軌跡

chapter 1-1:1 


 ノア・ローレンスが抱く目下の懸念事項といえば、同居人がどうにも厄介な事象に首を突っ込んでいるということだった。
 裏解決屋という仕事柄、彼が危険だったり無謀だったり、そういう業務に身を投じるのは致し方がないとは思う。しかし、“それ”はこれまでの依頼とは随分と毛色が違う──不可思議で異様で奇妙な依頼であった。

 その後結局見ることとなった(見せられた、とも言う)異様に治りの早い傷が、まず一つ目の不可解な事象である。ノアがその包帯を巻き直した時、ガーゼの下にあった傷口には既に新たな肉が盛り上がっており、そこに傷があったことを示す痕が残るだけとなっていた。
 本来は骨にまで届くほどの、酷い切傷だったと聞いた。仮に導力魔法での治癒を試みたとしても、ここまで直ちに回復させることはよほどの使い手でさえ困難に違いない。

 同時に起こった謎の現象についても、ヴァンは話していた。
 彼の使う戦術オーブメントに組み込んだホロウコアの《メア》が実体化して、まるで自由意志を持つかのように話し始めた、とか。それに導かれるようにして、自分の姿が《グレンデル》という化け物のようなものに変身した、とか。
 とりあえず一度は「映画の見過ぎじゃない?」と詰ってはみたものの、その顔を見ている限り冗談ではないと察しはついた。そもそも、ヴァンがそういった仕様もない嘘を吐く性質でないことは、ノアもよく知っている。

 本来なら、“あり得ない”ことだ。
 傷が忽ち治って? 機械がプログラムから外れた意思を持って? まるで特撮映画のように変身して? 馬鹿馬鹿しいと笑って忘れる程度の幻のような与太話。けれど──あり得ないと思っていることすらあり得るのだと、ノアは“非常に”“よく”知っていた。
 だからこそ目を伏せるのだ。彼の周りで、何か良からぬことが起きようとしているのではないかと。彼が取り返しのつかない事態に巻き込まれるのではないか、と。

 ただ、そのことについては決して、依頼人である彼女が悪いと言いたいわけではない。

「えっと、改めまして……。今日からお世話になります、アニエス・クローデルです。どうぞよろしくお願いします」

 街歩きをするとどうにも目立つ名門校の制服ではなく、上品ながらも差し色のピンクが可愛らしい私服を纏ったアニエスが、《アークライド解決事務所》のアルバイトとして勤務を開始したのは、あれから10日後のことだ。
 礼儀正しく45度まで下がった頭に「そんなに堅くならなくて良いよ」と笑いかける。以前に考えていた通り半日の休みを貰ったノアは、はにかみながら頷いた少女を早速流し場へと案内する。

 ティーセットはこの棚に。ソーサーについては以前うっかり1枚割ってしまったから数が合っていないため、多人数での来客時は気をつけるように。
 コーヒー豆や紅茶はその一つ上の棚に置いてある。シュガーポットも隣に置いてあるため、必要に応じて使ってくれて構わない。ミルクポットも同様に、適宜冷蔵庫に入っている牛乳を入れてくれたら良い。
 お茶請けとして出す用として、市販のクッキーやラングドシャを常備している。が、稀にどこかの所長が勝手に摘んだせいで減っている場合があるため、在庫は定期的に確認しておいて欲しい。
 棚や引き出しを一つ一つ開けながら行うノアの説明を、アニエスは熱心に聞いている。稀に飛んでくる質問に回答しながら、本当に真面目な子だと微笑ましく思った。

 そうしたやり取りの合間に、アニエスはこうして解決事務所に依頼に来た理由をポツポツと話し始めた。
 ヴァンと共有している内容を、ノアも知っておいた方が良いかもしれない──これからもまた、ヴァンを危険な目に巻き込んでしまうかもしれないから、と。

 彼女が先日持ってきた依頼は「曾祖父の形見の導力器の捜索」だった。ただの失せ物の捜索というわけではなく、伝聞として知っていた遺品を探し出したい。噂では古物商から盗難されたというそれを、取り戻したかったのだという。
 確かにその話だけ聞いたなら、ヴァンが遊撃士に依頼するよう言いたくなるのも分かる。彼女のような純粋な学生は、本来裏稼業には関わるべきではない。そんな、彼の気遣い故だ。
 けれど賢明な学生だからこそ、彼女は何の考えもなく裏解決屋を頼ることを決めたわけではない。「警察や遊撃士協会には内密に」──そんな前提があったからこそ、本来話しやすいはずのそれらを避けて、少女はわざわざこの旧市街を訪れたのだ。

