の布はそんな声すら覆い隠して、遠い空に涙を届けることすら許してくれない。 ──ああ、神よ。どうか、どうかこのまま。 ──この揺蕩うレースの海で、私を溺れ、死なせてください。そしてこの罪を裁き、彼の待つ深淵へと堕として欲しいのです。 いくら願っても、祈っても、応えはない。 光は見えない。夜は明けない。純潔を象るドレスを纏って贖罪を嘯く女は、何よりも醜く穢れている。そんな自分をうっそりと嗤って傷が膿む痛みに苛まれながら、フィオラは唯一の赦しを得る。 こうして彼を想い生き永らえることが、何よりの罰であると。きっと神は、全てお見通しなのだ。 「…………知ってたよ。あのドレスを作ったら、フィオラはそれを自分を傷つけるために使うって」 薄く開いた教会の扉の陰。勇者は、彼女に気付かれないように息を潜めながら、そっと呟いた。 「僕はそれを知っていて、声を掛けたんだ。フィオラはきっと、僕の厚意を利用したと思ってるんだろうけど、それは逆だ。利用したのは僕。フィオラの心を踏み躙ったのだって──」 静寂の教会の中、見えぬ亡霊と愛を交わす白い影は、蹲ったまま動かない。その姿を見つめながら、密やかに秘めやかに。彼は、静かに語るのだ。 「けど……隠したままの傷じゃ誰も触れられない。救いの手は、必要ない振りをされてしまう。だから、血が滲んで誤魔化せなくなるくらい、酷いものじゃないとダメなんだ」 髪が揺れる。まるで見ていられないとでも言いたげに首を振って、彼は自分が呼び出した相棒をようやく振り返った。 「残酷かもしれない。それでも僕は、その傷口に触れる君の手を信じてる。だから、カミュ──」 フィオラの事、お願い。 全ての責任が自身にあるとでも言いたげに微笑んだ勇者の青い瞳は、何故だろう。知っているものよりもずっと、大人びているように感じられた。 どうか神に許されたりなどしませんように |