軌跡

◇reminiscence:月痕と瘡蓋 


 ヴァン・アークライドは、後部座席から聞こえてきた衣擦れの音に神経を集中させた。が、その後は呻き声すら聞こえない。微かに身じろぐ気配だけがあって、すぐに止まる。
 ハンドルを握る手が一瞬緊張に固まり、そして解ける。“それ”は──森で拾った痩せ細った少年は、目を覚ましてなお、動きを見せることはなかった。

 雨の路肩に車を寄せて、後ろを覗く。車内は暗かったが、路を照らすヘッドライトが光源となって、仄かに視界を拓いていた。
 振り返った先で少年は座席に転がされたままだ。ぐちゃぐちゃの髪が顔を覆っているその隙間で、若草色の目だけが茫洋と開かれ宙を見つめている。
 大人しいものだった。森の中で異様な殺気を纏っていた獣と同じ存在だとは、到底思えない。先のは夢か、幻か。否、現実として少年はそこに“居”た。虚ろな表情のままで、心をどこかに置き去りにしたかのように。

「目が覚めたか」

 声を掛けたとて、その瞳は焦点を結ばない。何を見つめているのだろう──失ったものを遠い過去の闇に見つけようとしているのか。詮無いことを考えて、やめる。
 返事が無くとも気にはしなかった。淡々と、ヴァンは少年に言葉を投げる。

「悪いが、拘束させてもらってるぜ。暴れられたら困るんでな」

 意識を戻した少年がどのような行動に出るか分からなかったため、縛り上げた縄はそのままだ。念入りに動きを封じた腕は、多少の気を遣ったとはいえ痛みを与えているかもしれない。

「大人しくしてるなら、降りる時には解いてやるよ──って、もう十分すぎるくらいだろうが」

 微動だにしないその姿に一方的に語って聞かせて、特段反応も期待せずにヴァンは視線を前方に戻す。
 ハンドルを握り直してアクセルを踏むと、導力車は再び雨に緩んだ道を滑るように走り出した。タイヤの駆ける音が、エンジンの音が、夜の静寂に響く。換気のために開いた窓の外からは、そろそろ止もうとする雨の滴が名残りのように大地を叩く音が聞こえていた。

 確認はしていないが、後部座席は随分と汚れてしまっただろうと思う。足とするためにレンタカーを借りたのは彼を運ぶにあたって功を奏したわけだが、弁償代を支払わされることはきっと避けられない。少なく見積もったとしても、現在の預金を思い返すと憂鬱に息が漏れる。
 とはいえ──報酬の50万ミラが入って、必要経費として領収書を切ることもできたなら、何を心配する必要はないはずだったが。

 人形よりも生気を感じられない翠の瞳が、静かに瞬きだけを重ねている。存外長い睫毛が一定の間隔で震えるのをルームミラー越しに眺めながら、ヴァンはあともう一つだけ、息を吐いたのだった。





 この数日の拠点とするために、アンカーヴィルに宿を取っていた。指定されている駐車場に導力車を停める。夜も更け、辺りに人は居なかった。
 車から降りると、静けさが余計に耳につく。後方のドアを開いて「起き上がれるか」と尋ねた自分の声が、暗闇の中でいやに大きく聞こえた。

 少年は動かない。耳が聴こえないというわけではないと思うが──たっぷり10秒数えて、それでも動かない彼を抱き起こそうかと手を伸ばしかけたところで、ぴくりと、その肩が動いた。
 後ろ手に拘束されているせいで手を付いて支えにすることが叶わない少年は、ずり、とシートを背中で擦るようにして身を起こす。

「腕、解くか?」

 問いかけたところで、返答がないことは分かっている。また、もしこの場に第三者がいたのなら、ヴァンの問い掛けに首を横に振っただろうことも想像がついた。
 けれどこの場には誰もいない。少年も応えはしない。それならば自分が思うようにするだけだ、と自ら厳重に固めたはずの腕を解放してやる。
 この少年に今更暴れるだけの“心”など残っていないことを、誰よりもヴァン自身が理解できた。そしてやはり、ナイフで切り離した縄が落ちても少年は何の動きを見せることがなかった。

 外に人も居なければ、屋内に入っても誰も居ない。夜遅くまで受付に入っていることが多い女将も、流石にこの時間になると眠りについたようだ。
 こんな泥だらけの男ともっと酷いもので汚れた少年が入ってきたなら、きっと嫌な顔をされたに違いないため、好都合である。うっかり見つからぬうちにと、そそくさと部屋へ向かう。
 ゾッとするほどに従順にヴァンについて来ていた少年は、解錠の後開いた部屋に入るよう促すと、素直に足を踏み入れた。それだけで足を止めて立ち尽くす少年に続き、すぐ扉を閉める。

