A BOUQUET OF FAIRYTALES FOR YOU

TORCH LILY - main story!! 1 


「お疲れ様です」
「お疲れ、さくらちゃん! 明日もよろしくな」
「はい、よろしくお願いします」

 両手を腿の中間位に添え、ゆっくりと腰を30度まで傾ける。背筋を伸ばして、心を込めて、一、二、三拍と呼吸を置いて、静かに頭を上げる。
 相変わらず綺麗なお辞儀だな、と自身にとっては幼い頃から癖付いただけの習慣を褒めてくれた共演者に微笑みで返して、さくらはもう一度軽い会釈だけを残してスタジオを出た。

 市内にある撮影スタジオの一室は、今はとある戦隊ヒーロー達の集う基地となっていた。
 日常をのんびりと過ごすためのテーブルと椅子。上に菓子やボードゲームまでが雑多に置かれた向こうには、緊急時に指令を受けるためのモニターが置かれており、壁にはハンガー引っ掛けられたヒーロースーツが揺れる。
 そんな部屋を擁した大きな部屋──の分厚い防音の扉を開いたなら、その先には本物の日常が広がっていた。先までの日常を模した世界と比べたならば、むしろ無機質めいてすら見える何の変哲もない廊下だ。

 今日もよく働いた。心の中で自身を褒めてやりながら、楽屋へ向かう通路を歩く。

 『夢幻戦隊ドリミンジャーU』。それが、このスタジオで現在撮影されている特撮番組の名前である。
 毎週日曜の朝に放送されるこの番組は、一昨年に放送されていた『夢幻戦隊ドリミンジャー』……いわゆる前作が空前の大ブームの末に最終回を迎え、ファン達の期待に応える形で、特撮番組には珍しいシーズン2の放送がこの春から始まった話題作だ。

 正義のヒーローが人に仇なす悪を倒す、毎話完結勧善懲悪の物語──と、簡単に説明するならそのような感じだが。
 毎話ごとに掘り下げられる『悪』の悲しくも共感できる事情と、世の不条理を噛み締めながらも正義のために葛藤する『ヒーロー』の姿。それらが深いメッセージ性を持っているとして、本来需要の外にあると想定されていた層にもウケたのがヒットの要因だ(と、ネットのニュースで書いてあった)。
 子供向けとは思えないシリアスな展開。その中で繰り広げられるヒーロー達の緩い日常。終盤に待つ、スタント無しの激しいアクション。これらが各話に緩急を付け、王道ながらも飽きの来ない番組を生み出すのである(というのも、ネットニュースに書いてあった)。

 篠崎さくら、という女優はそんな番組のレギュラーメンバー──紅一点の『桃原夢乃』及び『ムゲンピンク』役を務めている。
 この役は、以前は稀に深夜のバラエティー番組に呼ばれる程度のモデル兼タレントでしかなかったさくらにとって、初の役者の仕事でありヒット作となった。それを機に演技の仕事が急増し、最近では主役にも抜擢されるようになってきたのだ。

 シンデレラストーリー、と誰もが口を揃えて言う。

(運が良いんだか悪いんだか、という感じだけど……)

 偶々参加したオーディションが、偶々自分の能力に合致するもので、偶々その番組がブームとなった。そんな、幸運の連なりで勝ち取った地位。

 ──元々は、ここまで有名になるつもりはなかった。
 戸惑いの気持ちは今でも拭いきれない。タレント、俳優、歌手にアイドル、他にもたくさん。誰もが知るような著名人になる事を夢見ている人々が、この世界には数え切れないほどにいるのだから、そんな事を言ったならバッシングを受けるのは分かっているけれど。
 しかし実際、さくらは静かに生きていくのだろうと思っていた。派手に生きる資格はないし、そもそも『そんな事』を望まれて生まれた命でもない。表立つのではなく、陰で誰かの支えになる方が性分なのだと、そう信じて生きていたのだから。

