遠き黄昏にペルセフォネは微笑う 蝋燭の灯りは確かに部屋を照らしていたはずなのに、記憶の中のその場所はどうしても薄暗かったような気がした。それは、身体を搦め取る銀の糸に、全ての世界が隔絶されたような気がしたからなのだろう。 ──フ……、ハハ、ハハハハハハ……! 古びた紙の匂い。厭にじとりと肌に纏わり付く湿気。机に積もった埃が、身動いだ自分の服に拭われて元の木目を露わにする。すぐ耳元で響いた哄笑が、五月蝿い。 枷のような大きな掌に掴まれた両の手は、騒音に鼓膜を守る行動さえも許されなかった。 ──ライラ、ライラ、ライラライラライラライラライラ! 喉から迸ろうとする悲鳴を、苦痛を訴える呻きすらも呑み込んだ息が詰まって、呼吸が出来なくて。唇が塞がれて口腔が生温かい肉に占領され、物理的にも酸素を取り込む事を封じられると、目の奥の辺りから脳が麻痺していく。闇が、広がる。 意識が波のように、遠退いては戻った。漂う自分の心を、手繰り寄せるべきなのか手放すべきなのか、正解など知る術もない。 ──俺を受け入れろ、俺を愛せ、お前だけは俺を愛してくれる! お前だけは、お前だけが、お前が! ──お前は俺のものだ、お前は俺のためのものだ、お前の全ては俺のためにある、そうだろうライラ。 ──そうだと頷け、頷け、早く、俺を、 。 それが罪だったのだと、誰かは囁くのだろう。全ての惨劇の始まりがこの瞬間にあったのならば、そこに交わった終点は囚われ囚えて全てを巻き込み消えるべきだったのだと。 それが罰なのだと、誰かは嗾けるのだろう。そうして喪われた命を、未来を、悔やむ自身の無力に苛まれて、肉体を貫く痛みと共にいつまでも嘆き覚えて生き続けろと。 「…………い、たい」 打ち捨てられた身体を抱き締めて、一人呟く。あれは誰に伝えるつもりもない告白だった。 鋭い痛みに、比喩ではなく穴が空いてしまったのだと思ったのだ。抉じ開けられたその場所は丸く刳り抜かれて、きっともう塞がることはないとさえ思った。何度も掻き回されて抉られた内臓は鈍く痛んでいて、立ち上がる気力ごと握り潰されるようだった。溢れた何かが腿を伝って濡らした。その色は血の赤なのか、はたまた別の色をしているのかなど知りたくもなくて。 しばらくの間そうして蹲って、たった一人の男に刻み付けられた罪と罰が早く身体に馴染んで消えてくれる事を祈っていた。 なんて事ない。なんて事などない。年頃の恋する少女が抱くような、可愛らしい夢も淡い理想も、とうの昔に忘れている。今更こんな事で砕かれる意志ならば、最初から剣など取りはしない。 古い床に転がっていた父の形見へと伸ばす指は、もう震えてはいない。怯える余裕も迷う暇もない。何も、何もない、から。 そうして走り出した先に待ち受けていたものは、更なる絶望でしかなかったのだけれど。 滅亡の時を乗り越え、それでも大きな傷を負った世界は今、災厄を乗り越えるための過渡期にあった。荒れ果てた大地には人々の嘆きと、そしてそれでも芽吹く花が揺れる。 この星は、今日も廻り生きている。 災いによる崩壊を経て人が住む土地では到底無くなってしまったミッドガルに寄り添うように、新しく興された都市の名をエッジという。かろうじて名を残した神羅カンパニーも協賛の元、整備され耕された数ヶ月前まで荒野だった土地を、ライラは全て記憶に残さんとするまでの鋭い眼差しと共に歩いていた。 この通りには街灯が少ないわ。というか手抜き工事をしたんじゃないかしら、建物の壁にもうヒビが入ってる。もう少し街は広げられそうね、住みやすい環境を作るならまず土地の確保は最重要課題よ。 「……なんだか、すっかり副社長みたいになったな」 「みたい、じゃなくて“そう”だもの」 夕食を終えた夜道の中、ぶつぶつと呟いたライラへと肩を竦めたのは、あの戦いの後に晴れて“友人”から“恋人”となった男、クラウドだった。 ライラが「悪しき神羅カンパニーを壊す」というかねてからの目的を果たすために同社の副社長という肩書きを得た傍ら、彼は趣味でもあるバイクを存分に利用した運び屋の仕事を開業し──互いに忙しくて、なんだかんだと会うのは久し振りだ。 世界が復興に向けて動き出し、変わる。同じようにライラもクラウドも自身の生活の基盤を築くと共に変わって、そして新しい今を生きる。 