chapter 1-3:1 フェリ・アルファイドは駅舎から出ると、ええと、とポシェットに折り畳んで入れていたメモを取り出した。共和国の首都イーディスを訪れるのは、2回目のことである。そのスパンはたった5日と短いものだが、先日はヴァンらの後をつけて歩き回っただけのため、道は知らないも同然だ。 まずは地下鉄かバスに乗って、旧市街に向かわなければ。それさえ出来れば、見知った建物が出迎えてくれると思うのだが──なんせそれが一番の難関だった。故郷とは桁違いの人の波。忙しなく行き交う人混みに、何が正解の道かも分からない。 確か、左の方が地下鉄の駅だったような気がする。間違っていれば探し直せば良いのだと開き直って歩き出したフェリは、ふと目の前に見えた姿に「あっ」と声を上げた。 柔らかそうな濃灰色の髪、黒いコートを纏った華奢だが長身の背中。知らない人の群れの中でも、知り合いの姿は不思議と浮き上がって見える。 「ノアさんっ!」 「えっ、フェリちゃん?」 思わず駆け寄って腰に抱きつくと、奇襲にたたらを踏んだノアは痩身に見合わない体幹で衝撃を殺し、それ以上よろけることもなくこちらを振り返った。 「びっくりしたよ。どうしたの、こんなところで……また依頼?」 「いえ、今回はそうじゃないんです」 実は──と事情を話すと、ノアは片方しか見えない瞳を丸く見開いて「勘当!?」と驚愕を声に出した。 アイーダを弔った翌朝、フェリはクレイユ村でヴァンらに報酬を支払い、そして《クルガ戦士団》の家族達と共に故郷へと帰った。こっぴどく叱られ、無事を祝われ、共に盟友の死を悼み、そして── 「言いつけに背いて勝手に動くのは、戦士としてあまりに未熟だ」と、団の判断が下されたのはつい3日前のことだった。命令に従わずに自分の感情のまま動くなど、“半人前”にすら至らない子供のすることである、と。 そこで、副頭目である父はフェリに言ったのだ。広い世界を学んでくるように、と。 「だから、今回の件の恩を返す意味でも、私も《アークライド解決事務所》のお手伝いをさせてもらいたいと思いまして!」 「あー……なるほど……」 またヴァンがゴネそうだなぁ、と呟いてノアが苦笑する。 もしかして迷惑だっただろうか──途端に不安に襲われたが、次の瞬間にポンと頭の上には彼の手が乗せられて、見上げた先の青年は優しく微笑んでいた。 「ありがとう。ヴァンのこと、どうかよろしくね」 もしも“駄目”とか言われたとしても、それはポーズだから。ああ見えて結構照れ屋で天邪鬼だから、笑顔で押し通したら明日には納得してるよ。 フェリの頭を撫でながら、ノアはくすくすと悪戯っぽく笑って言った。先日からずっと思っていたが、ノアはヴァンのことをよく分かっているし、ヴァンもノアのことをよく見ている。まるで自身の両親のように仲が良いらしい。 ノアは百貨店に買い物に来たのだという。《モンマルト》の新メニューの開発にあたって使えそうな食材の物色に、休暇を利用して訪れたのだとか。 どのみち1人だと道も不安だからと荷物持ちを志願すると、彼は頷いてくれた。「じゃあ行こうか」と告げた後、手に持っていた私物の詰まった鞄をフェリの手からさりげなく取って、ノアが歩き出す。 ……荷物持ちのはずなのに、逆に持たれてしまったのがなんとも遺憾だ。唯一自分の手に残った、ライフルの入ったトランクを抱えて、慌てて彼の後を追った。 「ノア君、この前の柚子はどうだった? ……って、その子は?」 「ヴァンの新しい助手の、フェリちゃんです。 柚子なんですけれど、継続しての入荷って可能そうですか? 次回の限定メニューとしてビクトルさんに推そうと思って──」 建物の中に入ってすぐのところに構える食材店に真っ直ぐ向かったノアは、店員の女性と楽しげに言葉を交わす。紹介の時に頭を一度下げたが、それ以外はなんとも置いてけぼりの心地で、フェリは2人の会話をじっと聞いていた。 「思った以上に色々なものに合うんですよね。東方風の羊羹は勿論、チーズケーキにもパウンドケーキにも使えましたし……」 「毎日柚子スイーツで、ヴァンさんは飽きてないかい?」 「今は大丈夫ですけれど、そのうち遠い目はするかもしれませんね。……いや、甘味なら案外大丈夫か……?」 