軌跡

◇reminiscence:繊月と粗餐 


 ヴァン・アークライドは、自分でも驚くほどに甲斐甲斐しく、その少年の面倒を見ていた。

「今日の晩は何が食いたいんだ?」

 閉ざされた心は、本当にそこに存在しているのかすらも疑わしい。虚空をただ見つめるだけの少年に、まるで独り言のような言葉を紡ぐ日々を送って、そろそろ1ヶ月が経とうとしていた。

「つって、なんかリクエストされたところで作れねぇけどな。とりあえず野菜でも炒めるか……毎日変わり映えしなくて悪かったな」

 キャベツと玉ねぎを、小さいくせにガラガラの冷蔵庫から取り出す。上手く毟れないキャベツの葉がズタズタになったが、食べられるなら問題はないだろう。玉ねぎは茶色が見えなくなるまで皮を剥いて、雑に約8等分の櫛型にした。
 あとは、少しずつ使っている豚肉を用意して──フライパンを火にかけ、用意した食材を全てそこにぶち込んだなら、後は大体しんなりするまで菜箸を適当に動かすだけだ。
 味付けは醤油と、最後に振りかける塩胡椒。これで夕食は完成だ。

「ほらよ、食え」

 少年の分、として炒め物を取り分けた皿とフォークを手渡す。彼は自ら欲しい分を取って食べることをしようとしないため、こうしてあらかじめ食べるべき量を示すのが常だ。
 じぃっ……と湯気の立つ料理を眺めた少年は、何かを考えていたのかしばらくの沈黙を経て、フォークに手を伸ばした。切っ先が玉ねぎを一片突き刺して、食事以外で開いているところを見たことのない薄い唇の元へと運ぶ。対の口唇が離れて開いて玉ねぎを受け止め、彼は表情一つ変えずにそれを咀嚼した。

 それを見届けて、ヴァンも食事に手をつける。……キャベツの芯がところどころで“かなり”の歯ごたえを主張してくるが、まぁ食べられないことはあるまい。そもそも生でも大丈夫なものなのだから。
 といっても、この雑な料理も段々嫌気がさしてきた。まだまだ安定した収入もない上に、食い扶持が1人増えたものだから、なかなか外食にも手が出しづらい。安い食材を適当に買っては炒める貧乏飯が、日々の定番だ。

 ──なんて、こんな生活を送っているのは結局のところ自分の選択に因るものなのだが。

 少し悩んで、ヴァンはひとまず「《剣魔》は未だ見つかっていない」と簡単な報告だけを依頼主にあげることにした。他の依頼を請けながらも、引き続き行方を追っていくつもりだ、と。
 ただし、そんな嘘が見透かされるのも時間の問題だろう。少なくともこの1ヶ月間、所謂《剣魔》の仕業だと噂されていた変死事件はすっかり起こらなくなっていた。原因が“なんらかの理由”で消えたのだと、既にどの機関も察しているに違いない。
 そして“それ”と同時期に、ヴァンが同行者を連れるようになったということも、簡単に知れることとなるだろう。いや、もう調べられてはいるか。

 だから後は、この身をどう振るか次第だ。
 「すぐに報告しなかったのは、本当にこんな少年が標的であったのかを確かめていたからだ」とでも言えば、依頼主は喜んで彼と大金を引き換えて渡してくれるに違いない。
 だが、もしそうしないのであれば──少しでも早く手を打つ必要がある。他に突かれる前に、各種行政手続きなども含めて、この少年の身元をある程度捏造しはっきりさせておかなければ。

