軌跡

chapter 1-2:1 


 ヴァン・アークライドは、ハンドルに両の手を添えて運転しながらも、盛大に頭を抱えたい衝動に駆られていた。

「これ、朝ご飯。手軽に摘める方が良いでしょ?」
「わぁ、サンドイッチですね! 可愛い!」
「すごく美味しそうです!」

 取り出されたのは大振りのランチボックスが2つ。後部座席にいる少女達はその片方を受け取って、歓喜の声を上げた。
 女子2人には量が多いのではないかと内心思っていると、「残った分は全部ヴァンが食べてくれるから、無理しないでね」と勝手に残飯処理の役割が与えられた。とはいえ、自分の胃を満たすには彼女らが余した分を食べる必要があるだろうことも確かなため、抗議はしない。

 左隣でもう一つのボックスが開いたのが見える。一口サイズの正方形に切り揃えられたサンドイッチが、その箱の中には詰められていた。
 卵の黄色にハムの桃色。ツナやレタスやトマトなど、なんとも彩りが鮮やかである。軽食とはいえ随分と手が込んでいるのではないだろうか。

「ヴァンはそのまま運転しててね、オレが口に突っ込んでいくから。どの味が良い?」

 視界の端には、苺と生クリームの鮮やかなコントラストが見えている。つまりは特段悩むまでもなく、即決だ。

「フルーツサンド」
「それは食後のデザートだよ」

 じゃあ何のために聞いた、と問いたくなるような切り捨てようで、その手が問答無用で違う味を掴む。ちょうどヴァンの一口分に切り揃えられたそれを開いた口で受け取ると、パンの芳ばしい香りと共に、良い塩梅で混ぜられた卵とマヨネーズの柔らかな酸味が口一杯に広がった。
 アクセントになっている黒胡椒がピリと舌を刺激して、素直に「美味い」と呟いてから、すぐに“そう”じゃないと我に返る。そしてやはり、頭を抱えたくて仕方がなくなるのだ。

 一行がイーディスを発ったのは、朝の6時を少し過ぎた頃のことである。
 丁重な手入れの元で休ませていた導力車をガレージから出し、簡単な荷物を積み込んだ。アニエスやフェリが全くもってこの愛車の素晴らしさに対して理解を示そうとしなかったことについては──まぁひとまず置いておくとして。
 2人に後部座席へ乗り込むよう伝えた時、《モンマルト》の面々が見送りに出て来たのだ。

 眠たそうに目を擦るユメと手を繋ぐポーレットが、にっこりと微笑む。ビクトルは腕を組んで、いつものようにまるで父親のような小言を言った。

「ヴァン、お嬢ちゃんたちにくれぐれも危ないことが無いようにな。ノアも、気をつけて行ってこい」

 が、最後に続いた言葉に、ヴァンは思わず「は?」と到底大家に掛けるべきではないような、素っ頓狂な声を出したのである。
 昨晩、車で食べやすい朝食を用意しておくだとか、そのために早朝から厨房を借りる予定だとか、そういう話は聞いていた。にも拘らず、見送りの並びにその顔が無いことが少し気になってはいたのだ──が。

「はい。突然休ませてもらって、すみません」

 ガチャ、と何かが開く音がして、慌てて振り返る。そこには助手席のドアを開けたノアが、大きなバスケットを片手に立っていた。
 黒のロングコートと首回りにしっかりと巻かれたストール。腰には2本の武器が下げられていて、自然と眉が寄る。それは時折、手配魔獣の討伐を依頼されたヴァンにノアが無理矢理ついてくる時と同じ格好だった。

 ──前々から困っているのだ。何度も咎めている。それなのに、この期に及んでまだ。

「ノア、お前な」
「オレの腕は、君が一番知ってるでしょ?」

 ヴァンにだけ、静かな眼差しが向けられる。左眼も、髪で覆い隠された右の瞳も、どちらともが仄暗い皮膜を張って鈍く輝いていた。

「大丈夫。無理はしないつもりだからさ」
「つもりかよ」
「あはは、言葉の綾だよ。それとも、“オレ”のことなんて信用できない?」

 狡い聞き方をすると思った。是も否も、彼は自身の都合良く“悪い方”へと解釈するのだろう。ヴァンが返すことができるのは、無言だけだ。頭を掻いて、溜息を吐いて、態度だけで不服を示す。
 アニエスとフェリは、広義の降伏をしたヴァンと満足そうに目を細めたノアの間で、戸惑ったように視線を往復させていた。短い応酬が終わったことを察して「えっと……?」と呟いたのは、アニエスだ。

「ノアさんも来てくださる、ということですか?」
「うん。突然だけどよろしくね」

 あまりにも優しい顔で、彼は少女たちに微笑みかけた。先程の自分に対して向けてきた意地の悪い目を思うと、この青年は随分と演技が上手なのだろうと変な感心をしてしまう。
 その“演技”がどちらを指すのか。それとも“どちらとも”が繕ったものでしかないのか。ヴァンは未だに、その境界線を探らないままでいる。

