chapter 2-1:1 ノア・ローレンスは、自身に“苦手な人物”が多いことを重々自覚している。というより、苦手に属する人物が多い、というべきなのだろうか。一言で表すならば、正義を掲げる人たち。遊撃士や警察や、教会も含まれるだろうか。 善良な市民に差し伸べられる救いの手も赦しの言葉も、遠い昔から自分自身に与えられるものではなかった。何を乞うたとしても応えてくれなかった彼らに抱いたのは、ただの憎悪でしかなかったのだ……と、そんな恨み言は過去の話として。 その実と言えば、隠していたって知っている者は知っているからだ。裏解決屋が匿っている男は、裁かれるべき大罪人であると。向けられる敵意を“苦手”と称するのは失礼も甚だしいのかもしれないが、それでも萎縮はするし、恐怖もする。けれど──微かな期待も、あった。 とは言え、目の前の“彼女”に対する感情には、他の正義の味方達に対するものには加えて、少しばかり不純物が混ざっているのだろうが。 「注文は決まったかしら」 「あ、えーと……じゃあ、ジェノベーゼパスタで……」 エレイン・オークレール。共和国を代表するA級遊撃士。《剣の乙女》。 その鋭い眼差しから逃れるように見つめ続けていたメニュー表も、注文を終えてしまったのなら視線を逃す理由を失う。動揺のままにグラスを取って、注がれた水をチビチビと飲んで口の渇きを誤魔化した。 何故……どうしてこんなことに……。泣きたい心地で、ノアはつい数時間前からの出来事を回想する。 ──仕事に出る直前、事務所のテーブル上に取り残されていた小さな箱を見つけたことが、事の発端だ。 「…………あれ? これって……」 それは、朝にノアが作った弁当だった。日曜学校に行くフェリと、ついでにヴァンに持たせている弁当。その大きさと可愛い花柄の包みから、フェリが忘れていったのだと理解する。 ヴァンが居るなら、依頼で各地区を回るついでに届けて貰えば良かったが、残念ながら既に不在だった。 何はともあれ、仕事である。1階に降りて、ホールに居るポーレットと厨房のビクトルに順に挨拶をする。走って抱きついてきたユメが「ノアくん、おはよー!」と笑ったので、ノアも「おはよう」と笑い返した。 「ヴァンはちゃんと働きにでかけたー? テーシュには、しっかり稼いできてもらわなきゃだからねー!」 「ユメちゃん……どこでそんな語彙を身につけてくるの」 《モンマルト》で女子会に花を咲かせる奥様方の話を盗み聞きしたか、それとも《ラグーナ》のアーニャに何かを吹き込まれたのか。ひとまず、彼女には“亭主”という言葉の意味をしっかりと教えるべきではないだろうか。 ユメちゃん、あのね──とその場にしゃがんで語りかけようとしたが、少女は「ガッコー遅れちゃう!」と言って忽ち踵を返した。 「おじーちゃん、お弁当ありがとー! いってきまーす!」 桃色の髪がぴょこぴょこ宙に跳ねながら、扉の向こうへと飛び出して行く。祖父と母と常連客達に見守られながら、《モンマルト》の孫娘は健やかに、眩く成長していた。 可愛いなぁ、元気だなぁ、という感情と共に、諸々の訂正が出来なかったことに少し肩を落としつつ立ち上がったノアは「そういえば」と世間話をビクトルに振るのだ。 「フェリちゃん、今日お弁当忘れていったんですよね……そういう時って、向こうで何か食べさせてもらえたりするんでしょうか?」 自身が住む旧街区の教会に通うユメと違い、フェリはバスに乗ってリバーサイドにある中東系の寺院に通っている。昼休みの時に取りに戻ってくるのも難しいだろうし──と呟くと、ビクトルはカッと目を見開いた。 「そりゃあ届けてやらねえとな」 「やっぱりですか? うーん……ヴァン、まだ近くにいるかな。連絡取ってみるか……」 「いや、お前が行ってくればいいだろうが」 11時くらいに抜けて向かえば間に合うだろう、と時計に目を向けたビクトルは言葉を続ける。 「ついでにお前も外で飯を食って来い。最近あっちの方でランチってのはあまり取ってねえだろう」 常日頃から同じものばかりを食べずに見聞を広げてほしいというのは、ノアが日々オーナーである彼に言われていることだった。他の料理人の作ったものを食べることで、新たな着想も得るだろう、と。 ポーレットにまで頷いて「遠慮はしないで」と言われてしまうと、固辞する方が失礼だ。ノアは肩を竦めて頭を下げた。 「いつもお2人に甘えてばかりで……すみません」 「ふふ、気にしないで。ノア君にはいつも助けられてるもの」 「お前が考える新メニューは好評だしな。