それは、2人の関係だって同じことだ。新たな関係性を得て、けれどそれを見つめ直すこともなく会わなくなって数ヶ月。こうやって、隣を前よりも近い距離で歩きながらライラは在り方を探している。 ずっと前から──5年を簡単に超える昔から、好いていた男との関係に、ようやく名前を持った。だから、名以上の物を欲する。それが、何よりも分かりやすく与えられた名を実と共にしてくれるだろうと、どうにも冷静に。 クラウドも同じなのだろう。レストランを出た時からいつもの5割増しで無口に──要するにほとんど何も喋らなく──なったから、意識していることを読み取るのは容易だ。 恐らくライラほど現実を踏みしめているわけではなく、単純な欲によるものだろうとは思うが……まぁ、その辺りの差はどうだって良い。結局、まだ曖昧な関係性が肉体を伴う形になれば良いだけの話だ。 「自然に送ってもらっちゃったけど……上がっていくでしょ、うち」 「ああ……そう、だな」 副社長の肩書きには不釣り合いだけれど、今の神羅カンパニーの副社長には相応な、程々の大きさのアパートメントの前で。初デートを終えた2人は短く、端的に、婉曲の果ての意思疎通を終えたのだった。 「……飲む?」 「これは?」 「ただの水よ」 シャワーを浴びて戻ってきたクラウドにガラスのコップを渡し、ライラは同じ物を片手にソファへと腰掛けた。行動をなぞるように、クラウドも隣に座る──バネが他人の体重で押し下がったのが、なんだか妙に気恥ずかしく感じて首を振る。 恥ずかしいって、何を今更。あまりにも自分には不釣り合いな感情だ。そうして頬を赤らめる方が恥だろう。ふ、と息を吐いて、ライラは揺れる冷水をくいと呷った。 半分ほどまで減ったグラスに視線を落としていると、その端に手が映り込んだ。何かを求めるような指先に応えるようにグラスを渡す、と、クラウドは目の前のテーブルの上に二つのそれを置く。カン、という高い音は、コンマ5秒ほどだけずれて聞こえた。 振り返る。その真っ青な瞳と瞳が、交わる。少しだけ震えた睫毛を隠すように、ライラは目を閉じた。彼は、それだけで全てを察してくれたようだ。 大きな掌が髪を撫ぜる。静かに、重ねられたのは唇だった。ライラのものよりも少しカサついた薄い唇──こうなることが分かっていたんだから手入れくらいしときなさいよ、なんて悪態は、浮かび上がるだけ浮かんで泡のように消えた。 まるで鼓膜に心臓があるかのように、ドクンドクンとうるさい。ようやくクラウドの身体が少し離れていって、ライラは無意識のうちに止めていた息をようやく吸うのだ。 薄っすらと目を開くと、思ったより近くにある青色がじっとこちらを見つめているのが、潤んだ視界の中でも分かった。 「……いいか?」 「……そういうの、雰囲気台無しってやつよ」 距離を詰めて、今度はこちらから唇を重ねてすぐ離れる。端正な彼の眉が少しだけ下がったのが面白い。くす、とライラが笑みを零した瞬間、だ。 「ひゃあっ!?」 ふわり、身体が浮いて思わず素っ頓狂な悲鳴をあげた。 「……ひゃあ」 「う、うるさいわ」 それはクラウドが不意にライラの背中と膝裏に手を回して身体を抱き上げたことに起因していて、静かに繰り返された棒読みのリフレインに、思わず眉が寄る。 急に重力を失った心地がしたなら、多少の焦りが出るに決まっているだろう。元ソルジャーだろうが、そのあたりに変わりなどあるはずがないのだ。似合わないなんて、言外に言うな。 それにしたって、 「……ねぇ、どこに?」 ソファからわざわざライラまで連れて立ち上がって、何をするつもりなのだろう。シャワーなら自分の前に既に浴びているのを見ていたはず──抱く女の身体は徹底的に綺麗でないと気が済まないタイプなのだろうか。そんな、潔癖だとは知らなかった。 静かに推察を続けるライラへ、クラウドは何故か彼自身も不思議そうな顔で言った。「どこって、ベッドだけど」と、さも当然とばかりに。 「ソファでそのままは、それこそ雰囲気が台無しだろう」 下された先で、マットレスがふわりと沈む。あまりにも丁寧なその動作に、ベッドは一つの軋んだ音を立てることもない。なのにその静けさは容易く破られて、電灯を消してまた戻ってきたクラウドの体重にぎしり、音が鳴る。