◇reminiscence:月隠と悪魔 ヴァン・アークライドは、昏い森の中で息を潜めていた。月の無い、雨の夜のことだ。 人里離れたその場所に導力灯の光は届くはずもない。靴底が踏みしめた土塊の感触すらも幻ではないかと錯覚してしまうほど曖昧になって、指先から闇に溶けて消えていくような心地がした。 目を凝らしたとて、何が見える気もしない。けれど、手元灯を点けようとは思えなかった。 冷たく頬を打つ雨音の向こう側で、カサリ、何か音が聞こえていた。口に流れ込む水の味を、まるで苦々しく感じていた。ピリピリと、得体の知れない恐怖が皮膚を這っていた。 何より、人より“利く”と自覚する嗅覚が──否、そうでなくてもきっと感じ取るのは、そこに何かが居るのだという異臭だ。酸化し朽ちた鉄の匂い。それより生々しい鮮血の匂い。それらに覆い隠されながらも消えはしないのは、獣臭さとも言うべき脂の饐えた匂い。そして微かな焦げ臭さ。 “何か”が“居る”。それも、途轍もなく“ヤバい”何かが。黒く塗り潰された視界の向こうから感じる圧力に、雨垂れとは異にした汗が首筋を伝った。 だから、灯りは不用意に点けられない。相手に、こちらの存在を悟られてはならない。木陰に身を潜め、息を止め、ヴァンは彼方の動きに神経を集中させていた。 ──依頼を請けたのだ。危険で割りに合わないとも思える仕事を、つい、うっかりと。 《剣魔》。半年以上も共和国内の中で静かな恐怖の象徴として沈殿し続ける、変死事件の“原因”。人とも魔獣とも亡霊とも知れない、剣の悪魔と称される“何か”の正体を暴いて討伐を──あわよくば捕縛せよ、と。 遊撃士協会も、共和国警察も動いている。同業者も、それぞれが依頼主を異にせよ多く《剣魔》の捜索にあたっていた。 目的はそれぞれ違っているのだろう。市民の平和のために脅威を取り除こうと動く正義もあれば、なんらかの“手札”としてそれを飼おうとする者もいるに違いない。少なくとも、ヴァンの依頼主は後者にあたる。 その正体が何にせよ、“悪魔を飼う”だなんてゾッとしない話だと思った。が、依頼主があまりに“大口顧客”だったから、多少の交渉の末に業務を請け負うことにしたのだ。成功報酬は最低でも50万ミラ……長期に渡る調査と危険手当を考えたなら、妥当とも言える金額だろう。 被害情報を辿って捜索を始めたのは、約1ヶ月ほど前からだった。目撃者は存在しない。その姿を見た者は全て斬り殺されているからだと、考えるまでもなく予測がついた。 頼りになる情報屋から得た噂と直近の状況を鑑み、条件を満たしそうな潜伏先である森に踏み入る。とはいえ、これまでいかに目星を付けて探したとて手掛かりすら見つからなかったから、今回も無駄足になるだろうと予測していた。 が、その途中でふと妙な気配を感じて、灯りを消したのだ。嫌な臭いを、予感を、明確に手繰ることができた。 ……暗闇に慣れてきた目が、微かにシルエットを捉える。雨晒しすら意に介さず木に凭れるようにして蹲るのは、獣ではなく人影のように見えた。 動きはないが、眠っても、いない。張り詰めた空気が、“影”の意識が未だ周囲に巡らされていることを示している。静かに、次なる獲物を探しているのかもしれない。 あれが《剣魔》なのだろうか。判断する手段はどこにも無いが、少なくとも脅威であることは確かだと思う。 “影”から目は逸らさぬまま、泥濘を踏みしめ足場を確認する。咄嗟に蹴るには、問題ない。次いで、決して点けるべきではないと知っている携帯用の小型導力灯を取り出して、そのスイッチへと手を掛ける。 身軽さで勝負を掛けるなら武器を構える余裕はないから、身一つで決着をつけるしかない。が、懐のナイフの位置を“いざ”という時のために確認した。そして、溜息。それをそのまま深呼吸に変えて、丹田に力を込めて意を決する。 