04 船上 船は海原を進み、燃える港町はやがて見えなくなった。追っ手が来る様子は一切ない。当然、あの騒ぎでは船など出せるはずがないだろうが。「なんとかうまくいったな」 ロクロウが満足げに笑って、そしてある方向に視線を向けて今度は困ったような笑みを浮かべる。 「……若干、オマケがついたが」 そうねぇ、と私も苦笑いをしながらそちらを向く。ベルベットは「オマケ?」と首を傾げながら、私達の視線の先を目で辿った。そしてようやく、自分の右手が先程の少年の手を握ったままだったことに気付いたらしい。 「あ」 顔を上げた少年と、ベルベットの目が合う。失態とも言えるのかもしれないが、その光景はなんとも微笑ましいものだ。 そんな中、魔女は歯を見せてニヤリと笑った。 「ベルベットのオヤツ代わりには丁度良さそうじゃの」 「オヤツ……」 彼女の言葉に少年はぼんやりと、それでも不安げな響きを持ってオウム返しする。ロクロウが「冗談だからな」と笑うと、彼は首を振って「それが命令なら」と返した。 「……いいのか? 連れていって」 「この子の術は役に立つ。やばくなったら捨てればいいわ」 それにしても、ベルベットは聖隷もしっかりと食べられるらしい。味覚はなくとも、食材は豊富だ。本当に、実は味を感じることのできる食べ物が存在するかもしれない。 「じゃの。聖隷なんて道具みたいなもんじゃし。のう、二号?」 「うん」 無表情で頷く少年に、ベルベットは苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。 ダイルが操船の手伝いにロクロウを呼びつけた事で、その場は一旦自由解散という運びとなった。といっても、狭い船の中での解散であるため、全員の行動はよく見えている。 海を見つめたまま動かなくなった少年の背後に立つベルベットに、私は首を傾げた。 「ベルたん、どうかしたの?」 弾かれたように肩を跳ねさせて、ベルベットは振り返る。そこまで大袈裟に驚かせるようなことはしていないはずだ。私が背後に立っていることにも気付かないほど、彼女はこの聖隷に心を割いていたのだろうか。 「…………前から思ってたんだけど」 「?」 しばらくの沈黙の後で、ベルベットが口を開く。 「あんたのその呼び方、なんなのよ」 「呼び方」 「ベルたんとか、ベルぽんとか……なんか、色々変な事言ってるでしょ。やめてくれる?」 まさか唐突にそんなことを言われるとは思わなかったため、今度は私が驚いてしまった。二、三度瞬きをしてから「うーん」と唸ってみせると、ベルベットは腰に手を置いて苛立たしげに私を睨んだ。 「私、人の名前を覚えるのが苦手なのよ」 「は? 学者先生が何言ってんのよ」 「生物の学名なら覚えられるのに、人の名前だけはどうしてもダメで」 だから皆に愛称を付けて覚えることにしているの、と言い訳してみせると、ベルベットは「訳わかんない」と吐き捨てて私に背を向けてしまった。 ベルベット、だからベルたん。名前ならちゃんと覚えている。覚えているけれど、彼女は私の中ではベルぽんやベルっちで十分だ。 操縦桿を握るダイルの方へ行ってしまったベルベットの背中に「嫌われてしまったかしら」と少し笑って、私も背を向ける。 と、船首の甲板に立つ魔女と目が合ってしまった。仕方がない、こちらとしても彼女とは一度話さねばならないと思っていたのだから。 派手な色合いで奇抜な格好をする彼女は、魔女というよりは道化に見える気がした。すぐ隣まで行って、船縁に腰掛ける。 「この船って、どこまで行くのかしら。貴女は知ってる?」 「さぁのぅ。王都に用事がある……と、聞いたような聞いてないような……。どうじゃったかのー?」 ベルベットらは王都に用事があるのか。それはなんとも都合が良い。私も近くまで付いて行かせてもらおうと思う。 「ところで、貴女は──」 「儂は泣く子も笑う天才魔法使い、マギルゥじゃよ〜。よろしゅうの〜」 問いを投げる前に、魔女──マギルゥは先回りして名乗りを上げた。別に名前を聞きたいわけではなかったのだが、仕方がない。“マギルゥ”か、と胸の中で反復する。 「して……お主の事はなんと呼べば良いのじゃ?」 この短時間にして既に見慣れた、ニヤリと擬音の付く笑みを浮かべてマギルゥは私に近寄る。そして耳元で囁いた。 「ギネヴィア、で良かったかの?」 懐かしすぎる呼び名に、少し眉間に皺が寄った。はー、と肺の底から二酸化炭素を吐き出して、すぐ目の前の魔女の緑色の目を覗き込む。 「ソニアで良いわよ。えーと、マギ……ラニカさんだったかしら?」 私が囁き返した言葉を聞き終えて、魔女は心底楽しそうな表情で私との距離を開けた。 「ごめんなさいね。人の名前を覚えるのがどうにも苦手なのよ。……間違えないように、気をつけるつもりではいるけれど、ね?」 そっちの態度次第では如何様にも、と暗に含ませた私の笑顔に、マギルゥもニコリと屈託のない笑みを浮かべた。 「そうかえ。儂もうっかり別人の名と間違えんよーにせんとのぅ、ソニア」 「よろしくね、ルゥさん」 軽い足取りで階段を降り、船室の方へと消えて行ったマギルゥの背中を見送って、私は空を仰いだ。 こんなところで、本当に意外な人物にまで出会ってしまった。トカゲの業魔を探すために雪原をウロウロしていただけのはずなのに、たった1日でここまで環境が変わるものだろうか。 全てが見えない糸で導かれているように。