軌跡

chapter 1-2:3 


 アニエス・クローデルと同行者達は、情報整理を行うため本日の宿泊先に備えられたテーブルを囲んでいた。

 《アイゼンシルト》の中隊がこの村を訪れていることは確かだ。そして、アイーダが何度か目撃されていることからして、現時点でもこの周辺で野営をしているだろうことも。
 しかし、隊長がたった1人で村に戻っていることは不自然だった。他のメンバーと別行動を取っている可能性については、作戦行動中でもない限り分ける意味がないからないだろうと、猟兵のフェリも断言している。

 雑貨屋では大量のワイヤーを購入し、打って変わって食糧は一切補給されていない。村で食事をした形跡もなければ、農作物を盗む可能性、ミラに困っている可能性もない。
 工房で購入したものは、ガソリンだ。それも、在庫として店にあったものを根こそぎ買い占めたらしい。内燃機関が主流だった頃ならば定期的な補充が必要なものではあるが、一流の猟兵が現在もそんな旧型の機械を運用しているとは思えないことからして、それを大量に買ったというのも不可解な点だ。

 狼型魔獣の異変も含めて、これらを線で繋ぐ“理由”があるのだろう。けれどそれを紐解くピースが足りない。それを補うのは、恐らく──
 ──この依頼を引き受ける際に《ゲネシス》が反応した理由も、現時点では分かっていないままだ。しかし、“何かしら”で関わっているのだろう。きっと、随分と深い所で、この謎の根幹部分として。根拠もないのに、確信していた。

 不意に、視界の端に映っていた濃灰の髪が揺れた。左隣に座っていたノアが、音も無く立ち上がったのだ。不思議に思って様子を窺うと、彼は常の穏やかな笑みを潜め、静かに廊下へと繋がる扉を見つめている。
 不思議に思って声を掛けようとした時、コン、とノックの音がした。

「あら……?」

 夕食の準備ができたから、宿の人が呼びに来てくれたのだろうか。ノアはその足音にいち早く気が付いていたのかもしれない。
 一番扉に近い自分が出るべきだろうと席を立ったアニエスは、突然鋭く発せられた「離れてろ!!」というヴァンの声に驚いて足を止める。

「っ……この気配──!」

 息を詰めたフェリが武器を構えた様子からしても、今現在“何か”異常事態が起こっていることは、察することができた。けれど、その理由を窺い知ることはできない。戸惑いに、緊張の糸を張り詰めた3人の顔を順に比べ見る。
 そうしているうちに、すぐ背後の扉の向こうから声が聞こえた。低い男の声──それは、まるで獣が唸るような獰猛さを感じるものだった。

「良い反応だ、裏解決屋。他の奴らも見所ありそうじゃねえか?」

 バタン、と大袈裟な音を立てて扉が開かれる。そのまま断りもなく室内に入ってきたのは、驚くほど大柄な男だった。サングラスをかけ、黒い革ジャンを身に付けたその姿は、やはりアニエスが普通に暮らしていた時には関わるはずがなかっただろう身の上の人物だと、容易に推測させる。
 ヴァンが随分と強張った顔を顰めた。そんな反応など興味がないかのように、男はこちらを振り返って、まるで気安く口を開く。

「よう、嬢ちゃんたち。俺はヴァルターってモンだ。そこのアークライド先生には前に依頼した時に世話になってなァ」
「そ、そうなんですか……。あの、バイト助手のアニエスと──」

 裏解決屋の元依頼人という言葉には、しっくり来る。確かに裏稼業に携わっていそうな風貌の人物だったから。
 そう思って挨拶をしようと一歩近づこうとした瞬間、「アニエスさん、下がって!」と隣のフェリに咎められる。アサルトソードの砲口を向けられた男──ヴァルターは、決して驚くこともなく愉しげにその唇を吊り上げた。

「クルガのヒヨッコか。面白い“ツレ”が増えてんじゃねえか」

 “増えている”というのはどういうことだろうか。ヴァンが連れていると言えば……と思考を回す余裕は無かった。フェリを検分するように見たヴァルターが、言葉を続けたからだ。

「ガタイに筋力は足りねえが、眼に天性のバネはありそうだ。──そんな豆鉄砲が通じると思い込んでるのは、頂けねえがなァ?」

 アニエスでも、理解できた。これが所謂“殺気”というものであると。身体が硬直し、一瞬で冷や汗が滲む。サングラス越しの鋭い目が逸らされない限り、息すらもできないのではないかと自覚する。
 同じようにフェリも息を飲み込んで、触れていた細い腕が微かに震えているのが分かった。

 と、途端にその圧力が薄らいだ。目が逸らさなかったはずの男の姿が、黒いコートの背中によって遮られたからだ。
 アニエスらをまるで庇うようにして立ったノアは、言葉を発することなくやはり静かに佇んでいた。普段通りの後ろ姿、なのにどこか肌がピリピリと焼けるような緊張感を覚える。木太刀に掛けられていた彼の手がそっと離れ──ほんの一拍の間の後に護身用の太刀へと向かうのをアニエスが認めた時、

