軌跡

chapter 0:1 


 アニエス・クローデルがこの旧市街にやって来たのは、今日が初めてのことだ。
 普段降りることのない地下鉄の駅は、見慣れたものと同じ色の壁や床で構成されているからこそ、改札や階段の場所の差異が、どことなく新鮮で、それでいて妙な感覚になる。

 まるで日常が非日常に転じたような。物語のように異世界に迷い込んだかのような。そんな、落ち着かない感覚だ。
 ──なんて、実際、非日常に足を踏み入れようとしていることは確かなのだけれど。

 “アークライド解決事務所”
 “イーディス8区 5丁目21番地3-201号”

 メモに連ねた文字は、一つの住所を示している。それは、警察や遊撃士協会に相談しにくい──所謂非合法的な依頼を引き受ける『裏解決屋』という職を生業にする人物の、拠点だった。
 同じように人の相談事を聞き入れ対応をするとしても、先の2つとは違う。その名の通り“裏”の稼業。たとえ同級生とはどこか異なる家庭環境にあるとしても、今まで普通に生きてきたアニエスとは、全く縁がないはずの界隈だ。
 非日常、否それ以上に危ない橋を渡ろうとしているのではないか、などということが思考を過らないでもないが。それでも、足を止める理由にはならなかった。古びて壊れかけた吊り橋だろうが、対岸へ渡る事を望むのならそれは確かな頼りに他ならないのだから。

 あちこちに散らばる番地の表示を探して、時には通りすがりの子供に尋ねたりして、ようやく行き着いた住所にあったのは《モンマルト》と書かれたビストロだった。
 赤煉瓦造りの壁、木製の扉や嵌められた窓枠。いずれも長い年月を経たのだと一目で分かるような、古びながらも落ち着いた風格を漂わせている。初めて訪れるはずなのに、どこか懐かしさを感じさせる。そんな、雰囲気の良い店だ。

 店の横に、上階へと続く階段が備えられている。住所から見て、ここの2階が目的地であるはずだ。が、少し信じ難い気もする。このような店の上に、裏稼業の人物が居を構えているだなんて──

「あら、お客さんですか?」

 柔らかな声は、確かに自分に向けられていた。
 振り返った先にはエプロンを身につけた女性の姿があって、アニエスはたちまち彼女を目の前のビストロと結び付けて判断した。

「モーニング、まだやってますよ。それとも……2階の事務所にご用かしら?」

 朝食をとりにきたわけではなくて……と断りの言葉を考えていた思考は、女性の言葉に止まる。
 2階の事務所。本当に、この上が“そう”なのか。と、メモを掴んだ指に少しの力が入った。頷いて、念のための確認を、と「こちらが“アークライド”さんの?」とその名を呼ぶと、女性の桃色の髪が首肯によって揺れる。

「ええ。モーニングを済ませたばかりだから、まだ出かけてないんじゃないと思うけれど……あら」

 トン、トン、と微かな靴音に、その視線が移った。階段の方から、誰かが降りて来る。

 それは黒いタートルネックのインナーシャツ姿の青年だ。白い上着のようなものを左肩に引っ掛けた彼は、濃灰色の長髪を一つに束ねながら最後の一段を踏み終えた時、ちょうど目の前で話をしていたアニエス達の視線に気が付いたらしい。
 彼の若草色の左目が、アニエスを捉える。右目の方は前髪に隠れて顔の半分ごと見えないが、それでなお整っていると分かる顔立ちだ。

「ノア君、ちょうど良いところに。ヴァンさん、もう出掛けちゃったかしら?」
「いや、食休みとか言って怠けてますよ。……ええと、ごめんね、こんな見苦しい格好で」

 尋ねた女性にまず答えた青年は、すぐにアニエスに視線を戻して眉を下げると、その肩に掛かっていた白い布地をばさりと広げて忽ち羽織ってみせる。
 見苦しいと思うことは特に無かった、薄い布越しにも見て取れる引き締まった痩身を覆うのは、コックコートだ。もしかして、ビストロで働いている人なのだろうか──

「もしかして、何か依頼があるのかな?」

 と推測を立てるのと同時に、ボタンを留め終えた青年も推測を立てたようだった。そして、それは正しい問いだ。
 頷いて、そのまま口を開こうとしたアニエスに、彼はゆるりと首を振った。

