軌跡

月鼈と盛装 


 ノア・ローレンスが一日の仕事を終えて店の後片付けをしている時、「ちょっと良いかしら」と困った声と下がった眉で告げたのは、雇い主の一人でもあるポーレットだった。

「今月末はハロウィンでしょう? だから、モンマルトでも折角だし、装飾や簡単な仮装をしてみようと思っているんだけど……」
「なるほど、良いですね」

 装飾、ということは何か良さげなオーナメントを探してほしいということだろうか。もしくはユメの仮装に良さげな服を見繕って──いや、それは張り切ってビクトルがやるだろうから違うか。ハロウィン限定スイーツを至急考案してほしい、などもあり得るかもしれない。
 彼女の下がり眉に頼まれごとの気配を察したノアは、直ちに数通りのパターンを思い描く。確かにハロウィンは1週間後だ。企画をするには少々時間が足りないかもしれない。まぁいざとなれば、そこの片隅で遅めの夕食をとっている裏解決屋ヴァンでも頼れば良い。

「装飾とかの準備はユメが張り切って色々と集めてくれてるから、問題ないと思うわ。ただ……その、ノア君に仮装でメイド服を着てほしいの」

 夕食をとっている裏解決屋が、向こうで咽せた。

「ユメがお客さんにどんな仮装がいいか、のアンケートを取っていたみたいで。その結果が、ね」

 渡された紙に目を落とす。幼い子供の文字で書きつけられたタリーマークは、確かに『メイドさん』の下に多く書き連ねられている。
 無言で紙を見つめるノアのエプロンを、きゅ、と小さな手が握った。眠気に蕩けた眼を擦る次期看板娘は、舌足らずに言った。

「かわいいノアくんがいいの……お姫さまみたいな、ヒラヒラなやつー……」
「それで、ヒラヒラで働ける格好ならメイドさんかしら、って答えたら選択肢に加えちゃったみたいで……」

 申し訳なさそうな表情のポーレットに、夢見心地にニコニコと笑うユメ。並んだ2つの桃色の頭に、言葉が詰まる。ついでに(面白がってだろうが)メイド服を所望した客の期待に応えないわけにも行くまいと、性分の真面目さが顔を出した。

「…………分かりました。着ます」

 ぎゅうと抱きついてくる少女の頭を撫でつつ、「ごめんね、ありがとう」と微笑んだ女性を見ると、この選択肢は間違えていなかったのだと確信できる。
 というわけで、善は急げだ。ノアは手近な伝票の紙を1枚千切るとメッセージを書き付け、素知らぬ顔で夕食をとり続けていた裏解決屋の前に置いた。

『4spg
 長身の男が着れるサイズのメイド服を調達してください。報酬は、ハロウィン限定の特製モンブラン』

◆◆◆

「ま……、まだマトモなので安心したかな」
「メイド服の時点でマトモじゃねえけどな」

 10月31日。ヴァンが調達してきたメイド服を身に纏ったノアは、姿見の前で自身を眺め見て呟いた。ちなみに羞恥心は、この数日でしっかりと殺し終えた。
 スカートの丈は足首まで。シンプルな黒のワンピースに、大ぶりのフリルがあしらわれた白のエプロン。可愛らしくアレンジされたものではなく、古典的なメイド服だ。朝から嬉しそうにモンブランを頬張る彼は、サイズだけでなく男が着ても見苦しすぎないものを用意してくれたらしい。

 常のように髪を一つにまとめて、さぁ出勤──と思ったタイミングで、事務所の扉が開く。ノックも無しに乗り込んでくるのは、勝手知ったる面々だ。

「あ? 思ったより普通だな。オッサンのことだから性癖に忠実に、ミニスカ猫耳メイドでも用意したのかと思ってたぜ」
「勝手に性癖を捏造すんじゃねーよ」

 開口一声目に失礼なこと、二声目にもとんでもないことを発したアーロンの手には、以前にも好き勝手塗りたくられた記憶のある練り白粉がある。

「フフン、折角の仮装なんだしバッチリ仕上げないとね」
「ユメもノアくんをもっとかわいくするよ!」

 その隣で胸を張るジュディスの手には、パンパンに膨れ上がった黒猫柄のポーチがあった。紫のワンピースと三角帽子で魔女の仮装をしたユメも、ブラシを握りしめながら無邪気に笑う。
 その並びに、ノアは忽ちに自分の運命を察した。せめてもの抵抗で叫んだ「白粉塗る間はアーロン君と2人にして」という要望のみが許されたが──私室の方で顔を好き勝手に触られて。戻ってきた事務所のソファでは、顔に加えて髪まで好き勝手に弄られて。

「よっしゃ! 完成だな!」
「うんうん、良い出来じゃない!」
「ノアくん、すーっごくかわいいよー!」

 アーロンによる女役仕込みの舞台メイクで火傷の痕を隠された顔に、ジュディスによってマスカラやらリップグロスやら何やらを手際良く施された。そして髪は、ユメ持参のカボチャの髪飾りでツインテールに結え上げられている。
 3人から強く頷かれたノアは、既に疲労困憊だった。鏡に映る自分は普段とあまりにかけ離れていて、けれどしっかり自分であると認識できる。いっそ別人のようになっていれば割り切れもしただろうに。息を吹き返した羞恥心に、眉が下がる。

「あー……まぁ、良いんじゃねえか?」
「まぁ、って何よ。もっと褒めなさい!」
「ヴァンはやっぱりオトメゴコロがわかってなーい!」

 オレは乙女じゃないから問題ないんだけど。女子に責められるヴァンを横目に苦笑すると、肩を組んできたアーロンが耳打ちをしてくる。

「夜はその格好で、所長サマにご奉仕──」

 最後まで言わせずに、鳩尾へ肘鉄を食らわせた。



 漸く出勤し常連客や他の事務所メンバーから格好を褒めそやされたノアが、この一日をどのような顔で過ごしたかは、推して知るべしというところである。



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