「ノア、止めろ」

静かに一つ、ヴァンが声を掛けた。

 自身の名を呼んだ男に視線を遣って、青年は何か言いたげに小さく口を開き、けれど結局言葉は発することなく息だけを小さく吐いた。
 その手が武具から離れ、横顔が幾分和らいだいつもの優しげなものに変化した時、「へぇ」と感嘆をしたのはヴァルターだ。

「随分としっかり躾けたもんだな」

 何の話だろう。この場ではあまりに唐突な言葉の意図は理解できなかったが、ヴァンとノアのどちらもがどこか不愉快なように顔を顰めていた。

「……そのくらいにしとけや、《痩せ狼》。人の部屋に無断で入ってオラつくのは止めてもらおうか。
 一体、何をしに現れやがった?」
「ちょっとした野暮用でさっき村に着いたばかりなんだが。入口に見覚えのある車があったから、あの時の詫びがてら挨拶に来ただけだ」

 ノアの背に遮られてその姿は見えないが、低い声は飄々としながらも確かな音圧を伴ってアニエスの鼓膜を震わせる。

「ついでと言っちゃなんだが、“依頼”でも頼もうと思ってなァ」
「……アンタの依頼は二度と受けねえよ。野暮用ってのも興味はねえ。とっとと出て行ってもらおうか」

 そんな男に対峙するヴァンの声も低くて、普段とは違う敵対心を露わにした言葉は地を這うように部屋の中に響いている。
 2人がやり取りをする中、チラ、とノアがこちらを振り返った。硬直したままのアニエスとフェリに、彼は眦を下げたいつもの微笑みを向ける……恐らくは、安心させようとしてくれているのだろう。実際柔らかなその雰囲気は、体感していたこの空気を少しばかり軽くしたような気がした。

 ヴァルターは不意に、「若造を見なかったか?」と尋ねてきた。ヴァンが興味ないと切り捨てたはずの“野暮用”の話だ。

「ナヨっとした、ミント髪のヤツだ」

 そして挙げられた特徴は、あまりにも覚えがありすぎるものである。思わずフェリと顔を見合わせると、その反応に、男は「なるほど」と察しを得た様子で頷く。

「答えるつもりはねえが──何者だ?」
「ちょっとした追いかけっこをしてる最中でなァ」

 まるで子供の遊びのような言葉で示されたが、そんな可愛らしいものではないのだろう。不敵に吊り上がった唇で、自分もこの宿に泊まるつもりだと言ったヴァルターが、やはり気安い口調でヴァンを振り返った。

「てめえらの邪魔をするつもりもねえ……何なら手を貸すぜ?」
「いらねえっつの!」

 警戒した様子を見せていたヴァンだが、こうやって怒る姿だけを取ってみると、親しい友人関係のようにも見えるから不思議だ。これが裏解決屋の人脈というものなのだろうか──

 どことなく明後日に思考を飛ばしたアニエスの視界の向こうで、ヴァルターが踵を返して部屋の出口へと歩みを進める。大股で数歩進んだだけで廊下に出た男は、扉に手をかけた時にふとこちらへと視線を寄越した。
 こちら、ではなくて、アニエス達の前に立つノアの方へ。そしてやはり笑みは崩さないままに、声を掛ける。

「今の生活に飽きたらいつでも声掛けろや。最近“空席”も増えてきたし、上もスカウトしたがってたぜ」
「……それはどうも。心の片隅に留めておくよ」

 静かに応えたノアも、常の微笑みの表情のままのようだった。穏やかな言葉の応酬に眉を顰めたのは、会話の外にいたもう1人の男だったが、特段何を言うこともなかった。

 ヴァルターはそれを最後に扉を閉める。黒革の光沢を負った広い背中が見えなくなった瞬間、隣のフェリが身体の力を抜いてその場にへたり込んだので、アニエスは慌てて彼女の小さな身体を支えた。
 少女は「ちょっと気が抜けただけで、」とアニエスの心配に力無く眉を下げると、そのままヴァンに向けて男の正体を問う。フェリと同様に脱力した様子で溜息を吐いていたヴァンは、困ったように頭を掻いた。

「知らない方が身のためだ。特にアニエス、お前なんかはな」
「それって……裏の世界の人っていう事ですよね?」
「裏も裏、一番ヤバイ手合いだ」

 マフィアにも猟兵にも動じていなかった彼が言うなら、余程なのだろう。こうして裏解決屋で働く以上は、恐らくそのうちアニエスも関わることになるのだろうと思うが。

「ま、危険なオッサンだが、とりあえずは放置しといていい。そろそろ7時だ。俺たちは夕食にするぞ」

 結局詳細は話さないままに、ヴァンは時計を確認して言い放った。

「下でヤツが飲んでそうだが構うもんか。厄払いにキャラメルソースがけのアイスクリームガレットも付けてやる!」

 甘味で厄を払えるとは思わないけれど、野暮なことは言わずに頷く。苦笑したノアが短く「食べ過ぎないようにね」と釘を刺して、扉を開きアニエス達をエスコートをしてくれた。

