軌跡

令月と猪古 


 リゼット・トワイニングが私物の買い出しを終えて雑貨屋を出た時、正面から歩いてきたのは制服姿のアニエスだった。今日は平日。当然ながら学校もあっただろうに、こんな時間から事務所に用事だろうか。
 不思議に思って立ち止まっていたリゼットに、アニエスも気がついたらしい。手を振りながら駆け寄ってきた彼女へ、リゼットは素直に首を傾げて尋ねた。

「アニエス様、今日はどうかされたのですか?」
「えへへ、実は……」

 はにかみながら答えたアニエスによると、今からノアにチョコレート作りを手伝ってもらうのだという。
 言われてみると、本日は2月12日。バレンタインデーが目前に迫っている。友人たちと交換する約束をしているのだと話した彼女の手には、おそらくエプロンが入っているのだろうトートバックがあった。

「フェリちゃんも一緒に作る予定なんです。よかったら、リゼットさんもどうですか?」

 興味はあるが、急な参加は迷惑ではないだろうか。少し心配になったが、アニエスが「ノアさん、オデット達も誘って良いって言ってたくらいなので」と言うため、言葉に甘えることにした。

「折角ですし、MK社の皆様に渡すものを作らせてもらいましょうか。アニエス様は、ヴァン様にも?」
「そ、それは勿論、所長ですから! ……その、義理チョコですよ?」
「ふふ、きっと喜んでくれるかと」

 頬の赤い彼女を微笑ましく思いながら、彼女の後ろに続く。アパルトメントの階段を上がり、勝手知ったる事務所の扉を開くと、部屋の中ではフェリがエプロンのリボンをノアに蝶結びしてもらっているところだった。
 テーブルの上にはボウルや泡立て器に始まる調理器具や、板チョコに小麦粉、砂糖などの材料が所狭しと並べられている。準備万端でアニエスを待っていた青年と少女のことを考えると、こちらも微笑ましい。

「いらっしゃい、アニエスちゃん。リゼットちゃんも、もしかして?」
「はい。ご迷惑でなければ、ご一緒させていただこうかと」
「迷惑なわけないよ。賑やかな方が楽しいしね」

 アニエスが予想していた通り快諾したノアに促されるまま、キッチンに近づく。そういえば、既に業務は終わっているはずのヴァンの姿が見えないが、外出中だろうか。

「ヴァンはアーロン君に飲み屋へ連行してもらったよ。いたら多分鬱陶しいから」
「ストレートですね……」

 漂うチョコレートの甘い香りに、そわそわとキッチンを見ている姿が容易に思い浮かぶ。なんならノアに一口を強請ってみては、席に戻れとハウスを命じられるのだろう。少し、その様子も見てみたかった気もする。

 「さてと」と、ノアが一つ手を叩く。

「じゃあ、早速始めるからみんな手を綺麗に洗ってね」



 というわけで、2時間もする頃には机の上には沢山のチョコレート菓子が並んだのだった。

 アニエスはガトーショコラを丁寧に等分して一つ一つラッピングし、フェリはトリュフチョコを箱に詰めながら「お兄ちゃんにも渡します!」と嬉しそうである。途中で顔を出したカトルやジュディスも、2人でチョコチップクッキーを作ってご満悦だ。
 リゼットも、上手く仕上がったテリーヌに満足して頷いた。比較的日持ちするため、きっとミラベルにも届けられるだろう。

「ノアさんはヴァンさんに何を作ったの?」

 くるくると全員の元を回って忙しそうにしていたノアも、そういえば確かに何かを作っていた。が、片手間でスムーズに作業する彼が何を作っていたのか、あまり気にできていなかったと思い当たる。
 カトルの質問によってそんなことに気が付いた面々が視線を向けると、ノアは「え?」と目を丸くした。

「……ヴァンのは作ってないけど」
「ええっ!? だってノアさん、チョコ作ってたよね!?」
「アーロン君にウイスキーボンボンをリクエストされたんだよね」

 だからほら、と指差した彼の隣には確かに酒のボトルがあるが、何の回答にもなっていない。

「正直ヴァンにはしょっちゅうスイーツを作ってるから、バレンタインデーだからって特別感ないしなぁ」
「…………ん? 今の惚気?」
「まぁ、今日余った材料はどうせヴァンの口に入るものに変わるだろうし、それで十分じゃないかな」

 うんうんと勝手に頷き完結したノアに、その場の全員でつい顔を見合わせてしまう。この青年は優しそうに見えて、ヴァンに対してだけは相変わらず塩対応なのである。
 それが特別ゆえと言われれば、確かにその通りなのだろうが。不服そうに口をへの字にする周囲の面々の心配も、リゼットだってよく分かってしまうのだ。

◆ ◇ ◆

 バレンタインデー当日、チョコ作りに参加しなかった男性陣や《モンマルト》の大家一家に、それぞれが作ったものを一つの箱に詰め込んで渡した。形も歪で不揃いなものだが、味については申し分ないものとなっているだろう。
 掛けられた御礼の言葉に皆で少し照れ臭く笑って。それが、朝の話。業務を終えて夕食も済ませ、今は各々が自分の時間を過ごしている午後8時だ。

「……あら」

 手元の資料の整理をしていたリゼットは、税金の申告に必要な書類が一枚自身の元に取り残されていることに気がついたのである。ヴァンに確認とサインをお願いしようと、一式渡したつもりだったのだが。
 彼がもしかすると、今のうちに目を通そうとしているかもしれない。となると、早いうちに正しい位置に戻しておく必要があるだろう。逡巡の後、リゼットは自室を出て事務所の方へと足を向けた。

 コンコンと、ノックをして声をかける。返事はすぐにあった。扉を開いて、

「あら?」

先と同じく声を漏らす。自席に掛けていたヴァンはリゼットの懸念通り書類の処理にかかって──いたわけではなく。大きなパフェを食べている真っ最中だったからだ。

「ヴァン様、それは……?」
「ノアが余った材料で作ったんだよ」

 薄く網目状に固められたチョコレートが生クリームに突き刺さるそれは、チョコレートアイスからブラウニー、ラングドシャにチョコプリン等々、様々なチョコレート菓子が所狭しと積み上げられたあまりに豪華なもので。

「アイスが溶けるから先に食わねえといけなくてな。お前達からのは、明日のお楽しみっつーことで」
「それは良いのですが……」

 甘味に頬を溶かすように緩ませたヴァンの顔に、余った材料に随分な手間暇をかけたらしいノアの様子を想像して。リゼットは手元の書類で少し口元を隠して、笑った。
 ──どうやら“余り物”で十分だったようですよ、皆様。



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