 ふるりと首を振って、回想を払う。考えたところで何も変わりはしないなら、思考に意味はなかった。

 レバーハンドルを下げ、楽屋の扉を開く。ここは女性キャストが全員で使うために用意されたはずだが、今日の撮影で女性はさくらしか居なかったため、室内には誰も居ない。広々とした楽屋は冷房が効きすぎて寒いくらいだった。
 いつもなら、少なくとも隣にはマネージャーがいるはずなのだけど。今日は撮影の合間に他の予定調整を行わなければならないと、席を外していた。撮影後に迎えにくると言っていたから、しばらく待っていることにしようと思う。

 さくらは部屋の隅に置いてあるロッカーの方へ向かった。待つにしても、着替えるだけは着替えておこう。
 鍵を開いて、服に手を伸ばす──その前に、鞄に投げ込んでいたスマートフォンを手に取った。

 ロックを解除して、SNSを開く。今までに何度も検索しているせいで、履歴の一番上を陣取り続けている名前を1つタップする。
 ほんの一秒の読み込みだけで、そこにはずらりと世間の声が並べられた。

(酷い。悪党。ウザい)

 ネットニュースの記事も、その中に並べられている。記事の引用コメントだったり、そこへの返信機能へのコメントだったり。ありとあらゆる手段で、その名前が。

(最低。嫌い。テロリスト)

 怒りを込めた者、面白おかしく囃し立てる者。渦巻く情報の波の中、掲げられる名は好意的とは呼び難い感情に飾られて繰り返される。その甲斐もあって、すっかりその人はこの夏一番の有名人になっていて。

「なーに見てんのよ?」

 とん、と肩に触れた手と声に、スマートフォンから顔を上げる。入ってくる気配は感じていたから、驚きはしない。

「って、聞かなくても分かるけどねぇ」

 すぐ真横に立っているのは、さくらにとって随分と見慣れた黒いパンツスーツの姿だった。篠崎七海という名の彼女は、件のさくらのマネージャーである。
 黒いショートカットの生え際に浮かんだ汗を拭いながら、彼女は「思ったより順調に終わったのね」とさくらの今日の働きを労う。その様子が暑そうだったので持ってきていた水筒を手渡すと、七海は短く礼を言ってさくらの飲み差しの麦茶を煽った。

 七海がやってくる前に着替えようと思っていたが、その予定通りにはいかなかった。ふうと息を吐いてSNSのアプリを閉じると、スマートフォンごと鞄に投げ込んだ。
 さっさと帰ろう。やっと、服を手に取った。

「今日はこれで仕事終了。明日の撮影は8時半からだから、7時半に家に迎えに行くわ」
「うん、分かった」

 脱いだ衣装は簡単に畳んで籠に入れた。化粧を少しだけ直して、後は念のために両手足に日焼け止めを塗って立ち上がる。
 その間にほとんど汚れていない楽屋を整えてくれていた七海が、さくらの動きを追うようにして扉に向かい、それを開いてくれる。まるでお姫様のようにエスコートされている気分、なんて事をなんとなしに思った。

 廊下で次々とすれ違うスタッフに、お疲れ様でした、と頭を下げる。入口の自動ドアのタッチセンサーを人差し指で一つ押す、と開いていくガラス戸の隙間からも、流れ込んでくるような熱気を感じた。
 もう夕方なのに、まだ暑い。空もまだ明るい。念のための日傘を開いて太陽の下に出ようとしたさくらを制し、七海が車を取ってくると歩き出す。

 日陰で、黒スーツの後ろ姿をぼんやりと見つめる。
 手持ち無沙汰なその中で、つい先程検索したその『名前』を心が呟いた。

 ──天城燐音。『COSMIC PRODUCTION』に所属する男性アイドルで、現在はCrazy:Bというグループのリーダーを務めている人物。そして、この夏の登場人物。彼はきっと、シナリオのト書きでは『敵役』と示されているのだろう。
 他のユニットを顧みないやり口で、金と戦績を積み重ねる。格上の相手は罠に嵌めるように、その評判を貶めるために振る舞う。そして現在アイドル業界を盛り上げているESを名指しで批判する。
 露悪的な行動に多くの人物が注目し、そして顔を顰めた。特に彼らに汚されたアイドル達のファンは声高にその行動を咎め、怒りを吐き出した。

 もう幾分前から続いている騒動への感情を底に沈めて、さくらはぼんやりとその顔を思い出そうとしていた。

(どうして突然、こんな路線に切り替えたのかな)