 ならば何故、そうやって身を潜めなければならないのか? という疑問には、アニエスの曾祖父の素性が関わってくる。
 C・エプスタイン博士。導力革命の父と呼ばれた天才的な技術者。約50年前に彼が導力技術の実用化を果たしたことで、ゼムリア大陸の文明は目まぐるしいまでの発展を遂げた。その死後も、博士が立ち上げた《エプスタイン財団》や弟子である三高弟らが、新たな技術開発をもってして人々の暮らしを支えていることからして、彼がどれほどまでの影響力を持った人物であるかが分かる。
 そんな男が取った養女──の孫が、アニエスだった。彼女は、表舞台から姿を消した祖母が持ち出していた曾祖父の手記とその想いを、家族の1人として大切に思い、読んでいたのだという。

 家族や弟子達との何気なくも温かいやり取りが記されていたその手記は、しかしながら、ある不可解な一文で締められていた。

 『どうか《オクト=ゲネシス》を120*年までに取り戻して欲しい。さもなければ、全てが終わる』

 ただの妄想だと、笑うこともできたかもしれない。けれど、そう断じてしまうには、その手記はアニエスにとってかけがえのない宝物だった。
 だからこそ、曾祖父の名前の偉大さや祖母の事情などを鑑みて、彼女は裏解決屋の元を訪れた。事を表沙汰にせず、調査を行うために。
 そして《ゲネシス》──曾祖父の形見であり、不可思議な現象を引き起こしたきっかけとなった品であり、解決屋によって無事に彼女の手元にやってきた懐中時計型の導力器──が実在していると分かった以上、少女は目を逸らさずに、その“遺言”に向き合おうと思ったのだ。

 そんな真っ直ぐな想いを澄んだ瞳でぶつけられて、ノアはヴァンが絆されるのも分かるなぁ、と思う。厄介な依頼なのだと察せようが、どうにも手を貸してあげたくなってしまうのも仕方があるまい。
 加えて言うなら、1人でなんとかしようと動いて危険な目に遭われても困るという、歳上としての庇護の観点も兼ねているのだろう。その“是非”はともかくとして、彼はどうだって面倒見が良い男なのである。

「…………と、一通りはこんな感じかな」

 キッチン周辺に限らず、事務所兼自宅内にある棚や設備は説明し終えた。ひとまず、伝える必要があることは全て話し終えることができただろう。

「オレは基本的に下で働いてるからね。分からないことがあったら、いつでも聞きにきてくれたら良いよ」
「分かりました。ご丁寧にありがとうございます」
「いやいや、こちらこそ丁寧にありがとね」

 ペコリと下げられた頭に礼を返していると、自席で大人しく書類整理をしていたはずの所長が「何やってんだ……?」と呆れたように呟いた。

 時計を見る。その針はまもなく11時を指そうとしているところだ。ビストロが最も忙しなくなる昼時には入れそうで良かったと思う。仮に入れなかったとしてビクトルが怒るとは思えないのが、それでも。
 一度私室の方に入って調理服に着替え、再び事務所の方へ戻る。後回しにしていた髪を括っていると、少し考えたような表情だったアニエスが漸く口を開いた。

「ノアさんとヴァンさんは、本当に一緒に暮らしてるんですよね」

 しみじみと改めて問うような言葉に、思わず「え?」と疑問符が口から転がる。

「……あ、もしかして、上に住んでると思ってた?」

 ビストロ《モンマルト》の上はアパルトメントとなっていて、2階にあるこの事務所の他にも数件の貸部屋を有している。とはいえ、他は今のところ全て空室ではあるのだが。
 そんな中で成人の男2人が同居しているというのは、確かに少し珍しい部類には入るのかもしれない。当然あらゆる理由でそういった例はあるだろうと分かっているが──アニエスが不思議に思うのも、何らおかしな事ではないだろう。

「オレとしては、その方がヴァンも広々と部屋が使えるんじゃないかと思ったんだけどね」
「別に良いだろ。2部屋も借りる余裕だってないしな」
「そう。それでなお家賃を滞納してるんだもんなぁ……」

 ノアが《モンマルト》で働いた給金の一部と相殺する形で家賃は減額してもらっている。が、光熱費や食費、加えて解決屋の仕事に用いる武具代を含めた諸経費を引いていくと赤字なのだ。
 もう少し依頼料を増額した方が良いのではないかとか、趣味にかけるミラを減らせとか、思うところは山ほどある。しかし基本的に養われている立場としては、あまり強く言うこともできまい。
 もう少し勤務のシフトを増やすべきか、それとも“別の”仕事に手を出してみるべきか。少なくとも、後者についてはヴァンに猛反対を受けるだろうが──と、いうところまで考えて息を吐く。

 とにもかくにも、この状況は様々な事情を鑑みた上で致し方がないものなのだ。そのうちどうにかするべきだと、ノアとしては当然思っているが。
 肩を竦めてみせると、アニエスはなんだか余計に複雑そうな表情になってしまった。どうしたのだろう、と問うより先にヴァンが「行かなくていいのか?」と時計を指したため、ハッと我に返る。