「オレはただの居候だから、詳しいことは事務所の方にね。……それにしても、うーん」

 青年は、今度はアニエスを検分するような瞳をこちらへと向けた。その色にどこか緊張感を覚えて、背筋が伸びる。
 寝癖は、朝しっかりと直したから大丈夫のはず。服装は通っている《アラミス高等学校》の制服……少しこの街区では浮いているかもしれないが、学生の正装としては間違いないだろう。手元にあるのは、手土産のために寄ったケーキ屋の紙袋。靴は昨日ちゃんと磨いたし、靴下もズレてはいない。

 それらを上から順に、ゆったりと眺めて。最後にアニエスの顔に視線を戻すと、青年は微笑んだ。先までの緊張を拭ってくれるような、優しげな目だ。

「うん。大丈夫じゃないかな」
「え?」
「最初はギルドに頼め、とかなんとか言うかもしれないけど……“礼儀正しく”お願いすれば、最終的には頷くと思うよ。まぁ、オレのただの予想だけどね」

 だからほら、心配せずに行っておいで。
 悪戯っぽく笑った青年の言葉に背中を押され、アニエスは階段の方へと歩みを進める。一度振り返って会釈をすると、彼は柔らかい笑顔を浮かべたままで手を振ってくれた。

 踏板を自身のローファーが叩く音に耳を傾ける。やがて靴音は止まって、アニエスは一つの扉に向かい合う。
 『アークライド解決事務所 訳アリ客以外はお断り』
 連ねられた文字はそこが目的地であることを示していたし、自分は“お断り”される立場ではないのだと、言い聞かせるように頷き直す。不安も跳び越えて飛び込んで、それでも成したい想いがあるのなら──

 意を決して、ノックを3つ。そして間もなく、扉は開く。
 まるで必然の非日常は、その瞬間から始まるのだ。





「おはよ〜ヴァン!」
「おはようさん、ユメ坊」

 連れられてやって来たのは1階のビストロの店内で、足を踏み入れるなり抱きついて来た少女を受け止めながら、隣の男は──アニエスの依頼を無事に受諾してくれたアークライド解決事務所の所長であるヴァンは笑った。
 ユメと呼ばれた溌剌な少女は「歯みがいたー? 顔洗ったー?」などとまるで保護者のように彼に尋ねていて、そのませた様子がなんとも和ましいと思う。

「あれ、知らないお姉ちゃんー? こんにちはー!」
「ふふ、こんにちは」

 その大きく丸い瞳がヴァンの横に立つアニエスに気が付いて、キラキラと光って瞬きを落とした。なんとも可愛らしい子だ。

「あら、無事に会えたみたいね」

 続いてやって来たのは、先程外で会ったエプロンの女性だった。その髪色がユメと同じということは、少女の母親なのだろうか。それにしては、随分と若々しくて美しい女性に見える。
 先の礼も込めて改めて挨拶をしていると、そのやり取りにヴァンが少しだけ不思議そうな顔をした。

「なんだ、ポーレットと面識あったのか?」

 面識というほどの仲にも満たないけれど、初対面でない事は確かだ。素直に頷く。

「建物の前で迷っていたところに、声をかけてもらいまして。えっと、ポーレットさんと……あともう1人、男性の方に」
「ノアか?」

 ヴァンがその名を呼ぶと同時に、視界の端で灰色の髪の端が揺れたから。アニエスはふと、そちらへ目を向けた。予想した通り、そこには客に料理を運んでいる件の青年の姿があった。
 彼はその人の良い笑顔を以って配膳を終えると、ひらひらと手を振りながら歩み寄ってくる。

「こんにちは、さっきぶりだね」
「はい! 本当にお2人とも、ありがとうございました」
「ふふ、気にしないで。時々あることだから」

 再三に頭を下げると、ポーレットはくすりと上品に微笑んだ。どうやら解決事務所の立地については、アニエス以外にも戸惑う依頼者が多いらしい。
 分かりにくいものね、本当にね、と頷き合うビストロの2人に対して、ヴァンは肩を竦めながらも「良いカムフラージュだろ」と悪びれた様子はない。

「ったく、つくづく胡散臭い商売を始めてくれたもんだ」

 そこに掛かるのは、溜息混じりの太い声だ。厨房を向こうにするカウンターから会話に参加したのは中年頃の男性で、彼もまたコックコートを纏っている。
 ヴァンに軽い調子で「よう、ビクトルのおやっさん」と声を掛けられている彼が、どうやらこのビストロのオーナーなのだろうと察しがついた。

「って、そっちのお嬢さんは。……おい不良店子、まさか良い所のお嬢さんを誑かしてんじゃねえだろうな?」
「人聞きの悪い事言うなっての……真っ当な俺の依頼人だ」

 加えて、上の事務所の家主でもあるらしい。とは言え、その関係性は普通の貸主と借主の型に嵌めるには親しげなように見えるが。
 口では詰りつつも、ビクトルはアニエスが“何らかの”事情を抱えて裏解決屋を頼ったことを理解しているようで。深いことは聞かないまま、