他にも、完熟の時期になればジャムにしてモーニングのトーストに添えたりもできることや、ジャムは飲み物に入れるのも美味しいこと。今の時期の柚子は唐辛子と混ぜて薬味にしても良いこと。 蕎麦の薬味にも柚子の皮が香り付けになって良かったとか(帰り際に蕎麦粉を買っていたのは見ていたが、この数日のうちに既に蕎麦打ちをしたというのは少し驚きだ)、今度は柚子塩も作ってみるつもりだとか──よく分からないが、随分と話に花が咲いている。 「フェリちゃんは柚子、食べたことある?」 「はぇっ!? あ、いえ、ないです!」 「ちょうど今日は、柚子を使ったスープにしようと思ってたんだ。良かったら味見してみてね」 突然話を振られた驚きで声が裏返ったが、特に突っ込まれることは無かった。頷いて応えると、ノアもにっこりと笑って頷く。 そして彼は、手早く南瓜や甘薯、栗、無花果といった旬の食材や、カボスやすだちといった柚子と比べるための柑橘類を数点ずつ手に取ったのだった。 他にも数種類のハーブやスパイスを検分して購入し、2人は百貨店を後にした。フェリの手には比較的大きめの紙袋が渡されたが、中身のほとんどが乾き物だったりするようで、そこまでの重量を感じない。 ノアが持っている青果の入った袋も受け取ろうと口を開きかけるが、「その袋は嵩張るから、持ってもらえて助かるよ」と先手を打たれてしまうと言葉に詰まる。さすが、やり手だ。 そのまま彼の後ろについていき、停留所にちょうど良いタイミングでやって来たバスに乗り込む。車内には仕事帰りの人が多くいたが、運良く2人掛けの席が空いていたためそこに並んで掛けた。 「柚子って、果物ですよね? 果物をスープにするって珍しい気がします」 「香り付けに少し使う程度なんだけどね。具の鶏団子に刻んだ皮を入れてみたり、ちょっと果汁を搾ったり」 よく分からないけれど美味しそうだ。そろそろ夕食の時間が近づいていることもあり、何だかお腹が空いてきた。 「といっても初めて作るからなぁ……どこまで美味しくできるか分からないけど」 スープとなると、ビストロで働いているノアにとってはかなり簡単な料理ではないかと思うが。素朴な疑問を口にすると、彼は「全然そんなことないよ」と首を振った。 「食材選びに火の入れ方、煮込む時間も材料に合わせた調味料の分量も……どれだけ模索しても終わらないくらいに奥深いんだよね、スープ作りって」 徹底的に研究し尽くして、いつかゼムリア大陸で一番美味しいスープを作ってみせる、と語るノアに、フェリはパチパチと拍手を送った。 この熱い語り口になんだか既視感を覚えると思えば、ヴァンが導力車について語っていたのと同じだった。とりあえず詳しいことは分からないが、美味しいスープができた時にはぜひ食べさせてほしいと思う。 と、ふと視線を感じて顔を上げる。言葉を止めたノアが、先の楽しげな様子とは打って変わった神妙な表情でフェリのことを見つめていた。 振り向かれると思わなかったのか、彼は少しだけ視線を惑わせた。そして困ったように笑う。 「フェリちゃん……元気?」 意図を汲み取ることは容易い。彼らと別れた日、フェリは真っ赤に泣き腫らした目で挨拶をした。そしてそれは、たった4日前の出来事なのだから、心配されるのも当然だ。 けれど──上手く伝わるかは分からないが、フェリは手元のライフルケースを見つめながら、言葉を探した。 「……確かに悲しくって。アイーダさんが消えてしまった時のこと、繰り返し、何度も思い出してしまうんです」 抱きしめていたはずの身体が軽くなったこと。目の奥が熱くて痛くて、それよりも心が締め付けられるように痛かったこと。最後に見えた顔がとても綺麗だったこと。 何をしていても考えてしまう。夢を見るたびにその光景だった。目が覚めるたびに、全部本当に夢なのではないかと疑ってみたりして。紛れもない現実だと思い出して。 その度に、思ったのだ。 「けど、だからこそ。強くならないといけないって思って。成長して、大人になって、今度こそ大切な人を助けたいから」 視線をノアへと戻す。彼の顔が少しだけ苦しそうに見えたので、フェリは笑った。 「なので、私は元気です!」 作ったわけではなく心の底からの笑顔で、その心配を払いたくて。