chapter 0:2 ノア・ローレンスは、扉の前で立ち尽くしていた。手に持ったトレイの上にはリゾットの皿が2つ。立ち上る白い湯気が、生温い夜風に頼りなく揺れていた。 2時間ほど前に眠気を訴えたユメを連れてポーレットが一足先に家に帰って、明日に向けた大まかな仕込みも終えた頃合いでビクトルにも上がるように伝えた。 誰も居なくなって静まり返った閉店後のモンマルトは、初夏にも拘らずどこか寒さを感じさせる。厨房のみに点けた導力灯の下で最後の片付けをしながら、ノアは朝に出掛けたきりの同居人とその依頼人の帰りを待っていた。 時刻は22時を回ったところだ。流石にここまで遅いということは、食事は外で取ったのだろうと思いながら──数時間前に切って準備だけ整えていた食材達に目を落とす。 いつまでもこうしていたって仕方がない。細かい仕込みすらも終わらせてしまった今、長居も無用だと呟いた。どうせ帰る場所は同じ部屋なのだから、ここに居る必要もないのだ。 スライスした玉葱やベーコンを分けていたバットにラップを掛けて、冷蔵庫へと向かう。これは明日の朝食にでも使おうか、と、考えた時。 「やれやれ……夕飯を食い損ねたな」 不明瞭ではあったが、聞き慣れた男の声が確かにそんな事を宣うのが聞こえた。店の2階に続く階段を登る2人分の気配に、結局冷蔵庫は開かれることはなく、バットも調理台の上へと戻される。 サクッと、簡単に作って持っていこう。元よりそのつもりだったのだから、面倒を感じることはない。 「それよりどうか、手当てをさせてください。救急箱、ありますか……?」 フライパンを火にかけて、次第に聞こえなくなった声に息を一つ、吐く。少女の心配そうな声と言葉が、どうやらノアの忠言は無為と化したらしいと証明していた。 出来上がったリゾットを皿に盛り付け、手早く片付けを済ませて店の戸締りを終える。調理服は脱がないまま階段を上がりドアノブに片手を掛けたところで、ノアは動きを止めたのだ。 揺れるリゾットの湯気と共に、部屋の中から聞こえて来る会話を邪魔しないよう、気配を殺す。まるで立ち聞きのようだと、立ち尽くす自身の姿を客観視した。 「せめてものお返しに、こちらでアルバイトさせてください!」 その直前に何があったのかなどわからないが──依頼人であったはずの少女は、確かにそう言った。 「見たところお忙しそうですし、色々と散らかっていますし……書類整理は慣れていますから、お力になれると思うんです……!」 確かに、ヴァンの使っているデスク周りは書類が積まれて随分と酷いことになっている。守秘義務もあるだろうからノアは一切触れないようにしていたが、実のところ気になっていたのだ。 事務所と雇用関係にあるなら、その辺りの問題はクリアだろう。同居人としては正直、願ってもない話である。 と、ノアが勝手に有り難がっている一方で、雇い主側は今頃、彼女の申し出をどう断るべきか頭を悩ませているのだろうと想像がついた。 恐らく今頃、少し間抜けに半開きになった口のまま、急展開に置いていかれそうな脳味噌を必死に回して、少女の申し出に否を唱えるための言葉を探しているに違いない。 「あ、バイト代はお気持ち程度で! タダでも結構ですし!」 「そ、そんな訳に行くか! 労働基準法ってモンが……──じゃなくて!」 ただ、多分その足掻きは無駄になるのだと思う。こうして話を聞いている限り、少女は随分と相手を自分のペースに巻き込むのが得意のようだから。 そしてそれ以前に──懸命で真摯な想いを、決死の覚悟に満ちた願いを、あの男はその性格上どうしても無碍にできるはずなどないのだ。 つまりノアの視点から見ると、このやり取りは出来レースも同然だった。だからこそ、割り込んで入るのは躊躇われる。下手に話を逸らす口実を作って、逃げ道を与えてやるのも可笑しな話だろう。 「そもそも前提がおかしい! なんでいきなりお前をバイトで雇う話になるんだ!?」 「だってヴァンさん、追加料金は絶対に受け取らないって……。それが流儀なのは分かりましたけど、学生にも譲れないものはあるんです」 「………………」 はっきりと、ヴァンは返す言葉を失った。