「じゃあ、オレはこれで。と言っても、昼を食べに来るならすぐに会うわけだけど」
「少し業務の説明をしてからだな」
「了解。美味しいもの作って待ってるよ」

 頷いたアニエスにノアも頷き返して、扉を開く。1分もかからない出勤時間を経てビストロに入ると、早めの昼食をとるためにやって来た人々で席は随分と賑わいつつあった。
 たちまち飛びついてきたユメを抱き止めつつ、ビクトルとポーレットに挨拶をして厨房に入る。まずはしっかりと手を洗って、ようやく勤務開始だ。

 30分ほど経った頃に、ヴァンとアニエスが業務を開始する前の腹ごしらえに訪ねてきた。今日の日替わりランチであるデミグラスハンバーグをしっかりと味わって食べてくれた2人は、ポーレットがサービスで淹れた食後のコーヒーを傾けながら、これからの予定を話している様子だ。
 《アークライド解決事務所》の依頼は、基本的に各街区の掲示板を通じて請け負っている。「4spg」と、暗号めいているようで実に単純な「for Spriggan」という合言葉をもって仕事をして欲しいとメッセージを伝えるのだ。
 というわけで、彼の仕事はその掲示板を見て回らないことには始まらない。恐らく今からそうやって依頼を受けにいくのだろうが──アニエスも初日なのだから、全ての地区を回るだなんて無茶をさせることはないだろう。

 程なくして、2人は席を立った。

「アニエスちゃんを危険な目に遭わせないようにね」
「分かってるっての」

 2人分のランチ代を会計するヴァンへ前回同様に釘を刺しつつ、その背後で自分の財布を手にソワソワしているアニエスにゆるりと首を振って笑うと、彼女は申し訳なさそうに肩を縮めてから会釈をした。本当に、一から十まで礼儀正しい少女である。
 トレイの上に置いた釣り銭を受け取ったヴァンが小銭入れにそれを入れて、顔を上げた。

「じゃあな」
「はいはい」

 短く言葉を交わして歩き出した所長の背中を、アニエスが慌てて追い掛ける。

「気をつけてね、アニエスちゃん」

 掛けた言葉に振り返った彼女が真面目に返事をしたのを、ひらりと手を振って見送って。ノアはレジを閉めて、2人が使っていたテーブルの片付けに入る。
 ソースまで綺麗に食べてもらえた皿を重ね、その上にライスの皿を、更に上にはスープ皿を。まとめて一旦厨房に運び入れてから、先に席を拭いて次の客に備えようと布巾を手に取った。

 ふぅ、と一つだけ息を吐く。
 未だに晴れない懸念を、濡れた布がなぞるテーブルの木目のように、ゆっくり辿る。

 古物商から盗まれた《オクト=ゲネシス》を探した先の一件には、とある組織が絡んでいたらしい。
 《アルマータ》──共和国内において、この数年で急速に勢力を拡大し始めたマフィア。その名を下手に口にするのも“危険”だと、いっそ《A》と伏せられた名の方が通っているほどの厄介な組織だと、ノアも噂程度に耳に挟んだことがある。
 違法薬物の取引、人身売買、重犯罪者の雇い入れ。そういった裏社会で敷かれた一線をも越えて暗躍する一方で、その実態は政府や遊撃士達にも掴めていない。調査を行なっていた内偵が消息を絶つ事態にまで陥っていることも、その“謎”を保つのに一役買っているのだろう。

 ──……まぁ、こればかりは“オレ”がどんな感想を持つべきでも無いんだろうけど。

 正体を掴み切れない、得体の知れない恐怖。直接は聞いたことがないけれどどこかで聞いた“かつての事件”が勝手に頭の中で結びついたから、静かに回路を遮断する。

 それでも、感想を持たずとも思うことはある。
 実態も掴めないけれど確かに危険な“何”か──ノアもよく“知る”ような異質が、地を這うように存在しているのなら。そんなものが関わる依頼に手を出そうとするのなら。
 “毒”を以て毒を制す。そういうことを、選択肢の一つとして考えるべきなのではないか、と。

 というわけで、これは決してアニエスが悪いと言いたいわけではない。

「解ってるくせに対策を打とうとしないヴァンが悪いんだよな」

 所長とアルバイトの2人が通り抜けた後、扉は閉まって外からの光を遮る。眩い光の残像を瞼に焼き付けながら、思い当たらなかったはずはないくせに、決してそれをノアに告げはしなかった男の、無駄で馬鹿らしい気遣いを嘲笑した。
 とはいえ、一番“悪い”のは結局自分なのだけど。矛先はすぐに自嘲に代わる。振り払うようにして、ノアは視界の端でオーダーを求めた客へ接客用の顔を向けながら、早々に思考を仕事の方へと切り換えるのだ。



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