まずはそれが、自分が成長するための第一歩だと思ったのだ。 拙い話を静かに聞いてくれていたノアは、フェリの顔にくしゃりと眦を下げた。そうやって笑い返した彼の優しい手が伸びて、頭を撫でてくれる。 「そっか。カッコいいね、フェリちゃん」 「? カッコいいのはノアさんの方だと思います」 身長も高いし、顔も整ってるし、何よりとても強いし。 ノアの言葉の意味を計りかねてそう伝えるものの、彼は楽しそうに「ありがとね」と言うだけで真意を教えてはくれなかった。が、撫でてもらっているのがとても気分が良いので、気にしないことにしよう。 旧市街の駅でバスを降りて、早速目的地へ──向かう前に、ノアに促されて先に下のビストロに行って上の空き部屋を契約することにした。まずは住居を確定させるのが大事だろうと言われると、確かに納得だ。 ビクトルとポーレット、ユメに改めて挨拶をすると、3人ともが歓迎してくれた。差し出された書類を読んで、分からない部分はノアに説明してもらいつつ理解をしてから、署名欄に名前を書く。拇印も押したなら、無事に契約完了だ。 「これからよろしくね」 微笑んだポーレットに再度お辞儀をして、今度こそ解決事務所に乗り込む時がやってきた。 ノアはああ言っていたが、やはり少しだけ不安は残る。とはいえ、もう家も契約したのだから後戻りはできない。頑張って自分を売り込まなければ。 階段を上がって扉の前に来た時、ノアが「アニエスちゃん?」と呟いた。しーっ、と人差し指を唇に当てた彼に従って耳を澄ませると、確かにアニエスの声が聞こえた。 「……危険だからこそ目を背けられないと、改めて思いました。ですからヴァンさん、これからも宜しくお願いします」 「ま、約束だしそれはいい。──だがアニエス、改めてバイトの方はどうだ?」 なんだか、随分と深刻な話をしているようだ。ノアと顔を見合わせて、そっと聞き耳を立てる。 「俺は警察でも遊撃士でもない。あくまで自分の流儀を貫くだけだ。黒でも白でも、灰色ですらない、黎い狭間の領域で」 なるほど、確かにアニエスは半人前以下とは言え猟兵であるフェリとも違い、正真正銘の一般人だ。どのような理由であれ裏稼業を行うには真っ当すぎて、ヴァンが躊躇うのも分かる気がする。 「お前までそれに染まる必要は──」 「大丈夫です、染まりはしませんから」 けれど、アニエスははっきりとそう言って彼の心配を否定した。普通の世界に生きてきたからこそ、どう関わろうとどれだけ関わろうと、自分には彼のようなことはできないと。 例えばアイーダを介錯することも、だからといってフェリの代わりを引き受けようと決意をすることも── 「でも、そんな貴方を支えて、寄り添うことはできると思うんです。まだまだ半人前ですけど、あくまで私ならではの“色”で」 だからアルバイトは続けていくと宣言したアニエスの声に、隣のノアは微笑んでいる。なんだか満足げな顔に見えるのが不思議だ。 彼女の言葉に、ヴァンは深く溜息を吐いたようだった。不満と言うよりは、呆れの方が近いだろうか。「呑気なんだか、腹が据わってんだか」と呟いているところからすると、いっそ感心も近いのかもしれないと思う。 「《アルマータ》も含めて、何かが動き始めてるのは確かだろう。あの《痩せ狼》が所属する組織だって、ある意味マフィア以上にヤバい連中だ」 「そうみたいですね……」 確か《結社》と呼ばれていたはずだ。組織というからには、彼と同等の人間が多く所属しているのだろう。そう考えると、その目的以前に“ヤバい”というのも納得だ。 とはいえ手を携えて対処するには、CIDは大統領の元での怪しげな動きが不審であり、遊撃士協会はクレイユ村でも敵視されていた通り立ち位置が異なるため中々共に動くことができない。 「こうなってくると、ちょっとばかり手が足りねえな」 ヴァンがぼやく。手が足りない。つまり、人手がいるということだ。その願ってもない言葉に、フェリは喜びのままノアの顔を見上げた。 「らしいです、ノアさん! 丁度よかったですっ……!」 「ふふ、そうだね」 そしてここで、ふと聞き耳の継続が不可であると気が付いた。うっかり大きな声を出してしまったからだ。