思ったより陥落が早かったが──つまり、もう話は決したということである。 「あ、早速タルトを切りますね! もちろんヴァンさんは特大で──」 「スイーツだけでお腹を膨らませるのは、ちょっと身体に良くないんじゃないかな?」 というわけで真面目な話も終わったようだから。今度こそ躊躇いなく、ノアは居候先への扉を開いた。 2人だったはずの空間への突然の訪問者に、冷蔵庫の前に立っていた少女が驚きの視線をこちらに向け、間もなく慌てたように頭を下げる。そう畏まらなくても良いのに。笑顔で返しながら扉を閉めた音の向こうで、ヴァンが「遅かったんだな」と何やら含みのある言い方をした。 「晩ご飯と呼ぶには軽めで簡単なものだけど。君も、良かったら食べる?」 「良いんですか?」 「勿論。むしろ食べてくれると嬉しいよ」 ソファに掛けたままのヴァンの前とその向かいにプレースマットを敷き、皿とカトラリーを並べていく。手伝いを申し出た少女にコップの位置を伝えたところ、その意図を正しく汲んで水を淹れて並べてくれた。 いただきます、と丁寧な挨拶に思わず笑顔が漏れる。本当に礼儀正しい、良いところのお嬢さんのようだ。そんな少女がこんな怪しい事務所でアルバイトをするなんて、世の中何が起こるか分からないものである。 ──さて、2人が食べている今のうちに、こちらは例のタルトの準備しておくとしよう。ついでに、食後のコーヒーも。 台所に立ったノアは、豆を仕舞った棚に手を伸ばした。彼女のアルバイトの初日には、ビストロの方に半日ほど休みをもらって、こういったキッチン周りの物の在処を教える時間を取らせてもらおうか、と。ぼんやりと考えた。 食後のデザートを終えて、学生寮までの送りを固辞した少女──アニエスをせめて地下鉄の駅まで送り届けたヴァンは、部屋に戻るなり開口一番に言った。 「──立ち聞きしてただろ」 「なんで?」 使った皿を流しで洗いながら、ノアは問う。 「リゾット。表面が少し冷えてたからな」 「ああ、そう。なるほどね」 推理と呼ぶには単純すぎる解答に頷きつつ、全ての泡を洗い流し終えて、蛇口を捻る。流れていた水音が止まると、部屋の中は忽ち静まり返った。 とはいえ、特段やましい事があるわけでもないし、自覚だってあった。素直に頷いて肯定の意を示してやると、ヴァンはなんだか苦々しさを含ませた溜息を吐いた。 そのまま再びソファに座る姿を、ノアは濡れた手を拭きながら横目で見遣る。 「助け舟、出して欲しかった?」 「……お陰でバイトなんざ雇う羽目になったじゃねえか」 「オレとしては、反対する要素なんてなかったからね」 書類の整理もしてくれるらしいし、来客対応だって彼女がいたなら美味しいお茶を淹れてしっかりこなしてくれる事だろう。 ヴァンだって、連れがいたなら危険な橋を渡ることは多少躊躇うようにもなるだろうから安心で──いや、その件については今日も怪我をしているところからして、抑止力にはなり得ないのかもしれないが。 「ああいう子が君の側に居てくれること、勝手かもしれないけど、オレはすごく良いことだと思うよ」 すぐ近くに居て、その傷を心から心配する人がいるのは大切なことだと思う。たった今、腕に巻かれている白い包帯が、導力灯を受けていやに眩しく感じられた。 きっとアニエスは、ヴァンにとって良い“きっかけ”になるのだろう。優しげながらも芯の強い様子を思い返して、勝手に期待を寄せる。 纏ったままだったコックコートのボタンを外す。中は薄っぺらいインナー1枚だから、流石に他人の前で晒すにはだらしのない姿である。が、部屋には既にヴァンしか居ないため、遠慮は必要無い。 雑に脱ぎ捨て、丸めて腕に抱えて。ノアもソファに腰掛けた。今日もほぼ一日中立って仕事をしていたから、疲れたなと思う。ぐ、と伸びをしたところで、隣に居るヴァンがこちらを見ていることに気がついた。 「……何?」 どこか咎めるような目だ。まるで雄弁なようでいて意図の掴めない視線に、思わず顔を歪めて視線を返す。 ヴァンは口を開いた。