 そのためにはブローカーを探して声を掛けるとして……と想像してみたが、ゾッとしない金額を要求されそうだ。
 金が貯まらない──少し頭が痛くなる。

 と、向かいに座っている少年がこちらを見ていることに気がつく。いつも虚ろな様子の彼にしては、珍しい。

「どうした? ……不味かったか?」

 声を掛けると、彼は頷くでも首を振るでもなく、食事へと視線を戻した。

 現在、ヴァンは各地を転々と回りながら依頼の請け方の検討や、知名度を上げるための下積みに力を注いでいた。安宿に泊まり、日中や夜間にも街を歩いてはその状況などを見極めて、自ら依頼を取って日銭を稼ぐ生活だ。
 少年については、各地に連れ回しはするのの、基本的にはホテルの部屋での待機をするよう伝えていた。
 部屋から出るなと言っていれば、彼はソファに掛けたまま一日中過ごしている。日が暮れても導力灯を点けず、真っ暗な部屋で過ごしていた時は少し驚いた。なので、以降は昼でも必ず明かりをつけてから出掛けるようにしている。

 本当に、悲しいくらいに少年は静かだった。
 心が壊れていると言ってしまうのは簡単だが、そうなってしまう前に彼はどれほど苦しんできたのだろうか。想像しようとして、できるものではないと首を振る。
 その人の傷は、その人だけのものだ。しかしそれでも、いつかは癒えるのだと信じたかった。残された痕が時折引き攣れた痛みを主張するのだとしても、気にしないふりをして過ごせるくらいには──いつかは気にせずに過ごせるようになるくらいには。

 食事を終えた後の食器を片付ける間にシャワーを浴びるよう指示を出すと、少年は素直に従う。最初の日のヴァンが洗ってやった時と比べると、自分で身体を洗い、タオルで水気を拭って着替える……これができるようになったのは、十分な進歩なのだろう。
 湯浴みをつつがなく終えて戻ってきた彼がソファの定位置に戻ったのを見届けて、やっとヴァンもシャワーを浴びようと自身の着替えを手に取ったのだった。

 寝る支度を済ませたなら、次は明日の準備を整える必要がある。とはいえ、そう大層なものではないが。継続中の依頼の情報や、緊急性がないと判断したものの位置関係を確認し、行動の大体の算段を立てる。
 それすら終えたならあとは自由時間だと、少年の隣に座って、節約の最中だが買ってしまった導力車の雑誌を開いた。最新車の試乗レポートに、カスタムカーのトレンド。ヴィンテージカーの写真も載っているのが、中々にマニアックで良い。様々な企画が幅広く取り扱われていて、娯楽として読むには非常に楽しめる内容だ。当然、細部を知るにはそれぞれの専門誌が良いのだろうが、これはこれで乙なものである。

「──っと、もうこんな時間か」

 うっかり読み耽ってしまったせいで、いつの間にやら日付もそろそろ変わろうかという時間になってしまっていた。
 ヴァンは隣でぼんやりと座っているだけの少年に、声を掛けて立ち上がる。「そろそろ寝るぞ」と。

 けれど彼はいつも、この時ばかりはヴァンの言うことを聞きはしないのだ。横になって眠ることなど知らないように、彼は日中だけでなく夜もずっと、そこで動くこともなく遠い闇を見つめている。
 時折意識を失っているように目を閉じている様子も見受けられるが、あれはおそらくは気絶なのだろう。眠らずに生きられる人間など居ないのだから。しかしそれでも、横に寝かせようかと少しでも近づいた瞬間に、彼は目を覚ます。
 この少年は、未だに警戒を解くこともできない“敵地”の真ん中を彷徨っているのだろうか。単純にヴァンが信用できないだけという可能性もあるが──おそらくは。

 少し考えて、ヴァンは一度立ち上がった少年の隣に、改めて腰を下ろした。少年がゆっくり振り返る。まさか再び座るとは思わなかったのか、驚いたようだ。

「俺もまぁ、まだ目は冴えてるしな。折角だから少し話すか」

 常は、流石に諦めて1人で眠るようにしている。戦闘も絡むような危険な依頼を、睡眠不足で請けるわけにもいかないだろう。
 だが、明日の仕事は、交渉や情報収集をするものばかりだった。切った張ったがないと分かっている時は、少し夜更かしとなっても彼と共に起きていることも多い。

 ここまでしてやる義理はないだろうだとか、何故こんなに気に掛けているのだろうだとか、冷静な自分が問いを投げるが、仕方があるまい。それはきっと性分と──それよりもっと醜くてどうしようもない何か。
 この少年が早く悪夢から解き放たれるように。そんな願いは、果たして本当に彼のためのものなのだろうか。ヴァンは、そうして密やかに自嘲する。