これが尾行の任務なら、失態もいいところである。 と、なると……とりあえず部屋に入らせてもらうとしよう。確か都会でのマナーは── 「まずはノックをしなくちゃですよね……?」 「うん。3回だよ」 言われた通りに扉を叩いて、開く。ヴァンとアニエスは共に立ち上がって、驚いた顔で出迎えてくれた。 先日の感謝を込めて、改めて心を込めてお辞儀をした。あれだけ世話になったというのにロクなお礼ができなかったことも、少しだけ気になっていたのだ。 気にするな、という風に首を振ったヴァンが「親父さんと一緒に来たのか?」と何気なく尋ねてくる。 なので先程ノアにした通りの説明を2人にも伝える。やはり「勘当」と言うと彼らも目が丸くなったので、驚いた時の反応は誰も皆同じなのだと少し感動した。 そして続けて、お願いだ。視界の端のノアが応援をするように頷いて、微笑んでくれる。列車の中で何度も考えた“売り込み”の文句を唱えるため、フェリはヴァンの顔を気合を入れて見つめ、口を開いた。 「アイーダさんの件、本当にお世話になりました。依頼以上に大切なものを教えてくれて、アイーダさんの望みも叶えてくれて……クルガの戦士にとって“恩”は全身全霊を賭けてお返しするものです。 ですから──どうかわたしも、しばらくお手伝いさせて下さいっ!」 噛まずに言えた! 視界の端のノアは荷物をテーブルの上に置いて空いた手で、小さく拍手をしている。そしてアニエスも、パッと笑顔でフェリに駆け寄ってきた。 「わあっ、もちろん大歓迎ですよ〜!」 「か、勝手に歓迎すんじゃねえ!?」 が、一番の難敵であるヴァンは、アニエスの言葉にも否定を示す。慌てたような困ったような様子だ。 なるほど、これがノアの言っていた「ゴネる」というやつか。ぽんと手を打つ。そしてふと、鞄の中に入れていたものの存在を思い出した。 「あ、忘れてました……! これ、お父さんからヴァンさんにって」 郷を出る時に、裏解決屋に必ず渡すように、と託された手紙だ。何が書いてあるのかは見ていないが、恐らくはこの間のお礼を父からもしてくれているのではないだろうか。 受け取ったヴァンは「冗談じゃねえぞ……」とぶつぶつ呟きつつも、封を切った。その横に近づいていったノアも、横からひょいと中身を覗き見ている。 ドキドキしながらその様子を見守る。隣のアニエスも同じように緊張と期待の面持ちで彼らを見ていた。 次第に、ヴァンの顔が曇る……というか、なんだか青褪めていく。それと比例してノアの方は唇が緩み始めて、そのうち口元を覆って笑いを堪えては堪えきれずに吹き出した。 「笑ってるところ悪いが、お前もだからな……!?」 「いやいや、宛先はヴァンだし。オレなんて眼中にないんじゃないかな」 「こういう奴が一番危険なんだっての……」 何の話だろう? 疑問に思って尋ねるが、「何でもねえっつの!」と怒られてしまった。少し悲しい。 「そもそも住む場所はどうすん──って」 ノアに肩をちょんちょんとつつかれたヴァンが彼の方を振り返る。じゃーん、なんて効果音と共にノアがその目の前に掲げてみせたのは、ちょうど先程書いてきたばかりの賃貸契約書だ。 「だああっ、もうこの上の空き部屋を契約してんのかよっ!? ノア、てめぇまた……!」 「よーし、今日はフェリちゃんの歓迎会だね。腕によりをかけて夕飯を作るとしようかな」 よく分からないが、これは雇ってもらえるということで良いのだろうか? ヴァンはなんだか頭を抱えているままだが、これはつまりポーズということで? だから笑顔で押し通したら良い、ということか? 首を傾げるも、なんとなくノアの“予言”を信じるので正解な気がしたので、まぁ良いかと開き直る。 「アニエスちゃんも、良かったら食べていってね」 「あっ、私お手伝いします!」 「じゃあ、わたしも!」 ありがとう、と笑ったノアに指示されて、まずはアニエスと2人で流しで手を洗う。石鹸の香りが泡と共にふわりと立って、なんだかくすぐったい気持ちだ。 顔を見合わせて笑い合ったアニエスと、手際良く料理を準備していくノア、そして肩を落としながらも食器棚から4つずつ皿とカトラリーを取り出してきたヴァン。そんな温かな人々に囲まれて、フェリの首都での生活はスタートしたのだった。 |