定番ばっかじゃ飽きるっていう常連のためにもなる」 優しい人々だなぁと、しみじみ思う。こんな温かさに包まれて、ユメがこれからも幸せに生きてくれることを、心の底から願った。 さて、それから話していた通りに11時に長めの休憩に入らせてもらうことになった。一旦部屋の方に戻って、コックコートを脱ぐ。しっかり着替える必要はないと判断して、インナーの上に薄手のジャケットを羽織るだけで支度を済ませる。 そして財布と置き去りになっていた弁当を手に、リバーサイドへと向かったのだった。 バスで15分ほど揺られて辿り着いた街区は、川沿いに爽やかな風の吹き抜ける心地の良い景観だ。 ここまでガラリと景色が変わるとなると、一括りに“首都イーディス”と呼ぶのも違う気がしてしまう。都会では、人々は自然と自らを区別して居心地の良い場所に住まいを定め、その文化と歴史を築いていくものなのかもしれない。 この地区に中東の寺院があるのも、また一つの土地柄だった。移民も多く集う首都において、マイノリティと区別されてしまう彼らが居場所を探して作り上げた故の功労。そこで我らがフェリが楽しく過ごせているのなら、過去の偉人たちへ存分に感謝を捧げたいところだ。 橋を渡り、寺院の扉をそっと開いて中に入る。祭壇に司教が、その前に並ぶ長椅子に人々が並んで祈りを捧げる中、すぐ左手の小部屋の方からは授業を行う声が聞こえてくる。 邪魔をするのもよろしくない。手前の廊下を掃き掃除していたシスターに声を掛け事情を伝えると、彼女はにこりと笑って快く弁当を預かってくれた。 「わざわざありがとうございます。フェリちゃんも喜びます」 「いえ。こちらこそ、いつもお世話になっています」 学校でのフェリの様子を簡単に聞いて談笑をした後、改めてお礼を伝えてからその場を辞することにすると、シスターは「翼の女神の加護を」と微笑んだ。 実はノアには信仰心が無い。だから返す言葉は思いつかなくて、誤魔化すように笑みと礼を返して、寺院を出た。気の利いた返しができるように、少しくらいは教会に顔を出すようにするか──なんて、周囲を偽るための術を磨くために足を運ぶのは罰当たりもすぎるだろうが。 さて、主目的を果たすことができた。というわけで、昼食をどこで取るかを考えることにしよう。 向こう岸のテラスエリアには出店が出ている。久々にゴードンの屋台に出向いて、タコスにかぶりつくのも良いかもしれない。ジャンクフードはたまに無性に食べたくなるもので、今まさにその気分になった気がした。 あと、帰り際にベルモッティのところへ顔だけ出しに行こう。前に新作カクテルを作りたいと言っていたため、それがどうなったのか話を聞きたいところで── 「待ちなさい、ノア・ローレンス」 橋を渡り終え、下に降りる階段へ踏み出そうとした時だった。 突然鋭い声に名前を呼ばれて、ノアは身体が強張るのを感じた。突き刺さる敵意。武器となるものを持ってきて“いなくて”良かったと、少し息を吐く。 恐る恐る振り返って、そこに立っていた姿に素直に戸惑った。というのも、腕を組み値踏みをするようにこちらを見つめていた人物こそが、エレインだったからだ。 「顔を合わせるのは初めてね。私はエレイン、遊撃士よ」 「えと、あの、知っ……てます」 混乱の中でもかろうじて応えるが、それが好手か悪手かも判別不能だ。応えるべきだったのかどうかすらも分からないが、今日リバーサイドに来たこと自体が間違いだったということは直感した。 なんだ、なぜ声をかけてきた、遊撃士に問い詰められるようなことはしていないつもりなのだが。 「どこへ行くつもりだったの」 「そ、そこのタコスを買いに行こうと思って……昼食に」 「私も同席してもいいかしら」 「えっ、タコス食べるんですか」 白金のさらさらと流れる美しい髪、切れ長の碧の瞳。凛と背筋を伸ばした佇まいは、彼女の生家の話を聞いたことがなかったとしても、気品を感じるものだ。 なのにそんな人がタコスを齧るのか? 適当に仕事着に上着を羽織っただけのノアと違い、しっかりと仕立てた服だって着ているのに? いや、そりゃあ彼女だってジャンクフードくらい食べるだろうが。 「その……昼食ならベルモッティさんの店とかで──」 「そう。なら行きましょう」 「あ、はい……」 「食べてきたらどうですか」というオススメと遠回しなお断りは、強引に「食べませんか」という誘いへと変換されてしまった。おそらくは初めから有無を言わせる気などなかったのだろう。 颯爽と向こうのカフェバーへと歩いていく女性を突っ撥ねる気力はない。