 さて、ひとまず拠点に帰ってきたわけだが……

「…………まずは風呂と着替えだな」

 少年の姿を眺め見て、ヴァンは呟く。少なくともその状態で過ごせとは言えないし、自分自身も彼ほどではなくとも部屋で寛ぐには程遠い格好をしていた。
 こっちだ、と備え付けのシャワールームの方へ細い身体を押し込んだ。本当ならば広い湯船にでも浸からせた方が良いだろうが、致し方がない。

「今着てるもんは、捨ててもいいな? まぁ、残すって言われたところで、血糊が酷いから着れたもんじゃねぇだろうが」

 問題ないならここに入れろ、と口を開いた布袋をその足元に置く。回収したら、燃やして処理すべきだろう。灰になるまで燃やして、証拠を消し去らなければ──少年が“何者”であるかの証明を、不可能にしなければならない。
 袋を数秒間見つめて、少年は手を動かす。特段の躊躇いもない様子で、赤黒く貼り付いた布を一枚ずつ剥ぎ取っていく。

「────……」

 そして露わになった肌に、ヴァンは言葉を失った。まず見えた骨が浮き出た腰に、その背に、そしてあまりに細い首筋に。まるで巣食うように、紅く盛り上がった痕が浮き出ていた。
 淡々と脱ぎ捨て一糸纏わぬ姿になったその右腕も、紅い。彼が元々持つ青白い皮膚との対比が、それを更に悪目立ちさせているのだろうと冷静に思う。

「……火傷、か?」

 あまりに酷いケロイドに、無意識に眉が寄っていた。
 そもそもの火傷自体は、軽いとは言えずとも死に至るほどの重症ではなかっただろう。が、それが一切手当てされずに放置されていたなら──この、顔を顰めたくなるほどの痛々しい赤さも、納得ができてしまう。
 傷による発熱も痛みも意に介さず、長い間放浪をしていたのだろう。場合によっては感染症の危険だってあったろうに、よく無事だったものだ。

 余程の事情があるとは想像できるが、あまりの無茶に思わず呆れを含んだ息を吐く。見ず知らずの少年に向けるには、過ぎた同情だと分かっていた。

「必要があるなら、医者の紹介もできるが──」

 ヴァンはそこで言葉を切った。否、切らざるを得なかった。

 少年が振り向く。顔を上げて、虚ろだったはずのその目が初めてヴァンを真っ直ぐに捉えている。
 束になっていた前髪が、固いままに揺れて彼の頬を撫でていた。まともな光の元に晒されたその顔は、整っていると表現するに申し分なく──だからこそ、右の額から頬にかけてを覆う醜悪な火傷の痕が、あまりにも目立って仕方がない。
 感情は、読めない。濁った夜の底のように、絶望と憎悪と悲嘆と寂寞が、渾沌となって混ざり合い瞳に薄い膜を張っているのだと思った。それが取り払われたなら、きっと美しい橄欖石のような色をしているはずなのに。

 察せたのは、少年にとってこの傷は決して“治せない”ものであるということだけだ。そして、今この場においてその事実だけが何よりも重要だった。
 迂闊だった、と自省する。

「──悪かった」

 だから、見つめ返しながら素直に呟いた。

「触れられたくない“傷”の一つや二つ、誰にでもある」

 少年の表情は決して変わらない。ヴァンの言葉を理解しているのかどうかなど、本当は何一つ分からない。たった今こちらを見つめたのだって、偶然かもしれない。けれど、

「ほら、さっさと洗うぞ。その髪を解すには、かなり骨も折れそうだしな」

 声が届いていることは確実だ。ゆったりと、シャワーを振り返った姿に思う。
 ヴァンも泥汚れの激しい衣服を全て脱ぎ捨てて、シャワースペースへと足を向ける。その傷跡には障らないよう気を遣って、けれど導くために立ち止まったままの少年の背中を押した。

 ハンドルを回すと途端に降り注ぐ水はあまりに冷たくて、先程までの雨を思い出させた。が、すぐに温かな湯へと変わり、凍えていた身体が解けていく。
 透明な水が、2人が纏った汚れに濁って足元を流れていく。それが渦を成しながら排水口に吸い込まれるのを少年は見つめていて、ヴァンはそんな彼の後頭部に備え付けのシャンプーを泡立てた自身の手を伸ばす。
 様々なものがこびりついて絡まった長髪はやはり中々手強い。すぐに変色してへたる泡を叱咤する気持ちで洗い続けて、たっぷり30分以上は経ったのではないだろうか。

 ボトルいっぱいに満たされていたはずの洗髪剤が空になる頃には、少年の髪は手櫛にも引っ掛かることないほど素直に流れるようになっていた。彼の髪が白み始めた夜のような灰色をしていたことを、ヴァンはその時初めて知った。
 お陰で自分の髪を洗うシャンプーが無くなってしまったことに気がついて苦笑する。まぁいいかとボディーソープで髪を洗い始めたヴァンの傍らで、少年は流れていく水の渦をまるで縋るように見つめ続けているのだった。



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