「くれぐれも怪しい界隈を連れ回すんじゃねえぞ」

と、一言。ヴァンに向けて釘を刺すのだった。

「甘いモノも食べすぎないようにねー! ムシバになっちゃうぞー!」
「うんうん、ユメの言う通りだなぁ〜。──分かったな、不良店子!」
「分かった分かったっ。ったく、依頼人の前でやめてくれや」

 そして同じように釘を刺した可愛らしい声に、曰く不良店子はうんざりとした……とはいえ満更でも無さそうな表情で肩を竦める。やはり親しげな様子に、思わずくすりと笑みが溢れた。
 既にここを訪ねる前、地下鉄に乗っている時に感じていたような緊張は、とっくにアニエスの中から消え去っていた。裏稼業の人物だと怯えるには、ヴァンはどうにも親しみを持ち易すぎる。

 彼らの様子をしばらく見ていたポーレットも、「気をつけていってらっしゃい」と優しく微笑むと仕事に戻っていく。テーブル席の客へコーヒーを注ぎにいった母親を追いかけるユメのポニーテールが跳ねて、なんとも愛らしかった。
 どこか穏やかな気持ちのアニエスの横には、やはり柔らかな表情の青年──確か、ノア、とヴァンに呼ばれていた彼が、未だに立っていた。
 そういえば。その横顔にふと思い出して、手探りで「あの、ノアさん」と名前を呼んでみると、彼はアニエスを振り向いて「どうしたの?」と首を傾げた。

「教えてもらった通り、最初は遊撃士を頼れと言われたんですけれど……でも、無事に請けていただけることになったんです」
「ああ、やっぱりねぇ。そうなると思ったよ」
「ヴァンさんのこと、よくご存知なんですね」

 断るか、断らないか。その結果だけでなく経緯まで当てるなんて、随分と仲が良いのだろう。が、アニエスの言葉にノアは笑って、そんなのじゃないよ、と首を振る。

「単純に《アンダルシア》の紙袋を持ってたからさ。釣られるんじゃないかと思っただけ」
「釣られたわけじゃねえっての」
「とか言って、どうせ渡された瞬間に目の色変えたりしたんでしょ」
「ぐ……」

 いつの間にか戻ってきていたヴァンが、あまりにも的確に行動を言い当てられて言葉に詰まる。
 つい数秒前に仲が良いのだろうと予測したが、それは既に納得に変わった。そんなのじゃない、と言われたとて、現在目の前で交わされているやり取りを見たなら、あまりに事実は明らかだ。

 アニエスに向けていた優しげな声とはどこか違う。腕を組んだノアがヴァンに放つ言葉は、どこか小言じみた口調でありながら、気の置けない様子を滲ませていた。

「くれぐれも女の子を危険な目に遭わせないように。あと、ヴァンも無茶はしないでよ」
「わーってるよ」

 そしてヴァンの方も、ノアに対してはまるで本当にうんざりとしたように頭を掻いて、それでも素直に頷いた。
 つまり2人はよほど親しいのだろう。そういえば先にノアが、自身を「居候」と称していたが、つまり彼らは所謂ルームシェアをしているのだろう。その様子は友人同士というより、まるで家族のような──

「行くぞ」

 ヴァンは唐突に短くアニエスに声を掛けて、踵を返して扉の方へと歩き出す。その会話の終わりがあまりに突然だったから、思案を止めたアニエスは慌てて頷いて、その背を小走りで追いかけた。
 最初に店の外で話した時と同じように、一度ノアを振り返って会釈すると、彼はやはり人の良い笑顔で「行っておいで」と手を振ってくれるのだ。

 まずは情報屋の伝手をあたる、と言ったヴァンに連れられてバス停に向かう道中、アニエスは再び少しの思案を再開する。
 彼らの会話が唐突に終わったように感じたことへのちょっとした違和感に思い当たって、それを探ってふと気がついた。「行くぞ」も「行っておいで」も、どちらともアニエスに向けられていたことを。家族のような親しさだったのに、そこに存在していそうな挨拶の言葉を彼らは用いなかったのだと。
 仲が良いからこそ、自然とそういった言葉が消えていくことだって、もしかしたらあるのかも知れないけれど。

 ──でも、やっぱり、家族だからこそ。「行ってきます」って、私はいつまでも言って欲しかったな。

 ふと、そんななんでもない事を考えた。



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