「はい、次はカツサンドだよ」

 早すぎず遅すぎず、ちょうど欲しいと思ったタイミングを測るように運ばれてくるサンドイッチを咀嚼する。横顔に視線を向けると、ノアは助手席でツナサンドを自分の口に放り込んでいるところだった。
 普段ビストロで働いている時とは異なり下されたままの長い髪は、癖がありながらも柔らかくその肩を流れている。常と変わらず下ろされた前髪のせいで表情を見ることは決してできないが、

「知識や想いはきっと、大切な絆を手繰り寄せる手がかりになると思います。だから大丈夫──ヴァンさんとノアさんも居ますし、私も微力ながらお手伝いしますから!」
「アニエスさん……」

 不安げな顔のフェリと、彼女を元気付けるアニエス。その姿をルームミラーを介して見つめる青年の口元には、やはり歳下を慈しむような優しげな笑みが浮かんでいるのだった。

「フェリちゃん、アイーダさんと会えると良いね。……ちゃんと、無事だと良いけど」
「……そうだな」

 高位猟兵団の手練れが消息不明。しかもそこに《ゲネシス》が関わっている。“何か”があるのは、間違いない。ノアも、それを悟ったからこそ同行を決めたのだろう。
 けれどヴァンは、悪い夢に魘された彼が夜中に起き上がって寝室を出ていく虚ろな後ろ姿を知っている。それはたった4日前にも見た姿だった。だから、戦わせるべきではない。──否、単純に“戦わせてはならない”のかもしれないが。
 互いの主張は、互いに解っている。それを譲る気がないことだって。繰り返した攻防は、未だに平行線を辿るだけだ。

 途中で休憩を挟みながらも車を走らせ続けること、5時間。行き交う車は次第にまばらになり、今では対向車線ですれ違うものすらない。窓の外の景色は、いつの間にやら新緑が眩い野原となっていた。
 目的地であるクレイユ村には、後30分もせずに到着するだろう。昼食は現地で気兼ねなくありつくことができそうだ。

 間もなく見えるに違いない建物の影を見通すように向き合っていたフロントガラスの向こう、長閑な田舎道にふと、どうにも景色にそぐわない陰が見えた。

「……ヴァン。あれ──」

 “そちらの気配”に随分と敏いノアが、軽く眉を寄せて呟く。フェリも同様に前方を睨みつけていたなら、その予感は裏付けられる。

 道の端に寄せられるようにして立ち往生していたのは、一つの乗合バスだった。そしてその周りを取り囲むようにして牙を剥く、狼の姿をした魔獣が8体。
 走って振り解きでもすれば良いところだろうが、もしかするとタイヤかエンジンあたりに何か異常でも来しているのかもしれない。なるほど、その修理を行おうとしたところで襲撃を受け、動くに動けなくなったというところか。

 少し手前に導力車を停め、撃剣を手に降りる。
 タダ働きは流儀ではないのだが──とぼやけば、アニエスが慌てたように咎めてきたが。言われずとも、居合わせた以上は放っておくわけにはいかないだろう。

「フェリ。お前さんはどうする?」
「言わずもがな──です」

 導力杖を構えたアニエスの横で、フェリも自身の得物を取り出した。仕掛け刃も備えた機関銃──いわゆるアサルトソードだ。
 少女が持つには随分物騒な、けれどその細い腕でも扱えるように調整を施されているらしい武器を構える姿は、半人前ながらもやはり猟兵だと納得させられる。

 魔獣が8体とて、3人いれば十分相手もできるだろう。こちらに気が付いてにじり寄ってくる狼の姿からは目を逸らさずに、ヴァンは駄目元でまた平行線を一つなぞる。

「ノア。お前は下がってろ」
「ここまで来て、まだそういうこと言うの?」

 分からず屋、と冗談めかして呟いたノアが腰に下げていた武器を抜く。2本のうちの片方、漆黒に塗られた木太刀だった。
 音もなく彼の纏う外套の長い裾が舞ったかと思えば、その峯が最も近い位置にいた獣の急所を的確に殴打する。立ち所に肉薄した動きについて行けるはずの無かった魔獣は、なす術もなく塵となって消え去っていく。
 ノアの初撃が合図となり、フェリとアニエスも動き出した。ヴァンも溜息は吐けども、戦わない理由はない。仕方ないと、前衛で武器を振るうノアの加勢に入り──

 間もなく、魔獣の討伐は成されるのだった。

「ノアさんのその武器は、木刀ですか?」

 まるで本物の刀と同様に慣れた血振りの動作をしていたノアへ、フェリが小首を傾げた。幼くとも猟兵だ。おそらく彼の動きと得物の“不相応”さに、無意識ながらも違和を抱いたのだろう。
 その丸い大きな目に見上げられて、青年はやはりニコリと微笑んだ。