私が捨てた過去が、次々と手元に戻ってきている。 別に良いのだけれど。珍しい業魔に出会えたし、こうやって行動の中で観察もできるのだから。何も損などしていない。 はー、と先程と同じように胃の腑から深く息を吐き出した。 「船酔いか?」 突然聞こえた声に、つい肩がびくりと跳ねた。先程のベルベットと同じだ。別の思考に飛んでしまっていると、どうにも過剰に驚いてしまう。 声を掛けた張本人であるロクロウは、私のあまりの驚きように目を丸くしていた。 「いいえ、問題ないわ」 「……その割には驚き方が」 「別件よ」 船縁に腰掛けて足をぶらぶらさせながら笑ってみせると、ロクロウは「それなら良かった」と歯を見せて笑った。 「ダイちゃんの手伝いは大丈夫なの?」 「応、少しばかり休憩だ」 少しの休憩だというのに私にわざわざ話しかけてくれるだなんて、ありがたい話だと思う。この機会に色々と情報を仕入れておこうか。 「そういえば、折角だし教えてくれないかしら?」 「何をだ?」 「貴方の、ここまでの経緯」 ロクロウがベルベットと、ついでにマギルゥと共に行動をしている理由がどうにも気になって仕方がない。さらに加えて言うならば、彼が業魔になったきっかけも知りたいと思う。 「経緯か。うーむ、何から話せばいいのやら」 そう言いながらも話してくれるつもりはあるらしいロクロウは、私が座る右隣にもたれかかって腕を組んだ。 ……この座り位置だと顔の左半分しか見えないために業魔部分が観察できないのが、口惜しい。逆ならば完璧だったのだが。 「そうね……なら、ベルベットと一緒にいる理由は?」 「それなら簡単だ。ベルベットには命の太刀を見つけてもらった恩がある。それを返す必要があるからな」 恩返しか、それはなんとも業魔らしからぬ動機だ。やはり彼の精神には人間であった時の行動原理がしっかりと根付いている。 「見つけたという事は、失くしていたの?」 「監獄島に収監された時に取り上げられたんだ。まぁ、当たり前だろうが」 「確かに、囚人に武器なんて持たせないわよね」 なるほど、監獄島にこの3人は捕らえられていたのか。ベルベットが業魔になって初めて人間の食べ物を食べたというのも、自身の性質について無知であることも、捕らえられて牢獄に1人でいたからこそというわけだ。 脱獄仲間の3人は、監獄島から逃げた時の船が壊れ、それを直すためにヘラヴィーサへやって来た、と。これまでの情報の断片を整理しながら、推察を終える。 これまでの事情は大方理解できた。それなら、次はロクロウについて尋ねておこう。むしろそれが私の本業だ。 切り込むとしたら、やはり先程の“命の太刀”という言葉だろう。恩を感じるほどに大切なものであるならば、きっとそこに彼の執着が見えるはずだ。 「その背負っているのが、例の太刀なの?」 視線で示しながら「とても大きいわね」と言うと、家に伝わる太刀なのだと教えてくれた。家か、と頭の中で反復すると、同じような太刀を背負っていた対魔士の姿が頭に浮かんだが、例の如く興味がないのですぐに脳内から削除する。 「戦う時は、それは使わないのね?」 「ああ」 「どうして?」 「勝つためだ」 目の前の業魔の表情の色が変わったのがわかった。なるほど、ここか。 「……貴方の願いは、勝つ事?」 「願い?」 「何を犠牲にしても、果たしたい思いの事よ」 少し考えた表情をして、そして彼は「そうだ」と頷いた。 「どうしても、斬りたい奴がいる。そいつに勝つために強くなりたいと思った。人の道から外れようが、命を落とそうが、それで良いと」 ……なるほど、彼の執着は“勝つ”事ではなく一個人か。おそらくもなく、その対象はついさっきも脳裏にチラついたあの男。 そういえば弟がいると言っていたような言っていなかったような気がする。興味がなさすぎて忘れてしまったが。業魔の弟、と教えてくれたならちゃんと興味を持って聞いたと言うのに。──それとも、彼はまだ弟が業魔になった事を知らないのか。 「まぁ、本当に人間ではなくなっちまったがな!」 カラカラと笑う男は、到底業魔へ身を落とした事を嘆いているようには見えない。むしろ、それを好機と見ているか。 「それが貴方の強さなのね」 混沌に飲まれるほどの強い感情を抱き、それすらも自らの力に変える意志を持つ者。復讐を望むベルベットも同じだ。それが闇にしか続かない道だとしても、思いのままに突き進むその姿こそが、人間だけが持つ事のできる美徳だと、私は信じている。 「私はそういうの、素敵だと思うわ」 ずっと、いつまでも、見守っていたいと思うほどに。 ふと視線を感じてそちらを向くと、ロクロウが目を丸くしていた。驚いたような表情に見えるが、どうしたのだろう。私の後ろに何か新種の生物でもいたのだろうか。振り向いてみるが特に何もいなかった。 もう一度ロクロウの方を向くと、先程とは一転何かを考えるような難しい顔をしている。どうしたのだろうと首を傾げる間もなく、今度は更に一転した笑顔を浮かべた。 「ありがとな」 目尻が下がった、今までの快活なものとは違う雰囲気に見える笑みに、私は今度こそしっかりと首を傾げた。なんだろう、彼の感情の変化が読めない。そんなよくわからないところが業魔の魅力ではあるのだと、重々承知はしているのだが。 それきり黙ったままにこにこと笑顔だけ浮かべる目の前の業魔に、私はどことない居心地の悪さを感じて、肩を竦めたのだった。 船上 |