同時にまた、唇が重なった。 覆い被さって、頬に触れる人の熱。思わず目を閉じて、そしてやっぱり目を開いた。薄暗い中で、まだ水気を含んだままのクラウドの金の髪が、普段と違いぺたりと寝ているのが少しだけ面白かった。 少しだけ身体を起こして、彼はライラの寝間着へと手を伸ばす。なんだかたどたどしい手付きだ、と思いながらライラも相手のシャツに手を伸ばした。 「……触ってもいいか」 「だから、そういうこと一々聞かないで」 下着だけの姿になったライラへ、上半身を露わにしたクラウドが問い掛ける。やはり雰囲気を台無しにする不要のやり取りに肩を竦めると、目の前の青年の表情はまるで出会ったばかりの少年時代のように情けないものへと変わるのだった。 そして──なぞるのは、剣を握り続けて肉刺だらけの硬い手の平だ。おっかなびっくり、まずは脇腹に触れて、撫で上げて。 投げ出していた右手の甲は、口元に添えた。あまりに優しい指が、触れた面積を増やす。もしもその指に洋墨が付いていたならば、きっとライラの白い肌はもうすっかり黒い色に塗り替えられている。それほどまでに丁寧に、丹念に、触れられている。 「──っ、あ」 気持ちが良い。心地が、いい。いい、けれど、 「っ……、ぅ、」 肌を、頬を、撫でていく。さらり、と。長い髪が。 指に、腕に、絡まる、銀の髪が、絡んで、── 「ライラ?」 ぼんやりと指先を見つめていたライラは、呼び掛けられた先へと視線を戻した。覗き込むのは、クラウドの青い瞳だ。訝しむような色を含んだその目を黙って見つめ返しても、彼は何を言おうともしない。 呼ぶだけ呼んで、なんなのか。はぁ、と溜息を吐く。 「…………なに」 「大丈夫か」 端的な問い掛けにもう一度溜息を。 「貴方、身体撫でただけで女をどうこうできるほど器用じゃないでしょ。そういうのは、突っ込んでから言ったら?」 目の前の仏頂面が、それはもう見事に歪んだ。眉を寄せて、眉間に皺が出来て。彼のそのままの顔が近づいて、ライラの言葉を紡いだばかりの下唇にキスをした。 相も変わらない、触れるだけの優しい口付け。表情と行動があまりにもちぐはぐで、調子が狂う。そうして不機嫌そうに顔をしかめるくらいなら、行動にもそれを表してくれないだろうか。 ぐ、とその肩に手をついて力任せに押すと、その身体は簡単に離れていった。 「もう、いいから。さっさとしなさいよ」 口を閉ざした彼は、告げた通りにライラの下腹へと手を滑らせた。泥濘んだその場所へ、入り込んでくる──けれど、覚悟を決めたよりも随分と細いそれは、たった一本の指だった。 指の腹で撫でて、引っ掻いて、出し入れを繰り返されるそれに息が漏れて、思わず首を振る。違う、こんな、 「ちょっ、と……ねぇ、だから、そうじゃなくて」 こんな、間怠っこしいのなんて必要ない。だから、さっさとしなさいと言ったのに。 「…………優しくしたいんだ」 「私が、いらないって言ってる、の……っ」 あと話をしている間くらいは指を止めなさいよ馬鹿、と罵倒する暇も惜しくて、誤魔化すように髪をぐしゃりと掻き乱す。さほど気を逸らす効果はなかった、けれどそのまま言葉は続けた。 「今更こんな、丁重に扱われるような……身体じゃ、ないわ」 動いていた指が、ようやく止まった。ほっと息を吐いて、ライラは目の前の青年を恨みがましい気持ちで見上げる。 淡々と、事実を伝える言葉を紡ぐために。 「分かってると思うけど、私、処女じゃないわよ」 「それは……知ってる」 彼が思い浮かべたのは、旅の途中での出来事なのだろう。記憶を失っていたあの頃に、セフィロスを模したジェノバに捕らえられたライラを助けにきたのはクラウドだった。 服を剥がれた姿──あえて口にしなくたって、何が起こっていたのかは分かりきっているはずだ。 けれど、それじゃない。その、もっと前から。呟いたライラへと、クラウドは「やっぱりセフィロスと……」とやはりあどけなさを思い起こさせる表情を浮かべた。 「半分、正解」 「やっぱりセフィロスと“付き合っていたのか”」は、不正解も甚だしいが。 大空洞にいた時のことは、今もなお朧げでほとんど覚えていない。けれど、魔晄の光とこの身を抱く男の腕だけは微かに、パリンと砕かれた心の音は確かに、記憶に残っている。 