軌跡

chapter 1-2:5 


 ノア・ローレンスは、木太刀を振るいながらもどこか冷静な頭の中で考えていた。屍鬼とはいえ、急所は生身の人間とそう変わらないのだな、と。
 持っているのは真剣ではないし、今の命令オーダーは無力化だが、痛みを感じない存在でも、人体の構造そのものを破壊したなら動きは封じられるらしい。身を屈め、剣を握った猟兵の膝の骨を砕く。
 自重を支える術を失いその場に崩れた猟兵らの中心で息を吸うと、血の匂いではなく腐敗臭が鼻をついた。思わず顔を顰めたくなる、彼らが既に“亡き人”であることを示す匂いだ。

 最後の1人でもあったアイーダが膝をつき、僅かに理性を取り戻した様子で「やるじゃないか」と安堵を滲ませた──が。

「うんうん、いいんじゃない? それじゃあ、最終段階フェイズ、行ってみようか♪」
「てめえ──!!」

 刃の矛先を変えることも、それどころか息を整える間も与えずに、様子を見下ろしていたメルキオルが愉しそうに手を伸ばした。
 翳された指の先にある《ゲネシス》が、一層禍々しく光を放つ。

「ウガアアァァァアアアッッ!?」

 その光に抗えないアイーダが、苦しみ、のたうち、胸を掻きむしるような悲鳴をあげた。
 同時に、足を潰したはずの猟兵達が立ち上がる。砕けた骨は本来あり得ない方向を向いて、両足の高さすら揃っていない。腕もまるで千切れそうなものをぶら下げて、それでも彼らは動いて、歩いて、アイーダの元へと集っていくのだ。

「いやああっ! アイーダさん、アイーダさああん!?」
「っ、フェリちゃん、ダメだ……!」

 影が、どろりと融ける。異様で悍ましい光景に、パニックになったフェリがアイーダに今にも飛び付こうとするのを、その細い腕を掴んで慌てて止めた。

 目の前で、みるみるうちに猟兵達はその姿を変えていく。いつ“どう”動くか分からない以上、目を逸らすわけにはいかない。しかし、この状況はあの青年がいる限り、そして《ゲネシス》がある限り繰り返されるのだろう。
 となると、ヴァンと手分けをして各個対応に当たるしかない。アニエスとフェリを守ることも目的に入れるならば、それは随分と困難を伴うに違いない。

 ……いや、この場は切り抜けられるか。近づいてくる肌を焼くような物騒な気配に、ノアは意識を目の前に集中することに決めた。

「オイオイ──随分とお愉しみじゃねえか?」

 先にも助太刀に現れた《痩せ狼》が、低い声を伴ってメルキオルの立つ石柱へと飛び蹴りを食らわせる。凄まじい内功を伴った攻撃によって柱は粉々に砕け散って、メルキオルは慌てた様子で中央の石柱へと飛び移った。

「よう、《ソーン》の。マフィアの幹部ゴッコも含めて、色々と遊んでるみたいじゃねえか?」
「ふふっ……初めましてかな? 《結社》のNo.[──噂はかねがね聞いているよ」
「喜べ、その噂を味見させてやる」

 村を襲った軍用魔獣を粗方片付けたらしいヴァルターは、その流派の構えを崩さないまま唇を歪めた。サングラス越しでも、その圧は十分に感じられるが、メルキオルはどこ吹く風で飄々とした笑みを潜めはしない。

「《破戒》のオッサンのリクエストだ。少しばかり話を聞かせてもらおうかァ?」
「《執行者》相手は荷が重いかなぁ。今のところ利害は被らないんだし、見逃してくれないかなあって──」
「調子くれてんじゃねえぞコラアッ!!」

 重ねて繰り出されたヴァルターの蹴りが、また石柱を砕く。観光名所になってもおかしくない太古からの遺跡だというのに、あまりに躊躇も容赦もなかった。
 けれどそれによって、頂点に設置されていた《ゲネシス》が宙に放り出されて、間もなく地面に落ちる。登って取りに行く手間が省けたことは、幸運とも言うべきだろうか。