願わくば、5秒の後に自身の首と胴が繋がっているように、と。 「──……!」 手の中の導力器に灯りを点すと同時に、それを木々の隙間を縫った向こう側へと放り投げた。現在位置から、右に30°の方向。狭い梢を抜けて、暗闇の中にはあまりに眩い小さな光が、周囲に蔓延る夜を灼いた。 “影”が動く。静寂を切り裂いた閃光に驚いたように身体を起こし、そちらへと駆け出す。まるで獣のように本能的で、疾い動きだった。 同時に地面を蹴ったヴァンの足音を、雨が掻き消す。泥を踏みつける粘着質の水音が、地を叩く無数の音の洪水に紛れる。 光に気を取られていた”影“が、背後に迫ったその姿に漸く気がついた。手に握った棒のような何かを──導力灯に照らされて顕わになった、血に濡れた太刀を──この首に向けて振るうより先に、手首を掴んで、重心を崩してやる。 呆気なく、“影”は地面に転がった。 仰向けに倒れた身体を、馬乗りになって押さえつけた。いや、押さえつけるというには、それは一方的な行為だ。 倒れた衝撃で刀を取り零した“影”は、身動ぎもせずにヴァンを見上げていた。 灯りに照らされた“影”は、少年の姿をしていた。 齢は、15歳ほどだろうか。顔立ちから察した年齢と比較すると、跨り動きを封じた肩や腰や腕は骨と皮だけに痩せ細って幼く思えたし、茫洋とした瞳は幾年の無常を超えて達観しきった老人のもののようにも見えた。 伸び切ってぐちゃぐちゃに絡まった長い髪から漂う臭気が、口に入る雨すら錆の味がするように思わせる。束になったそれを固める糊の正体が“何”であるのかは、想像もしたくない。 無抵抗、ならば幸いだ。が、安心はできない。 意識を奪うために持ってきていた嗅ぎ薬を取り出したところで、“動いた”。 泥に汚れた顔が、唇が、微かに。 言葉すら伴わず、それでも確かに。 「たすけて」、と。 薬で意識を失ったその身体を、縄で拘束する。特に腕については厳重に、けれど筋を痛めないように気を遣って縛り上げる。 それからコートを脱いで、骨と皮だけの身体を包んでやった。雨で濡れそぼり泥汚れもあまりに酷くてゴミ箱行きが確実な代物ではあるが、拘束と──何よりも“それ”が身につけている、酷い色をした襤褸を隠すには十分だ。 肩に担ぎ上げた身体はあまりにも軽い。思わず眉が寄ったことを、自覚した。 一つでも条件を欠いていれば、自分は命を落としていたのだろうと思う。 もしも今日が月のある夜だったなら。星が見えるほどに晴れていたなら。身を隠すための闇も音も存在しなかったのなら。 もしも導力灯を投げるタイミングが一瞬でも遅れていたなら。手元が狂って灯りが木々を越えずに想定を外れた場所に落ちていたなら。駆け出す瞬間を違えてその刃が振るわれるまでにその手首を掴める位置にまで辿り着けなかったなら── “影”は影のまま、ヴァンの返り血で更にその髪を固めてこの場を去っていたのだろう。想像して、流石に恐ろしく思って、そして小さく首を振った。 あまり考えるべきではない。それは、今のところは避けられた“もし”の話なのだから。 転がったままの導力灯を拾い上げる。取り落とされた太刀を拾い、ヴァンは昏い森の中を歩き出す。 小さな光は、先の一瞬の邂逅には随分と眩く見えたのに、こうして先を行くための導とするにはあまりに頼りない。ともすれば遭難するのでは、などという不安すら脳裏を過ぎりそうになる。 靴の先から闇に溶けて消えていくような心地がして、足元が泥濘に取られる感覚すらも幻ではないかと錯覚してしまうほど曖昧になっていく。冷たい雨が体温すらも洗い流していく、月の無い夜の中で。 担いだ肩に触れる小さな“人”の温もりが、この場所が確かに現実なのだと唯一実感させる。たった今まで命の危機すら感じさせられた相手だというのに。なんだか、可笑しな話だと思った。 |