「……お前には、何があったんだろうな。いや、そんなことは、別にいいか」

 首を振って、視線を正面の壁に向ける。
 ぽつ、と言葉を紡いだ。

「好きな食いもんとかあるか? 余裕があれば買ってきてやるし、リクエストがあるなら遠慮せず言えよ。まぁ、余裕なんざねえんだが……多少ならなんとかなるだろ」

「俺はスイーツが食いてえな……顔に似合わねえとか言うなよ? 別に良いだろうが、男がショートケーキ食ってたって。糖蜜かかってキラキラしてるタルトだって、女子供だけのものじゃねえだろ」

「有名店のは当然美味いんだが、高いんだよな……。首都に《アンダルシア》って店があって、学生の頃は小遣いやらでしょっちゅう買ってたが、あれもまぁ値が張ったな。それに見合う価値はあるけどな」

「今の侘しい財布じゃ、そうそう買いにも……いや、月に1つ……いや2つ……? それなら節約を徹底した日々のご褒美っつーことでなんとか……?」

「そもそも毎日の飯がなぁ……腹を膨らませながら節約とか、両立できるわけがねえだろ……。というか、野菜って炒める以外に何すりゃいいんだ。煮込む、とかか? 後は茹でる?」

「こんなことなら、もう少し料理も勉強しておくべきだったか……後悔先に立たずってやつだな。グダグダ言わずに、今からなんとか覚えろってか。分かってるよ」

 ぽつ、ぽつ、と一方的に話し続ける。こんな漫談にも、随分と慣れてきた。

 ふと振り向く。少年は、常に遠くを見つめている。
 しかし、今日は違った。彼はなんだかじっと、けれどぼんやりと、ヴァンの方へと視線を向けていた。話の区切りで止めていた言葉が、更に詰まる。そういえば、先も夕食の時にこちらを見ていたか──

「お前、は…………」

 何を話せば良いのか、途端に分からなくなった。「漫談に慣れた」なんてとんだお笑い種だ。
 やはり食事に何か不満があるのだろうか。これはその無言の訴えなのだろうか。問おうと思ったが、なんだかそれも違う気がする。

 悩んで、こちらを見ている彼の闇に濁った瞳を見つめた。しばらくの間そうしていて、それでも視線を逸らさないままの少年に、思わず眉が下がったのを自覚した。
 ハハ、と乾いた笑いが出る。先に視線を逸らしたのは、ヴァンの方だった。

「…………夜って、長いよな。想像してるより、ずっと長い。さっさと明けろって思えば思うほど、朝が遠くに行っちまう気がする」

 窓の外は暗い。月は目を凝らせば見えるほどの細い光だけを放っていて、それはあまりに頼りがなかった。
 が、なんだか詮の無いことを口走った気がする。少年の目が未だに逸らされていないことが気配で分かるから、どうにもむず痒かった。ガシガシと頭を掻きながら立ち上がって、大股で窓の方へと向かう。

「まぁそれはそれとして、今日は日中晴れてたし星が綺麗なんじゃねえか──」

 残念ながら星は見えなかった。曇り空だ。夕方はあれだけ雲一つなかったくせに。
 何故だか今回は素直にヴァンの後ろをついて来ていた少年は、窓の外の真っ暗な空を見上げて、そしてなんだか物言いたげにこちらを見つめてきた。彼のここまで雄弁な眼差しを、ヴァンは初めて見た。

 けれど彼はそのまま、再び外へと目を向けた。夜闇に呑まれた灰色の雲が覆い隠し、その狭間から僅かな月光だけを零す空を、見た。
 ヴァンもその隣でずっと、夜半の天穹を眺めていた。