けれど、それすらも、違う。もっと前に。 ブツブツと言葉を連ねるごとに、記憶が色を持つ。取り戻して、まだ失われた期間すら折り返せていない記憶達が今更ながらに迫ってくる感覚に責め立てられながら、ライラはただ口を動かし続けるのだ。 そう、一番最初は、 「あの、事件が起こった日」 ニブルヘイム、あの古い屋敷の中で。下手な親切心を出して、様子を見に行った自分が悪かったのだ。 「力で敵うはずないでしょ? 押さえつけられたら碌な抵抗もできなくて」 「ライラ」 「だから多少雑に扱われても平気よ、私。はじめての、か弱い女の子じゃない。ソルジャーで、丈夫で、慣れてるんだもの」 といっても経験人数は1人だけ、なのだけど。そう考えると、まるで随分と身持ちの堅い女のようだと笑えてくる。でもその1人と死ぬほど、文字通り心が死んでしまうほどには繰り返し、繰り返し繰り返し、何度も何度も何度も何度も── そう、だから慣れている。全部クラウドとの行為の予行練習で、面倒なことを取っ払うためにあったと考えたなら、まぁあの経験も多少有意義だったと言えるのではないだろうか。 いつになくに饒舌に回り続ける口を、ライラは不意に閉ざした。クラウドが突然、黙ったまま、身体を抱きしめてきたからだ。 大剣を振るう筋肉質な腕が強く、けれど痛みを感じないくらいに優しく抱き寄せてくる。好きなようにさせていると、いつの間にか背はシーツから浮いて、上体は起き上がらされていた。その胸板に額が押し付けられて、髪が撫でられる。何度も、何度も。 聞こえてくる心臓の音、酸素が吸って吐かれる音。何も話してくれないから、それだけしか聞こえてこない。 「な、によ?」 さっきから、突然名前を呼んで黙り込んだり、こんな抱きしめてきたり。挙動不審が過ぎるのではないだろうか。 眉を寄せたのも束の間、ぽつり、唇の寄せられた耳元で小さな声が聞こえた。 「……やっぱり、優しくする」 何、それ。 「ねぇ貴方、話聞いてたの?」 「大切にしたいんだ。そういう、最初とか最後とか関係なく」 波打つライラの髪を、クラウドの大きな左手が梳いた。絡まないように背中へと流して、そのまま腰に添えられる。右の手は頬を撫でていて、まるで導かれるように自然に、ライラはその胸元から顔を上げていた。 そっ、と。唇が重ねられる、羽根が撫でるように優しく、触れるだけのそれが。一回、二回、三回── 「優しく、したい。ライラ──好きだ」 「クラ、ウド?」 唇だけでは留まらず、頬に、額に、瞼に、鼻先に、彼は何度も口付けた。そして腰を抱き寄せて、また唇に。 「一般兵になって初めて会った時から、可愛い子だって思ってた。ライラがソルジャーになっても……守りたいって、本気で思っていたんだ」 真っ直ぐに見つめてくる目から、視線が逸らせない。淡々と続けられる言葉に、耳を塞ぐこともできない。顔が、なんだかとても熱い。 「……好きだったんだ、ずっと」 「ちょっと……やめて、恥ずかしい……」 「好き、だ。ライラ。……愛してる」 違う、私は。だってそんな、 真剣な顔で見ないで欲しい。真面目な声で名前を呼ばないで。優しい手で触らないで。だって、そんなの、 「ね、ぇ……だから、もう……いいから」 「ライラ」 「だって、……だっ、て、」 そんなもの、求めていない。求めるつもりなんてない。身体の関係なんて、結んでしまえばそれで終わりなのだ。恋人であろうがなかろうが、肌を重ねればそれで十分に愛は分かち合えるものなのだ。 ライラは、それを知っている。そう知らしめられて、そうであると囁かれて、そうして魂さえも奪われ喰らい尽くされてきた。 無垢でありたかった少女の時に、言葉の通りに身体で、そんな途方もない事実に気付かされてしまったのに。 今更、そんなもの。 好きとか愛してるとか、あまりにも無意味だ。 「無意味、なのに、」 顔が異様に熱い。鼻と目が、中でも特にカッと熱くて、この熱が羞恥から来たものではなかったのだと遅れて理解する。 まるで瞳の奥を溶かすような熱いものが、涙が、ぶわりと眼窩を溢れ出して頬に落ちた。ぼろぼろ連なって留まらず、大粒の雫が転がって晒された2人の肌を濡らす。 それを見ているクラウドは何故だか微かに笑った。