「アハハハッ、僕はこれで失礼するよ! それじゃあ頑張って切り抜けてねー!」
「待てやコラアアアアアア!!!」

 どこまでも悪びれなくメルキオルは笑いながらこの場を去り、一般人ならば腰を抜かしそうな怒号を響かせてヴァルターがその後を追う。

 残されたのは、自分達4人と転がったままの《ゲネシス》、そして──アイーダと猟兵“だったもの”、だ。重なって融けて構築された、血に飢えた怪物と化したもの。額には角、朽ちた肉に似た色の肌に暗緑色の髪を振り乱した、人の身の丈を超える巨大な屍鬼だった。
 唸り声を上げながらにじり寄って来るそれから、まずは距離を取らなければ。掴んだままのフェリの腕を引くものの、彼女は呆然と立ち尽くしたまま動けない。それどころか夢の中にいるかのように呆けた表情で、ふらりと屍鬼へと歩み寄ろうとする。
 そんな姿になったとしても、彼女は、アイーダは微かにフェリの名を呼んでいたから。苦しそうに、それでも彼女を案じるように。

 鈍い光を放つ、武器と一体化した怪物の手が振り上げられた。少女を抑えながらその攻撃を流すことは難しい。
 だから、フェリの背にもう片方の手を回して抱き寄せた。幸い身長だけは人よりあるため、抱きしめてしまえば彼女を攻撃から庇うくらいはできる。その隙に、ヴァンが迎撃の準備を終えるはずだ。

「っ、ノアさ──」

 アニエスの声が途切れる。痛みが襲ってくると覚悟したタイミングで、予想した衝撃は訪れない。代わりに聞こえたのは、硬質なものがぶつかり合う高い音と次の瞬間の地面に何か重たいものが叩きつけられる鈍い音だった。
 すぐ向こうに、先程は居なかったはずのヴァンが倒れていた。そして理解する、彼がノアごとフェリを庇って、倒されたのだと。

「ヴァンさんっ……!?」

 駆け寄った少女たちに続いて、膝をつく。呻く彼の胸を触診したが、この様子だと肋骨が折れていそうだ。

「……大怪我させられねえだろ……信用に関わる……」
「そんなに、オレは信用できないの」

 依頼人やアルバイトに怪我を負わせるわけにはいかないと、彼が責任を感じて無理をすることは分かりきっていた。しかし、そのために所長本人が動けなくなるなど言語道断だ。だからこそノアがその役割を引き受けるのが必然だろう。
 だというのに、ノアでは役者不足だと思ったのだろうか。それとも、この期に及んで「戦うな」「無理をするな」とでも宣うつもりなのか。

 屍鬼が近づいてくる。導力魔法での応急処置をする余裕もないし、先のように加勢が都合良くやってくることも期待はできない。となると、結局はノアが動くしかないのだ。
 人ではない。けれど、生身の人間と大差はないと、先にも感じたのだ。四肢を落として、首を刎ねて、心臓を突き刺したのなら、大抵のものはその動きを止める。人だろうが魔獣だろうが魔物だろうが、変わりはしない。その道筋もハッキリと見えているのなら、容易いことだった。
 護身用とアニエスらに嘯いた太刀に手を掛ける。少し息を吸って鞘から刃を抜こうとすると、それを大きな手が重ねて抑えた。

「ッ……ノア、」

 馬鹿だなぁ、と心の内で嘲笑う。睨みつけることも億劫でその手を振り解こうとした瞬間、

 ──目前の屍鬼の動きが、止まった。足元の草も、風に吹かれたまま靡いてそのまま動かない。まるで時間ごと全てが停止しているかのように。いや、これは実際に停止しているのか。
 向こうに転がったままの《ゲネシス》が淡く光っていた。先の禍々しい輝きとは違う、柔らかい灯火のようだった。同時にアニエスのポシェットの中にあるもう一つも、共鳴して光を放つ。

