軌跡

月鼈と盛装 -おまけ- 


 アーロン・ウェイがノックの音に自室の扉を開くと、そこにはメイド服姿の親友が立っていた。
 いつも柔和な笑みを惜しげもなく振り撒いている男にしては珍しい、口をへの字に曲げた不貞腐れた表情に、アーロンは「ヴァンと何かあったな」と察した。そしてそれは、こちらが“面白がれる”類いの何かに違いない。

 厄介事ではないと勘で断じて、ノアを部屋に通す。

「なんだ、その格好でオッサンとしけ込むんじゃなかったのかよ?」
「……別にぃ? とりあえずコレ、落として欲しいんだけど」

 彼が指差したのは、自身の右頬だ。つまりは、顔に塗った化粧を落としたいと。練り白粉は普通のファンデーションと違い、カバー力の分だけ落とすのにも手間が要る。そのため、顔を洗う時は声を掛けろと言ったのはアーロン自身だ。

「じゃ、そこ座れや。シャワーもすぐ浴びるんなら、髪は適当に上げるぜ?」

 素直にソファに腰掛けたノアの前髪を髪留めで止めて、メイクオフの道具をテーブルに並べる。手始めにオイルを手に取り、アーロンは何気なく話を振る。

「なんだかんだでお前のことガン見してたじゃねえか。上手くいかなかったのかよ?」
「そーいうわけじゃないけどさぁ……いや、実際はそうなんだけど……その……」

 口籠るノアに見せつけるように、アーロンはオイルを再びテーブルに戻す。暗に示した「化粧を落とすのは話が終わってから」という意思を彼は賢く理解して、溜息混じりに語り始めた。

◆◆◆

「君、なんだかんだでずっとこっち見てなかった? そんなにメイドが性癖なんだ」
「違うっての」

 リゼットちゃんに忠告しておかないと、と冗談めかしたノアのことを、ヴァンはなおも真っ直ぐ見ていた。
 女性のような服を纏ったとて、背も体型も到底女性のものではない。それよりも恐らく、彼の目を惹いているのは自分の“顔”であると理解する。

 いつもと違って、綺麗な顔だ。近くで見たなら厚化粧だと分かるだろうが、それでも普段より余程まともである。多少ヴァンに対して痕を晒すことへの抵抗が薄れてきたとはいえ、醜いことに変わりはない──なら、せっかくの機会だ。存分に利用してやるとしよう。

「いつもと違って、“良い”でしょ」

 その首に正面から両腕を回してやる。妖艶な女性の見様見真似で、視線を絡めて身体を寄せた。

「ってわけで、ご奉仕してあげよっか。ご主人様?」

 生き返っていた羞恥心は一日でしっかり殺し直されたため、これくらいはどうってことない。一応、恋人ということになっているのだ、そんな睦言、ごっこ遊びなら、尚の事。
 とはいえ少しくらいは思い切ったノアの行動を、ヴァンは「いや、」と短く何か言いたげな声で遮った。

「……何、流石に女装で興奮するほど歪んでないって?」
「いや、その……なんだ」

 流石に拒否されると、こちらとしても不服だ。どうにか恥を忍んで、もしかしたら喜んだりするかなとか、淡い期待を抱いていたのに!
 ノアの身体を軽く押して距離を取ったヴァンは、まだこちらを見ている。そしてゆっくりと口を開いた。

「……とりあえず、化粧を落としてきたらどうだ」
「は?」
「ずっとそのままってのは、肌に障ったりするんだろ。痕が炎症を起こしたりしても困るしな」
「別に今更オレは気にしないんだけど。……ああ、これ以上醜くなった顔は、流石に見てられないと。それなら仕方ないね、従うよ──」
「お前は何かとネガティブだな!?」

 はああぁぁ、と深い溜息と共に頭を掻いて。ヴァンが気まずげに視線を逸らす。

「……それが見える方が、俺は“良い”っつーか」
「………………君、傷痕フェチだったの?」
「だから勝手に人の性癖を捏造すんなっ」

 いや、そうなんじゃん。とは思ったが、追求はやめた。余計な言葉が返ってくると想像できてしまったのだ。しかしそんな努力は、残念ながら無駄だった。

「そりゃあ、綺麗な顔をしてんだし今の方が他の奴にはウケるんだろうが。俺からすれば、そいつも引っ括めてお前なわけだ。これまで数年間隠されてた分、見えてる方が──」
「いや、怖っ。何真面目な顔してるの、気持ち悪い」

 揶揄い半分にニヤついてる方がまだ救えるだろうに。今度はこちらが言葉を遮って、大袈裟に溜息を吐く。

「……もういいや、なんか気分じゃなくなった。さっさとアーロン君のところ行って、ついでにシャワー浴びてこよ……」

 逃げるように廊下へ続く扉を開いた時、「ノア」と背後から呼び止められた。

「……服は着替えずに戻ってこいよ」
「だから気持ち悪いって」

 力任せに閉められた扉は、けたたましい音で大気を震わせるのだった。

◆◆◆

 なるほど、と適当に相槌をし、アーロンはオイルをたっぷりと手の平に出した。手を伸ばすとノアは従順に目を閉じて、滑るそれを受け入れる。
 摩擦で肌を痛めないように、指先で丁寧に肌をなぞってやりながら、今の話を要約する。

「つまりヴァンに、化粧をしてねぇ素のお前とメイドプレイがしたいって言われたわけだな」
「ぐっ……端的すぎるけど否定できない」

 悔しげに眉を寄せて唸ったノアは、ほんの二秒で立ち直り、皮肉によく回る口を動かし始める。

「男相手でも普通にいけるようになっちゃっただけでアレなのに、傷物が好きとかどうかしてるよね。って歪めちゃったのはオレかなぁ、お気の毒様って感じ」
「おーおー。次、クレンジングクリーム塗るぜ」

 壺から掬い上げた白いクリームを額と両頬、鼻と顎と乗せていく。均等に伸ばしてマッサージをすると、オイルに溶けていた肌色の層が混ざって落ちていくのが分かった。

「オレと別れた後とか大丈夫かな。いや、普通に女の子抱いたら、すぐに自分が異常だったって気付くか。後悔するんだろうな、可哀想に。ま、自業自得ってことでー……」

 温めておいた蒸しタオルを顔に当てる。突然の温度に驚いたらしいノアの口が止まった。ぐ、と押さえてゆっくり拭うと、クリームの下から素肌が見えて、赤いな、と内心で呟く。酷く擦ったわけでもなければ、肌荒れのせいでもないだろう。
 本人には見えていないことを良いことに、アーロンは愉快だと唇を緩ませた。世界の全てに嫌われていると思い込んでいるネガティブな親友が、恋人からの言葉に少女のように頬を染めているわけだ。これを笑わずして、何を笑えと。

 ともあれ、明日の朝はヴァンに「盛り上がったか?」と絶対に聞いてやることにしよう。
 この後、不機嫌な顔ながらもメイド服を纏ったまま部屋に戻るだろうノアの肩をポンと叩いて、アーロンは「終わったぜ」と彼らの夜の始まりを告げてやるのだ。



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