 階下の食事処は、既に多くの人で賑わっている。4人で大きなテーブルを囲むと、次々と運ばれてくる豪華な食事にフェリはキラキラと目を輝かせた。
 和気藹々と言葉を交わして食事を取る中、少し離れた窓際でグラスを傾けるヴァルターが見える。どこか威圧感のある“怖い人”といった風貌の彼は、どうしても気になって仕方がない。そして、気になりだすと中々料理を味わう余裕も無くなってくる気がする。
 ──と、隣に座っていたノアが、まるでアニエスの視界を遮るように姿勢を変えた。

「アニエスちゃん、もう少しサラダ食べる?」
「あっ、はい」
「よし。じゃあ特別に、粉チーズが沢山かかっているところをよそってあげよう」

 伸ばした手でアニエスの前の器を取って、彼は言葉の通りに残っていたシーザーサラダをその中に取り分けてくれる。その姿に隠れて、ヴァルターの巨躯はアニエスの目に映らなくなった。

 不思議な人だ、としみじみと感じる。前髪で隠した右頬からたまに覗く傷跡のようなものから始まって、自分とたった4歳しか離れていないとは思えないほどの落ち着いた性質。ヴァンと何故一緒に暮らしているのか経緯も気になる一方で、曰く“ヤバイ手合い”から“スカウト”だなんて言葉を掛けられて。
 出会って間もないのだから、知らないのは当然だ。けれど、それを差し引いても謎の多い人物だと思った。こうして今のように気配りができる優しい彼は、微笑みの向こうに何を秘めているのだろうか。ふとそんなことを考えた。

 夕食を終える頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。家々の光や街灯に照らされるおかげで散策するには支障のない薄闇の中、遠くの草むらから虫の鳴く声が聞こえる。

 宿を出たところですれ違ったのは、首都からやって来た遊撃士だった。イーディス内での解決業務中に何度か会ったことのある、C級遊撃士のアルヴィスという青年だ。どうやら例の狼型魔獣の件について依頼を受け、調査に訪れたらしい。
 彼はヴァンを随分と目の敵にしているようで、少しばかり理不尽な気もするが。けれど、何が起こるか分からない現在の状況では、戦力としてはアテになるだろうと、ヴァン本人はなんてことない顔だ。
 こういう扱いに随分慣れているのだと、それも少し心配ではあるが。

 それはともかくとして、アイーダが目撃されたのは、いずれも夜だった。この時間帯の痕跡に、今の寄せ集めの情報を繋いで紐解く鍵があるはずだ。
 アルヴィスには不審な行動はするなと釘を刺されたが、調査には真っ当な理由があるのである。気にせずに聞き込みに回ることにする。

 工房、商店、教会……村中を回る中で訪れた村長宅で、老夫妻からは逆に問いを投げかけられた。なんでも、集会所を貸しているバスの乗客で、1人見当たらない人物がいる、と。
 それは曰く、洒落た雰囲気のお兄さん──自ずと結びつくのは、ヴァルターが探していると言った例の青年だった。

「今頃ケツまくって村から逃げてるかもしれねえな」
「……かもしれません。死をもたらす獣が迫ってるなら」

 自身を追っている人物がいると知って、慌てて姿をくらましたというのなら、まだ納得もいく。
 村長らにはこちらでも探しておくと伝え、ひとまずは家を後にした。

「ねぇ、ヴァン。あのさ──」

 歩き出した前方で、潜めた声でヴァンの名前を呼んだノアが、彼の方に一歩身を寄せた。何かに気が付いたのだろうか、2人だけにしか聞こえない声量で言葉を交わしている。
 と、突然ヴァンの手が伸びて、その指がノアの左頬を抓り始めたから、アニエスは思わずぎょっとしてなんてことなく眺めていた2人を見比べた。

「いひゃい……」
「“そういうの”はやめろって、言ってんだろうが」

 舌足らずに呟いたノアの眉が情けなく下がっているのに対して、ヴァンは整えられたそれを寄せて眉間に皺を作っている。不機嫌そうな声はまるで説教じみていて、“怒られているノアさん”という光景の意外性に、フェリと顔を見合わせた。
 ようやく離された手に、大袈裟に頬をさすって痛がるノアを無視して、ヴァンはさっさと歩き出す。

 謎を繋ぐ不可視の糸は、きっと少しずつ手繰り寄せられているのだろう。けれど、アニエスにはその色を見て取ることができない。
 彼らだけの間に留められたのは、真実の一片だったのだろうか。この事件の謎に迫る欠片か、はたまた──時折憂げに目を伏せる2人の男が垣間見せる素顔の一端だったのか。
 もっとも、それはきっとアニエスらを傷つけるものではないに違いない。あの日、首都の地下遺構でアニエスを庇ってくれたヴァンの背中も、なんてことなく微笑みながら料理を差し出すノアの眼差しも。全て、紛れもない現実なのだから。

 星も少ない薄暗い夜。数歩前を歩くノアが、ふと足を止めて月を見上げた。どこか遠くから運ばれてきた獣の遠吠えが、生温い風と共に髪を撫でていった。



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