そもそも、ノアにそのような権利が与えられるとも思わなかった。 エレインと共に店内に入る。いつもの通りに猫撫でた声で「いらっしゃいませ〜!」と声を上げたベルモッティは、揃った来客の不釣り合いな様に、一瞬ポカンと口を半開きにした。 窓際のテーブル席に向かい合って座る。そそくさとお冷やを持って来てくれたベルモッティは──様々な情報を持つ共和国でも屈指の情報屋は、この異様な状況をどう捉えているのだろう。 「……ヴァンちゃん、呼んだ方がいい?」 「あはは……いや、気にしないでください」 メニューを手渡すついでにされた耳打ちに、ノアはひとまず眉を下げて答えた。 とはいえ── 「この間はクレイユ村で、同僚が世話になったそうね」 「いえ……こちらもお世話になりまして」 すぐにでも逃げ出したいのは事実だが。まるでお世辞だと悟られそうな言葉を返す。 不殺の精神と『支える籠手』のシンボルを掲げる遊撃士。その在り方自体がノアの存在と相容れないものであるがそれ以上に、彼女に対する感情は、きっと気まずさや後ろめたさに近いものだった。 なんせ、エレインはノアの現在の同居人である彼──ヴァンと、学生時代に恋仲であったらしいから。 別段、そういった存在に対して嫉妬とかいう感情を抱くつもりはない。が、だからこそ思うことだって色々とあるわけで。 沈黙が流れる。やはり心配そうに状況を見守るベルモッティが運んできたパスタとサラダがテーブルに並ぶ。 もそもそと口に運ぶジェノベーゼパスタは、味気ない。本当ならバジルの風味やチーズの良い香りが鼻を抜けていくはずだろうに。クリームパスタを食べるエレインも、こんな空気ではあまり美味しさを感じられてはいないのではないかと思う。折角作った料理をろくに味わって貰えないベルモッティが、少し気の毒にもなった。 「貴方の立ち回りも中々だったと聞いているわ。さすが裏解決屋、といったところかしら」 「オレはただの助っ人なので……」 再度の沈黙。意識を緑のソースに麺を絡ませることに集中してなお、ノアの無為に長けてしまった気配を察する能力は、彼女の物言いたげな空気を悟っている。 躊躇いというよりは、こちらの出方を窺っているというところか。ならば、とノアはサイドサラダに乗ったミニトマトをフォークで突き刺しながら、口を開いた。 「……もしかしてこれ、オレを労うために誘ってくれたりした感じだったりします?」 遊撃士に代わって異変の元凶と対して。自身に代わって裏解決屋の補助をして。単純にそんな功労を讃えてでもくれるのなら、嬉しいのだけれど。 唇の両端をしっかりと吊り上げて作った顔は、たった数年でものになってしまった営業スマイルだった。しかし、知っている人間にとっては──取り分け彼女には、これは酷く醜い仮面にでも見えるのだろう。 カタン、とその右手に握られたフォークが、皿にぶつかって硬質な音を立てた。 「そう思うなら、そう取ってくれて構わないわ」 「嫌だな、なんだか含みのある言い方」 「貴方が言ったのでしょう?」 「あくまで希望的観測を、ですけれど」 笑顔は崩さない。人畜無害には恐らく見えないだろうが、致し方ない。 「ほら、遊撃士協会って案外“色々な”過去がある人が在籍してるみたいですし。こうやって徳を積んだら、無罪放免になったりするのかなーって」 曰く、結社の元《執行者》や元猟兵に加えて、在籍中に大事件に加担してなお資格を持ち続ける者もいるという。正義の味方の懐は、存外広いらしい。 不快げに歪んだ綺麗な顔に、ようやくエレインが本題に入るつもりらしいと察する。お膳立てついでに余計なヘイトを買った気もするが、これもやはり致し方がないか。 「貴方への対応については、検討中よ。今回の事件に“関わってきた”ことも含めて」 なるほど。要するに、黒幕との関与を疑われていると。正直なところ、あのような回りくどいことはノアの管轄では無いはずなのだが、彼らにとってはただの悪として一括りで十分か。ヘラヘラとどこまでも楽しそうに去って行った、自分と良く似た青年の姿を回想して納得する。 「裏解決屋に対しても、わざわざ貴方を連れてあの場に現れた事実に懸念を抱いている者もいるわ。……まぁ、当然のことでしょうけど」 「あー……まぁ、当然でしょうね」 事件解決の立役者とはいえ、爆弾を持ち込んだ人間であるには違いないわけだ。彼を良く知らない者からすれば、不審を抱く理由には十分なり得る。戦力になるためにと思ったが、こればかりはかえってマイナスに働いてしまったようだ。 そして──エレインがノアを態々居心地の悪い昼食に誘った理由はまさにこれなのだろう。