 数年前に彼がアイドルを始めたばかりの頃は、こんな過激な言動も過激『すぎる』言動もなかったのに──と、その当時から検索履歴の一番上をキープし続ける紅い髪を思う。

 以前、彼について語られるネットの言葉を追うことはあまりに容易だった。一日に20件新しい書き込みが増えていたら上々で、そんな日はさくらも少し嬉しくなった。新曲が出たならその数は跳ね上がって、さくらも発売日に買ったCDを聴きながら、並ぶ感想を眺めていた。
 その数が増えて、ほんの少し減って、すっかり減ってしまって、どれだけウェブブラウザのリロードを繰り返しても変化の一切がなくなって。名前の検索をかけても、1週間、2週間、1ヶ月前のものしか出てこなくなって。
 ああ、彼も。自分でこうやって、検索してしまったりするのだろうか。どんな思いでこの画面を見ているのだろうか。なんて、胸が苦しかった。

 それが今では、たった1時間で100件も利かないほどの言葉の嵐。炎上商法といってしまえばその通り。その名を誰もが知ることになった。それはもしかすると、喜ばしいことなのかもしれない。
 けれど──彼も。自分でこうやって、さくらと同じくして、検索してしまったりするのだろうか。どんな思いでこの画面を見ているのだろうか。なんて、
 胸は、やはり苦しくなるのだ。

 溜息は憂鬱を吹き飛ばしなどしない。けれど少なくとも、気分を変えようと思う気持ちのほんの一端くらいになら影響を与えてくれる。

「七海ちゃん!」

 纏わりついた熱気を跳ね除けるように日傘を開いて、少し離れたマネージャーの背中を小走りで追った。

「えー……なんでついてくんの。焼けるわよ」
「えへへ。七海ちゃん、なんだかマネージャーっぽい」
「『ぽい』じゃなくてマネージャーなの。だから、ちゃんと仕事させてよね〜?」

 そう言われたって、ここまで来たのだから仕方がない。既に目の前にある車の前で、さくらは誤魔化すように笑った。仕方がないし、そもそもタレントとマネージャーという枠組みで七海との関係を縛ることだってできないのだから、そういう意味でも仕方がない。
 勝手知ったるその車の、後部座席ではなく助手席に乗ったなら──もう、仕事は終わりだ。18時は過ぎているから、芸能事務所の社員として働く七海の定時も過ぎている。今日はノー残業デーということで。

「今日、七海ちゃんの家に泊まろうかなぁ」
「そうする? いやぁ、送迎の手間が省けるからありがたいわ〜」
「なんだか、ロクでもない理由で歓迎されてる……」

 ハンドルを切って、車は撮影所に併設された駐車場を右折で出た。市内の一般道、とはいえここは中心地からは幾分か離れた場所だから、横を走る自動車の走行量はさほど多くない。

 赤信号で停まったその隣に並ぶ黒い車を、特に意味もなく見つめながら、さくらはもう一度心の中で呟いた。
 天城燐音。昔からずっと、その活躍を願い続けてきた人。さくらの目を引いて止まない、焔のような髪を持つアイドルの名前を。

「ねぇさくら、晩どうする? どっか店に寄ってく?」
「私作るよ。何が食べたい?」
「じゃあハンバーグがいいな〜」

 けれど、ここでさくらが何をどう考えたところで意味などないのだ。
 さくらは彼の握手会にもライブにも足を運んだことがない。この手が届くはずもない遠い場所で、ただひっそりとCDを1枚買って聴いたりしながらSNSで彼の『今』を知りたがるだけ。
 そんな──ファンとも呼び難い立場の、赤の他人でしかないのだから。

「材料買うからスーパー寄ってね。多分冷蔵庫、空っぽでしょ」
「缶ビールが入ってるから空じゃありませーん」
「も〜。もっとダメな冷蔵庫〜!」

 次第に暮れる夕空に、蝉の鳴き声が響いている。夏が陰りゆく。
 通りすがりの小学校の花壇に咲いた大きな向日葵が、まるで太陽から目を逸らすように俯いている。その丸まった背が、蜃気楼のような景色の中でどうにも印象的だった。


Torch lily - あなたを想うと胸が痛む



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