凪いでいるようでやはりどこか苦々しげな、更に言えば苛立ちのような感情を含んだ声だった。 「“だからオレはそろそろ用済み”、とでも言う気か」 見つめ返して、くす、と。笑みが漏れる。それがどこか彼を馬鹿にするような色を含んでしまったことは、否めない。 「考えすぎだよ」 ノアは決して言葉には出さなかった。だから、その推測は先回りして放たれた以上、ただの推測の域を出ることはない。 裏で、心で、言葉の延長線上で。ノアが何を呟いたとしても、だ。 目の前の眉が寄る。元々仏頂面で、どちらかと言えば怖い印象を与えがちな顔が、余計にとっつき難くなっているなと思った。 今度はそれが本当に面白くて、吹き出す。そうやって笑われたことは、ヴァンにとって先の挑発よりも腹立たしく感じられるかもしれないと思いながら、真一文字の口角に両の手を伸ばす。 身を乗り出して、頬を解すように指で触れて無理矢理笑みの形に矯正してやりながら、その深い夜のような青い瞳を覗き込んだ。 「──君が大切な人と結ばれるまでは、まだオレにも“別の使い道”があるだろうしね」 わざとらしく絡めてみせた艶っぽい視線の意図を、今まで何度も繰り返したやり取りによって知っているヴァンは正しく汲んだらしい。 目の前の眉間の皺が、また深くなった。それでも、硬い掌はインナー越しにノアの腰を撫でた。薄い布の下にひっそりと潜り込んで、背骨をなぞる。馬鹿みたいだな、と心中呟いた嘲笑は一体どちらに向けたものだっただろう。 明確な“目的”を伴って肌に触れたそれを受け入れて、同じような意味をもって指先を首筋に滑らせ──ようとしたところで、ノアは「あ」と呟いて、その動きを止めた。 そして慌てて、ヴァンの手の甲をキュッと抓って静止を促す。 「痛え」 「よく考えたら君、怪我してるんだ。安静にさせないと駄目だった」 随分と目立つというのに、包帯の存在をすっかり頭から消してしまっていたとは思わぬ失態だ。肩を竦めながら身体を起こす。 元の位置に座り直して、ごめん、と口を開こうとした時。するりと先と同じ手が再び腰に添えられて、身体が跳ねた。驚いてその行為の主を見遣ると、彼は変わらぬ仏頂面のままでノアを見つめていた。 「……ちょっと? だから、怪我」 「もうほとんど治ってる。見るか?」 「え。何そのオカルト……見ないけど」 「見ねぇのかよ」 見せたかったの? というツッコミはひとまず横に置いて、ノアは頭を掻いた。仕方がない。そもそも、先に仕掛けて煽ったのは自分なのだ。責任は取るべきだろう。 「治ってても治ってなくても、無理はしないに越したことないよ。……オレがやるから、ヴァンは大人しくしてて」 一度離した距離を再び詰めて、今度はゼロへと更に近付ける。 そのまま、何か言いたげな喉元に唇で触れて、微かに漂う砂糖の甘い香りに目を伏せた。 ──居合わせた流れで一緒に食べることになった、《アンダルシア》の限定ケーキ。 絶妙な甘さのタルト生地に敷き詰められた黒イチジクが、ふんだんに使われた糖蜜でコーティングされてキラキラと輝いて。見た目も味も、一種の芸術品と言うべき品だった。 生地は、どういった配合で作られているのだろう。あのサクサクとした食感を生み出すために、どんな工夫が凝らされたのだろう。 中のクリームは。使用した生クリームの産地はどこだろう。イチジクの下処理は。それを彩る糖蜜は、どの種類の砂糖を使って、どんな配分の元で生成されたのだろう、なんて。 考えても、無駄だ。 きっと何度食べたって、ノアに同じ味のタルトは作れない。あんな風に美味しいと舌鼓を打てるようなものなど、作れるはずがない。ノアが作ることができるのは、せいぜい良く真似てみただけの偽物に過ぎない。 満足いくものが食べたいのなら。その胸を幸せで膨らませたいのなら。直接店に赴いて、本物を食べに行くのが一番の近道に決まっている。紛い物に期待せず、一瞬の飢えだけやり過ごして。残りは早く捨て去って、正しいものを求めればいい。 静かに身体を寄せながら、決して混じり合いはしない体温を肌で感じながら。ノアはいつだって──彼が躊躇わずにそうする日が来ることを、心の底から願っていた。 |