「といっても、実戦用にカスタマイズしてもらってるけどね。七耀石で薄く表面をコーティングしてもらってるから──ほら」
「わぁっ! 宝石みたいにキラキラしてます!」

 陽の光に翳したそれを間近で見たフェリが歓声を上げる。惹かれて近付いたアニエスも、綺麗だと感嘆している。
 実は彫り細工も施してもらってて……と少女達に見せている姿に、そんなことをしていたのか、と心中で思う。ノアが持つ武器をまじまじと見たことなどなかったため、知らなくて当然ではあるのだが。彼が武具に対して洒落た拘りを見せるとは、少し意外だった。

「もう一本は真剣ですか?」
「うん。一応護身用でね、いざという時のために持ち歩いてるんだ」

 下げたままのもう一本に目をやったアニエスに、ノアは「といっても、全然使い慣れてないんだけど」と笑った。いっそ不気味なほどに“下町の料理人”らしく眉を下げて肩を竦めた姿を、ヴァンは少し離れたところから見つめている。
 少なくとも、付いて来てしまったからには仕様がないから、よく様子を見ておく以外にすべき事もない。あの表情が多少とも翳ったなら、怒ろうが喚こうがストップを掛けるだけだ。

 バスから降りてきた運転手と報酬の交渉をすべく、ヴァンは無邪気な少女らに囲まれて笑う青年からようやく目を逸らすのだった。





 ──と、思っていたものの。

「ホースラディッシュ……! いわゆる山わさびだね。これなら蕎麦に添えるのに良いんじゃないかな」

 いや、楽しそうだな。
 翳るどころか、一層活き活きした顔で道端に生える草の側に膝をついた様子に、ヴァンは苦笑した。心なしか彼のテンションが普段より高いように見えるのは、恐らく気のせいではないだろう。

 少しのイレギュラーはあったものの、無事に到着したクレイユ村の宿酒場で昼食をとった一行は、《アイゼンシルト》中隊の情報を集めるために聞き込みを行なっていた。
 その中で出会ったジョバンナという1人の女性が、随分と困り果てていたのだ。曰く「収穫祭に出す予定の蕎麦切りを試作しているが、中々上手く作れない」と。そこで意気揚々と手助けを買って出たのが、首都の老舗ビストロで数年間働いてきた経歴を持つノアである。

 蕎麦切りとは、極東由来の蕎麦粉を練り合わせて作った麺料理だ。首都のサイデン地区に専門の屋台を出す店があるが、まだまだマイナーの部類に入るだろう。彼も今まで作ったことは一度も無いはずだ。
 とは言え、ノアはビクトルもお墨付きのセンスを持つ料理人である。蕎麦切りのレシピの簡単な聞き込みとジョバンナの調理法を照らし合わせ、彼女の調理法の問題点を的確に解決し──さらにホースラディッシュなどの薬味も添えたほぼ完璧な蕎麦切りを、その場で打ってみせたのだった。

「不思議な味ですけど、美味しいですっ! これなら沢山食べられそうです!」
「さすが、首都で専門にやってる人は違うわね……!」
「あはは、そこまで褒められるとなんだか照れるな」

 一口啜った瞬間に、アニエスやフェリ、ジョバンナに加えて厨房を貸し出してくれた村長夫妻が、一斉に目を輝かせる。
 そして掛けられる賞賛の嵐に、彼は言葉の通り照れ臭そうに頬を緩めながら、調理のために結っていた髪を解いた。その姿は、なんの誤魔化しもないノアの素の姿だと、不思議とそう思えた。

 ヴァンを振り返って言外に感想を求める瞳に「美味いな」と一言返すと、彼は少しだけ不満そうに「いつもの食レポはどうしたの」と口を尖らせる。あれはスイーツであるからこそ感動が勝るのであって、別に普段より全ての食事に対して細かな感想を述べているわけではないのだが。
 とはいえ、それも軽口だったらしい。ノアはすぐに視線をジョバンナに向けると、やれ調理法がどうだ薬味がこうだと話を始める。

「これから腕を磨いて、収穫祭にはとびきりの物を振るわせてもらうわ! 良かったらその時には遊びに来てね、ノアさん!」
「はい、ぜひ。楽しみにしていますね」

 今日は試作のために量が少ないため、イーディスに戻った次の昼食には蕎麦切りをリクエストしてガッツリと堪能させてもらおう。「屋台の方が美味しいんじゃないの」とノアはボヤきそうな気もするが、それとはまた別の問題としてもう少し味わいたいと思うのだ。
 それなら早いうちに伝えておいた方が、蕎麦粉の調達にも手間取らずに済むかもしれない。用を済ませてクレイユ村を発つ前にでも、声を掛けるとするか。

 そんな呑気な事を考えながらぼんやりと啜った最後の一口は、わさびの量を誤ったようで。鼻腔を少し過ぎた刺激と共に通り抜けていく。
 どうだってきな臭い村の中、そう平和に帰れるはずがない。穏やかなその“姿”は、いつ見失うかも分からないのだと。まるで、目を醒されるような心地がした。



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