そして、見ないで欲しいライラが顔を隠そうとする前に改めて、この身体を胸に抱き寄せるのだ。 水を吸い込むはずがない胸筋は、止まってくれないライラの涙でぐちゃぐちゃで、顔を埋めるには居心地が悪い。だから離して、と苦し紛れに身体を叩く手には、不思議と一切の力を込めるつもりにはなれなかった。 「そう、よ……別に、どうでもいいの……関係ない、の」 とん、その腕に縋る。 「最初も、最後も──単なる地点の話じゃない……」 理想だなんてはなから持ち合わせてなどいなかった。恋だって、本当はするつもりなんてなかった。可愛らしい乙女なんて、ライラの中には欠片も存在しなかった。 だから、全て過去なのだ。執拗に注がれた快楽も執着の眼差しも、どろどろと纏わり付くような愛の煮凝りも、全部。取るに足らない過去だ。今はもう終わったことだ。 そうやって割り切った。割り切っている。割り切れていた。けれど、 「でも……私、こわかった」 倒れた自分を見下ろした冷たい瞳が、身体を覆い隠した男の影が、服の引き裂かれた悲鳴のような音が、 「痛くて、内臓が潰れるんじゃないかって、思って……このまま死ぬんじゃないかとか、思っ、て」 本当はとても怖かった。負けてはならないと自分に言い聞かせて虚勢を張ってみせていても、本当は、ずっと。 あの時のライラは告げられた通りにきっと彼のもので、彼のためだけに存在していた。そのまま身体だけでなくて心までもが押し潰されて、このまま奪われてしまうのではないかと、不安で、不安で。 「……すまない」 抱きしめてくれる腕が、より優しく力を増す。髪が乱れるのも気にせずに、ライラは触れる肌に頬を擦り付けた。 「どうして……貴方が、謝るの?」 「何もできなかった。去っていくあんたを見送ることしか、俺には」 首を振る。違う、と。 あの時、炎に包まれた村の中、故郷の惨状に泣き出しそうな顔をしている“一般兵”が──好きな人が見送ってくれたから。震える手で剣を握って英雄に立ち向かったその姿を、霞む視界に映し出せたから。 だからこそライラは、壊されたってこの心を手放さずにいられた。これからだって、きっと、最後まで。 「好き、よ。クラウド。今、ここにいてくれる貴方が。貴方だけが、ずっと。だから……もう、いいのよ」 彼の胸を押して、腕の中から逃げ出す。自由になった身体で、今度はライラから手を伸ばした。その首に腕を回して抱きしめる。唇を重ねる。カサついたそれがどうにもこの不器用な青年らしくて、なんだか堪らない気持ちになった。 クラウドの肩口に顔を埋めて、囁く。「ほら、さっさとしてよ」と、先程も告げた言葉を、先程よりも穏やかな気持ちで。 「私は、早く貴方が──」 部屋の灯りは落とされて部屋を包むのは薄暗い闇でしかないはずなのに、その場所はどうにも明るく照らし出されているような気がした。 目の前の彼の金の髪が、手を伸ばせば届くそれが、あまりにも眩い太陽のように見えるからなのかもしれない。そう、心の中だけで思う。 石鹸の匂いが首筋をくすぐって、柔らかいシーツが素足に馴染む。耳元で苦しげに、何かを堪えるように詰められた低い吐息が、あまりにも甘い。 両の指は自分のものより太くて長い指に絡められて、動きを封じられている。優しく、あまりにも優しく、自由を奪われる。“ライラ”という人間の全てを塗り替えられる。ああ、どうして── 涙が、滲んだ。薄っすらと、誰にも気付かれないほど、少しだけ。潤んだ、だけ。 別に、年頃の恋する少女だった時だって、可愛らしい夢も淡い理想も抱きはしなかった。例えば「“はじめて”は、好きな人と、優しく愛し合って」なんて。考えたことなど、決してなかったはずなのに。 「クラウ、ド……」 名前を呼ぶと、静かに唇が重ねられる。呼吸が奪われる。酸素が取り込めなくなって、頭がくらりと回る。回って、回って、溶けていく。何も考えられなくなるほどに。 揺らされ、ぐらり、揺蕩って、ふわり、心地よさに、気持ちが良くて、 ああ言ったけど、初めてが良かったなぁ、なんて。 これが初めてなら、とても、素敵だったなぁ、なんて。 幸せの波の中に投げ込まれながら、遠い日の少女はそう呟いてようやく、苦しいと言って泣き続けていた息の根を止めてもらえたのだ。 遠き黄昏にペルセフォネは微笑う |