「…………早く明ければ良いのにな」

 やがて空は白み始めるのだろう。分厚い雲の向こう、太陽はその影しか見えなくても。彼は誰時、暁は、2人を置き去りにしながらもいつだって平等に訪れるのだから。










「朝飯はどうするかな……夜通し起きてたからか、いつになく腹が減った気がするな」

 冷蔵庫から取り出した昨日の残りのキャベツを、とりあえず何かしらするとして。3日前に買った半額の食パンもまだ残っていたから、これが主食で良いだろう。

「賞味期限が今日までだからってことで安くしてもらったんだが、まだ食える、よな。……食えなくなるのは消費期限のやつだよな? なぁ、お前分かるか?」

 いつもの通り一方的に話し掛けながら、宿に備え付けられていたトースターにパンをセットする。

「にしても、お前って呼ぶのもそろそろ変な感じだな。呼ばれたい名前とかあるか? 別に本名じゃなくてもいいぜ。……って、“手続き”するならそもそも名前が必要、か」

 何か勝手につけてやるべきだろうか。とはいえ名付けというのは中々に責任が重すぎる気がする。自分はそこまで変なセンスをしていないと思っているが、犬猫にすら名を付けたことが無いなら、客観的な評価も皆無である。
 とりあえず、考えるのは後にして……キャベツは千切りにしてサラダにするとしようか。ドレッシングなどという洒落たものなど無いが、醤油をかけておけば大体どうにでもなる。まな板を置いて、包丁に手を伸ばす。

 が、それは叶わなかった。
 いつの間にか、音もなく背後に迫っていた少年の右手が、ヴァンより早くそれを取ったからだ。

「っ──!」

 包丁を握った彼に、身構える。油断をした──その右手を掴んで抑えるか、いや、それよりも左手を犠牲にしてでも突き出される刃を封じてから制圧した方が、確実か。

 そんな思考は無駄に終わった。少年の握りしめた刃は、迷いなく憐れな葉物野菜へと向けられたからだ。
 彼はシンクに転がったままだったキャベツをひっくり返してまな板に置くと、包丁の刃元をその葉の芯へと突き立てた。そしてそれを一度置くと、器用な指先で薄い葉を剥がしていく。忽ち、まな板の上には破れず綺麗なものが重ねられていった。
 続けて少年は、コンロの上にあった鍋に水を注ぎ、火にかける。それが沸くまでの間に、キャベツは洗われ、手際よく一口大のサイズへと切り揃えられていく。芯については千切りにされて、沸騰前の鍋へと一足先に放り込まれていった。

 あまりにも見事な手際に、呆然とその様子を眺めていた。恐ろしい腕前の剣士というのは、料理もできるものなのだろうか。いや、流石に関係ないとは思うが。
 ぐつぐつと煮立ち始めた鍋に、残りのキャベツが投入され、その後は塩やら醤油やら胡椒やらを入れては味見をして、を繰り返す。

「ノア」

 少年がようやく納得したように手を止めた時、聞いたことのない声が部屋に響いた。掠れた、若い男の声だった。そしてそれは、2人きりのこの部屋では誰が発したのかなど、想像に易くて。
 それが、先の“質問”の答えだと気付くのに時間は掛からなかった。呼ばれたい名前はあるのか、その回答だ。

「ノア──。ノア、か…………そうか」

 噛み締めるように、名を呼んだ。彼は返事をするわけでもなく、いつもの通りどこか遠くを見つめていた。それでも構わない、ほんの少しでも少年が、ノアが、俯いていた顔を上げようと思えたのなら、それで──

「ん…………なんだ? 焦げ、臭……」

 ノアが見ている方を振り向く。そこにはトースターがあった。より詳しく述べるなら、想定以上に熱源を当てられすぎたパンの入った、だ。

 その日の朝食は焦げたパンと、キャベツだけの野菜スープだった。なんとも質素で到底腹の膨れる量ではなかったが、それでもなんとなく満たされたのは気のせいではなかっただろう。
 今日の買い出しには、彼も連れて行くことにしようか。無意識に緩んだ口元は、脱・適当な野菜炒めへの期待からだと言い訳ながら、ヴァンは徹夜明けとは思えない軽い身体で今日の仕事へと向かうのだった。



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