『あーあ、またボロボロねぇ』

 聞き慣れているようで聞き慣れない、少女の声だった。
 ヴァンの《Xipha》からいつも聞こえているAIの無機質な音が、呆れの感情とも判断できる機微を乗せて放たれると、青い燐光を纏って小さな少女が現れる。《メア》と名付けられたホロウコアに設定されたものと同じ姿。それはただホログラムが表示されるにしては、あまりにリアルで自由に宙を飛んだ。
 これが例の、とノアが状況を認識する頃、ヴァンは厭に慣れたような様子でその少女に「また現れやがったか」と呟いた。

「どっちのお前が本物なんだ?」
『……? アタシはアタシよ? 言ってる意味が分からないんだけど』

 明確なクエスチョンマークを添えた返答は、通常のAIならば返ってきただろう定型文からはかけ離れた、やはり人と遜色ないものだ。
 こちらの様々な疑問も戸惑いも、まあいいやと軽く流して、メアは問う。

『更なる力も解放。ヴァン──どうするの?』

 何のこと──置き去りにされたノアの思考が追いつく前に、短い沈黙を終えたヴァンはあまりに迷いなく言った。

「やれ──!」
『りょーかい、アタシに任せて!』

 ひらり、青い髪をひらめかせながらメアが舞う。どこか愛らしく幼い仕草でブイサインと片目を閉じるポーズを決めた少女は、その人形のように小さな手を掲げて唱えた。

『シャード解放──悪夢を纏えテイク・ザ・グレンデル!』

 足元から渦が立ち昇る。正確には、ヴァンを中心としたその足元から。エーテルの破片が大気を巻き込んで青く眩い光を辺りへ放ち、月に照らされただけの夜に目も開けないほどの輝きを灯した。
 それは次第に全てを巻き込む奔流となって風を起こした。乱れる前髪を咄嗟に抑えると、それを見た目の前の男がどこか困ったように笑った気がした。
 強い光によって堕とされた大きな影が、ヴァンの元へ集う。増した光に思わず目を閉じ──次に顔を上げた時、立っていたのは夜色の装甲を纏った異形だった。

「ヴァンさん……こ、これって……」

 驚きを隠せない様子のフェリの隣で、ノアはゆっくりと立ち上がった。胸元や全身に走る紋、瞳。発光するその青は決して“悪い”ものには感じられないし、立ち方の癖はヴァンのままだ。
 話には聞いていたが、ノアもどこか冷静に分析をする思考の片隅で素直に驚愕はしていた。《グレンデル》と言ったか。嘘ではないと判断していたそれを、実際に目にして漸く真実だと理解できたのだから。

 いつしか時は動き出していた。屍鬼は新たに現れた脅威に威嚇の咆哮をあげ、そして戦闘体勢に入る。一方のヴァンも雄叫びと共にその攻撃を迎え撃つ。そのサポートに入るために突撃銃剣を構えたフェリも戦線に参加していった。
 ノアはその一歩後ろで、アニエスが巻き添えを食わないようにシャードを用いたシールドを貼って成り行きを見守っていた。いざという時には──と木太刀を構えない左の手は、太刀の鞘に添えていたが、……その必要は無いのだろう。
 戦況は拮抗して、そして次第にこちらへと傾いていた。

 フェリが謡う鼓舞の祈りに、ヴァンの拳が鋭さを増す。受け止めきれずによろめいた屍鬼の身体を、霊子の破片を纏った蹴りが貫く。この装甲は、彼の学んだ《崑崙流》を存分に引き出して武器にしていた。
 激しい損傷と共に、屍鬼が断末魔をあげる。勝負はあった、と言えるか。闇が不気味な光と共に弾け、それが消える頃には先の化物の姿は消えて、後には倒れた猟兵たちと石柱に寄り掛かるようにしたアイーダの姿があった。