ヴァンを良く知るからこそ、他者の風評が耳についたわけだ。そして心配にもなった。だから自身の目で、彼が持ち歩く不発弾の如何を見極めようとでもしているらしい。 ……遊撃士というのは、なんとも面倒な仕事だ。 「……なんですって?」 ああ、口に出ていたか。道化じみて肩を竦めた自身の唇の端が、無意識に歪んで吊り上がったのを自覚した。まるで悪役のような顔をしているのだろう、と想像すると余計に笑える。 ならばいっそ、と開き直って口を開く。 「だって、どこぞの仕事ができる裏解決屋さんが、こんな奴をまるで一般人のように仕立て上げたから──」 望んでもいないのに、と付け足すのは内心で留める。 「貴女は、オレをどうすることもできないんですよね?」 ノアは共和国に戸籍を持つ市民だ。それがどこでどのように手に入れたものであれ、真実が如何様であれ。事実は、決して変わることがない。 そんな人間を裁くことなど、遊撃士にはできない。少なくとも、ノアは今のところは真っ当な旧市街の料理人のふりをして生きていた。 けれど、だからこそ。彼女のような存在が、何よりも有り難いと思うのだ。正義の味方への、期待。自分が“そういう”人間であると知っているからこその、希望でもある。 向けられる敵意があるから、ノアは自分の罪を忘れずに過ごすことができる。自分が何なのか、まるで夢の中にでもいるかのような温かい世界がただの幻であると、思い出すことができる。 そして、 「……どうか“その時”には、躊躇わずに止めてくださいね」 いつ、誰を、“どう”してしまうか、などという心配も少しは和らぐ気がするのだ。 エレインは口を閉ざしたまま、こちらを見つめていた。綺麗な額に皺が寄っていて、そんな顔をさせていることに少しだけ申し訳なさを感じる。 淡々と食べ進めた結果として、ノアの前の皿は既に空となっていた。まだエレインは食事の途中だから、先にこの場を去ろう。席を立ち、テーブルの端に置かれていた伝票を手に取る。 「……貴方に奢られるつもりはなかったのだけれど」 「素敵な女性──それもA級遊撃士だなんて凄い人と食事をする機会なんて滅多にありませんから。格好、つけさせてください」 小さなバインダーに留められたそれを軽く振ると、エレインは僅かに息を零して視線を冷めかけたパスタへと戻すのだった。 レジスター前に立ったベルモッティは、なんだか真剣な顔をしている。異様な空間への警戒か、それとも新たな“商品”の扱いでも考えているのか──どちらにせよ、ノアは「また遊びに来ます」と声を掛けながら伝票と共にミラを渡す。 カクテルの話を聞けなかったこともあるが、今渡した2枚ほど多い紙幣が口止め料として機能したかどうか、確かめに来る必要もありそうだ。 「……どうしてヴァンは、貴方を匿うことにしたのかしら」 扉に手をかけた時、ぽつりと聞こえた声にノアは笑う。 「それについては、同感です」 往路とは逆の車線に位置するバス停から旧市街行きの車両に乗り込んで、流れる街並みを見つめていた。 本来彼の隣にいるべきは誰かなど、ずっと考えている。それはかつて彼と想い合い今もなお心を傾ける彼女かもしれないし、はたまた違う誰かなのかもしれない。 けれどノアは、ヴァンが何かを抱えていることを知っていた。悪夢に魘され、眠れぬ夜の中で朝陽に焦がれている姿を知っていた。 気持ちの整理がつくまでは、彼は大切な人達に想いを秘めることを願うのだろう。弱みを見せたくないだとか、迷惑はかけずに1人で解決してみせたいだとか、そういう男特有のつまらない矜持とかもあるかもしれない。そのあたりの男性心理は、分からないでもないが。 というわけで、そんな期間に消費できるような存在も必要なわけだ。こればかりは、いくら彼女が願ってもノアが気まずさを感じても変わりはしない事実で、唯一心当たる“理由”である。 「おかえりなさい、ノア君。ゆっくりできたかしら?」 「はい。カフェでいただいてきたんですけど、ジェノベーゼソースの風味が絶妙で。多分よくあるレシピよりも、チーズの分量が多いんじゃないかと思うんですよね」 戻ってきたビストロでは、いつも通りにポーレットが微笑んでいる。ろくに覚えてもいないパスタの感想を舌先で弄んで、ノアはその出迎えを享受した。 さてはて、兎にも角にもそんなわけで。この広いイーディスの街で、自分が安らげる居場所だと嘯けるところなど、在りはしない。 そしてそれは正義の味方たちの活躍を体現する事実なのだから、なんとも素晴らしいことだと思うのである。 |