 今度こそ駆け寄るフェリを止めはしない。肌を粟立たせるような嫌な気配は、もうどこにも無かった。

 そしてヴァンも、影が解けるようにしてその姿を見慣れたものへと戻す。同時に膝を折った身体が地面に打ちつけられる前に抱き止めると、彼は「悪いな」と小さく呟いた。
 慌ててこちらにやってきたアニエスの心配の声には、大したことなさそうに応えているが。随分と消耗しているようだ──骨折もしているのだから、急ぎ手当てをしなければ。

「……って、肋骨……なんか平気そう?」
「治ってるな……」
「何それ……」

 支えた時に障ったのではないかと思ったが、要らぬ心配だったらしい。……それはそれで、別の意味で心配になるが。

「アイーダさん、良かった! 今手当てをしますからっ」
「ハハ……ありがとよ……だが、その必要はないさ……」

 向こうで、フェリの戸惑う声が聞こえた。

 視線を向けた先、倒れていた猟兵たちの身体が光に包まれていく。先の赤い光とは違う神聖さを感じさせるそれは、そのまま天へと昇って行くように宙へと解けていく。
 女神の下へ行くのだろうか。死後の世界があるのかなどは知りもしないが、少なくとも“異なる”存在へと変えられた肉体が、漸く安寧を得ることだけはわかった。

「……遅かったか」
「いや……間に合って良かった」

 知らない声と足音がやってくる。現れたのは、厳しい武具を携えた集団だ。フェリと似たような格好の中東民族の一団と、アイーダらと同様の装甲を着込んだ一団──《クルガ戦士団》と《アイゼンシルト》が駆け付けたのだと、理解できた。
 クルガの戦闘に立つ男を、フェリがお父さんアブと呼ぶ。副頭目らしい男は「まったく馬鹿娘が」と応えたが、突然に家を飛び出した娘の無事を安堵しているようでもある。

「道すがら手紙は読んだ。アイーダ、災難だったな」

 手紙というと、アイーダがランに預けたものだろう。恐らく彼女の想定より早く受取人の手元に届いたそれには、今後の参考になるようにと《アルマータ》との交戦の状況が綴られていたらしい。
 そうして彼女らの死は、ほんの微かな情報を残しただけで、“無駄”ではなかったと受け入れられるのだ。

「《鉄の盾》を掲げる者たちよ。……諸君もご苦労だった」

 消えゆく猟兵に、《アイゼンシルト》の連隊長らは敬礼をする。クルガの一行も、胸に手を当てて彼らの弔いを捧げる。その祈りを受けて、光はますます高く昇った。

 やがて、アイーダの体も同じように光に包まれていく。彼女を抱きしめていたフェリの息が震える。アイーダは既に覚悟を決めていたのだろう、随分と穏やかな表情でこちらに礼を言った。
 最期に妹分と話せる、と。無情と無力を、意図せず突きつけながら。

「ダメだよ、アイーダさん……昔のことを教えてくれるって……」
「アンタが成長すれば、他のヤツからも聞けるだろうさ……そうだね……アタシのもう1人の妹分とか……」
「そんなの知らないっ……! アイーダさんから聞きたいんだよっ!」

 縋るフェリの手を握りながら、アイーダは微笑む。

「……そのためにもフェリ、アンタは成長しなくちゃならない。だから……最後のトドメは、アンタがしとくれ」

 息を呑んだのは、告げられた少女だけではなかった。アニエスが声を漏らし、ヴァンが瞑目する。
 けれど猟兵にとって、それは当然の文化なのだろう。彼女の父親は頷いて「聞き届けるがいい」とフェリを見据えていた。

「お前がこの先も戦士であり続けるなら、必要な儀式だ。《火喰鳥》殿の厚意を無駄にするな」

 ああ、なんて、馬鹿馬鹿しい。

 フェリは戸惑いながらも、言われた通りに短剣を構えてその切っ先をアイーダに向けた。

「フェリちゃん、駄目……!」
「お嬢さん、口出し無用だ」
「見届けられぬならば、目を背けていてもらおう」

 止めようと声を上げたアニエスに、彼らは眉一つも動かさずに言い放つ。

「ど、うして……、……わたし……わたし……」

 剣を持つフェリの手が震えていた。それを周りの大人達は静かに見つめているだけだった。

 おかしい、だろう。彼女はただ、アイーダを救いたいと願っただけなのに。そのために走って、戦って、ひたむきに手を伸ばそうとしただけなのに。なのに、何故そんな少女が大切な人を殺さなければならない。何故、それを強いるのだろう。
 儀式? 厚意? そんなもの、

「オレには関係ない、か」

 だから、殺すのは“ノア”の役割だ。もしも止めようとする者がいるのなら、幼い少女の心を守ることすら許されないのなら、邪魔をするものから全てを斬ってやる。
 太刀を抜こうとした手は、先と同様に──けれど先より少しだけ強い力で、抑えられた。留めたヴァンが、ノアの手を軽く握る。低い声が鼓膜を打つ。

「言ってんだろうが、無理するなって」

 離れた手がノアの肩に置き直されて、ヴァンはそれを支えにするように体重をかけて立ち上がった。そのせいで重心を崩したノアが今度は尻餅をつく羽目になる。
 見上げた彼の表情は、月光の陰になって見えない。けれど硬くて、何か決意をした顔なのだろうと想像ができてしまった。

「子供に背負わせてんじゃねえよ」

 ヴァンはフェリの元へ歩み寄ると、少女の震える細い肩を軽く押し退けた。短剣の切っ先が逸れ、涙を溜めた青い瞳が目の前の男を見つめる。

「こういうのは大人の役割だろ? ……手伝うって依頼もあるしな」

 常は打撃の武器として機能するスタンキャリバーは、一つ機構を動かすとシャードを纏った鋭い刃へと変化する。全く、つくづく便利不要なギミックだ。
 剣はアイーダの胸に吸い込まれるように突き刺された。とす、と呆気なく軽い音が生々しく耳に届く。
 クルガの副頭目はそれを見て、目を伏せて息を吐いた。それはどこか和らいだ──娘に非情なことをさせずに済んだことを安堵する親の眼差しをしていた。猟兵とは、なんとも面倒な生き物らしい。

 アイーダの肉体を取り巻く光が一際勢いを増す。少しずつ溶け出し、質量を失っていくその身体をフェリが掻き抱いた。

「アイーダさん……アイーダさあああん……!」
「甘いねぇ……。……だが急ぐ必要もない……か……」

 少女の小さくて丸い後頭部を撫でながら、アイーダは笑った。たった1週間ほどの地獄から解放された先の虚無へ、大事な仲間達に見守られながら旅立つ喜びと悲しみを滲ませて。

「ありがとう……裏解決屋達にお嬢ちゃん……」

 意識が遠ざかっているのだろう、アイーダの言葉が途切れていく。掠れて、宙に消えていく。

「さよならだ、フェリ……連隊長にみんな……ゼノにレオ……フィー……も……。ルトガー団長……やっとアタシも……アンタのもと……へ……」

 夢を見るような辿々しい祈りを残して、彼女の身体が解けた。昇華して、夜空を星よりも眩く照らして消える。それは悲しいほどに美しい景色だった。

「ううううぅ……、……わあああああああああっ……!」

 手の平を擦り抜けた光に、縋りついても叶わなかったフェリの慟哭が響く。佇んで見守るヴァンは、一体何を考えているのだろう。彼の握りしめた撃剣を見つめるだけで、なんだか吐き気がした。

 死者は何も語らない。どれだけ焦がれて願っても声は届かないし聞こえもしない。ただ、懐古と悔恨が形取った幻想だけが遺されるだけなのだ。
 そして人を殺すということは、そんな無へと人を替えることを指す。一つの命が終わる瞬間を自らの手で作って、その苦痛と憎悪と後悔を受け止める行為を言うのだ。
 彼の手の平は、それを握りしめるにはあまりに優しすぎる。幾ら裏稼業だと割り切ろうが、それは決して変わらない真実だった。

 少女の泣き声が夜の静寂に木霊する。
 最後の煌めきも消えて、頂点に昇った月だけが青白く朧ろに世界を見下ろしていた。



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